この度は大変結構なちぎり絵を送って頂き、誠に有り難うございました。美しいちぎり絵は私の部屋の上に飾らして頂いています。他の絵とも並べておりますので、大変賑やかできれいですよ。
今は病弱の体ですので、余り外出も出来ません。絵を鑑賞したり音楽を聴いて1日1日を過ごしております。思いがけもなくこんな立派な物を送って頂きまして、本当に有り難く感謝しております。
心の優れない時は速く遠くの山へ行きたいと思うこともありますが、こうして皆様の暖かい慰めによって残り少ない人生ではありますが、がんばっております。大切な絵を送って頂いた浦嶋様にも、どうか呉々も有り難かったとお礼を申し上げて下さいませ。
皆様もどうか風邪などひかれぬよう、元気でお過ごし下さいますよう、お祈り致しております。何時までもお元気でいらして下さい。
(2004年2月28日)
長い間、何時も何かと心に掛けていただき、有り難く思っております。
被災8年と言いますが、月日の経つのは本当に早いものですね。私もこんなつもりでなかったと思うくらいに長生きをしてしまいました。震災後は色々と苦労も致しましたが、ボランティアのお陰や神戸市の援助により、今日までやって来ました。終戦後に比べますと随分と幸福だったと思っております。
今はこうして市の住宅に入れていただき、一人暮らしで淋しい事はありますが幸福だと思っております。悲しい事には健康を損ねまして、体と心とが一致せず不自由な思いを致しておりますが、これは人として誰しも通って行かねばならない道なので、只今はすべて物事を割り切って考える様になりました。
余生少なくなりましたので、一日一日を少しでも心なごやかに、又人様に迷惑をなるべくかけない様に、何らかの楽しみを見付けていく様にしております。若い時より歌が好きだったのですが、仕事の都合上歌を歌う事もありませんでした。
最近、子供らが只今人気上昇中の新人歌手のビデオを持ってきてくれましたので、淋しい時には必ずそのビデオをかけて楽しんでおります。若い事は本当にすばらしい事と思い、小指ほどの元気さを味わいと思い立ち一日一日を大事に過ごしております。
何時も有り難うございます。どうかお元気でお過ごし下さいませ。
(2003年3月7日)
しばらくご無沙汰致しました。節分を過ぎますと何となく春の予感が致します。
本年は特に寒さを感じました。高齢のため又は風邪のためでもあったのかも知れません。寒さが骨身にこたえた様です。お陰様で只今は風邪も治り、元の様にはなりましたが、いくつかの病気を持っておりますので、特にこたえた様に思っております。
震災以来早8年の年月が過ぎました。何時の間にか特に考える事もなく、今は復興住宅に住まわせて頂き、やっと落ち着いた生活をさせて頂いております。静かな一人暮らしで当初は淋しいと思いましたが、今はやっと慣れました。淋しさより、これから先どのようにしていけば良いのか等を思う様になりました。
時折心臓発作に悩まされ、つらい時は一人静かに眠る様にと思っております。それは日曜翌日の日の時が多く、今は往診もなく大変に悩みますが、何もかも運命と今は割り切ってものを考える様になりました。
子供達はそう遠くない所に住んでおりますが、いざという場合にはとても間に合うものではありません。やはり人間は一人で生まれてきて一人でこの世を去っていくものだと思う様になりました。余り深く考えないで、余生を頑張って行く積もりでおります。
本日はちぎり絵を頂き誠に有り難うございました。
永眠出来る日まで何とか楽しみを見つけたいと思い、自分の好きな劇場なり一人か嫁と共にショーを見るように致しました。足が不自由ながら先日は一人で行く事が出来、久しぶりに楽しい思いをさせて頂きました。歩けなくともタクシーに乗り、エレベーター、エスカレーターがあり、どこにでも行けるような気分になりました。何もかも忘れて楽しみました。
(2003年2月13日)
ガタガタという大きな音を聞き、体の上に何か乗っかっていると思ったらそれはタンスでした。あらん限りの力でそれを押しのけて起き出し、外に飛び出すと近所の人5,6人ほどが外におられ、「大丈夫ですか」と声を掛けてくれました。そうして声を掛け合っているうちにどんどん遠くから大きな火が燃え上がってきて、段々我が家の方へ近付いてきました。あわてることなく貴重品を袋に入れて皆の行く学校へと向かって歩きました。
あれから7年有余の年月が経ちました。早いものですね。待って待ってやっとの思いで仮設住宅へ移り、3年居ましたが非常に元気だった私が外へ出た途端に倒れたのです。それから救急車で病院に入院しましたが、骨折でないので大丈夫と医者から言われましたが、思うように回復せず、4年余り仮設での生活を続けて、やっとの思いで神戸市長田区に帰ってくることが出来ました。
倒れた時は大したことないと私は自分なりに自信を持っていたのですが、寄る年波には勝てず、次から次へと体の調子は悪くなる一方で、今は心臓も悪く、時々狭心症の発作がかなりあって、その時の苦しさは何とも言えません。もうこれで人生は終わるのかと何度も思いましたが、一時的には収まったのですが、年も年なのでいつどこで苦しくなるかもわかりませんし、それに体全身のだるさとともに歩行が困難になってきました。
皆様は暑い中ですが、どうかお元気で頑張って下さい。ありがとうございました。
(2002年8月15日)
しばらく御無沙汰致しております。皆様におかれましては、健康でお仕事にお勤めのご様子、何よりに幸福と思っております。
私も震災以来早8年目を迎えました。思い出せば色々とありましたが、自分がいつの間にか高齢になっていることに気が付き、喜んで良いやら悲しんでいいのか分からない感じがしております。只今はお陰様で市住の一室で静かに一人暮らしをしておりますが、何しろ年齢と共に心身を病むことが多くなりました。今後如何にして、長かった人生の終わりを迎え、どのようにして終わればよいのかと一人悩んでおります。
私は元々余り明るい性格ではなく、何事によらず鬱の方へ心が働きます。残り少ない日々なので、何とか少しでも楽しみを見つけたいのですが、86年を数えてもまだ楽しみが見つかりません。幸いにして市の住宅へ入れて頂いたので、幸福だという思いはあるのですが、老後の一人暮らしはのんびりとしたときもあり、また寂しくわびしいときもあります。この人生の終わりを越えて別の道を歩くことは難しいようです。何事も自然に任せ、水の如く流れに任せていくことしかないようですね。
皆様若い人はまだまだお仕事や楽しみ事があります。人生は一回しかありませんので、出来る限り私のような鬱でなく、少しでも明るい方向で前向きに生きていって欲しいと思っております。
皆様いつまでもお元気で頑張って下さい。
(2002年1月20日)
平成7年に思いもよらぬ大震災に遭ってから、早6年の月日が過ぎました。早いものですね。ついこの間のような風景が目に浮かんできます。仮設は全て取り壊され、今は広い空き地となっております。一人で西神まで行き、ああこの地に住んでいたのだなぁと、当時はいろいろと言われましたものですが、やはり懐かしい思いでした。不自由ながらも4年と数ヶ月、よく頑張ったものですが、人々の優しさは今も忘れてはおりません。人間って、時と場合によっていろいろと変わるものだと思いました。
只今は幸いにも公営住宅へ入れて頂き、何の不自由もなく、のほほんとして日々を送らせて頂いております。行政の方々には感謝しております。新しい住宅なので申し分はないのですが、人の心は違っているようです。扉一つで隔てられ、お隣とは何の交流もありません。
震災から6年過ぎた今、自分もそれだけ年齢を重ねてきました。自分で自分の年齢を思うだけで、ぞっとする感じもします。何年生きられるのだろう、これからどんな生き方をしていけばよいのか等々考えることも多いです。働きもせず、年金生活故に、これといってすることもありません。私自身の考え方が不足なのかもしれませんが、年齢を重ねる毎に、人生のわびしさ、悲しさを特に感じるようになりました。
自分の人生を振り返り、一番辛かったことは、やはり終戦の外地からの引き上げでした。その後日本にたどり着いてからの幼い子供達との生活の日々…苦しさの余り、死を考えてみましたがそれも出来ず、夢中で働き、少し安定したかと思った時、大震災という思いも寄らぬことが起きました。人間七転び八起きといいます。子供を連れて働き通して、何とか少しずつではありますが、社会も大分落ち着いてきました。
今は子供達も一人前に成長、独立して、お陰様で人様に迷惑をかけることもなく、立派に生活している様子を見て、安心すると共に、おそってくるのは自分の老後でした。子供達が独り立ちする中で、残される者はやはり自分一人なのです。そのうち足が弱くなり、転倒して骨折はしなかったのですが、満足に歩くことは出来なくなりました。今は自由でどこへでも行きたい所へ気楽に行けるはずなのですが、そうはいきませんでした。足が動かなくなったのです。これも人生なのでしょうね。
申し遅れましたが、ちぎり絵有り難うございました。大事にして飾っておきます。
(2001年3月14日)
阪神大震災以来、早5年の月日が流れ、年齢もそれだけ重ねたわけで、私も本当のお年寄りという事になってしまいました。長い仮設生活の中で、不注意にも怪我をしてしまい、心身共に変わりました。幸いにも、市営住宅に転居致しまして、只今は一人の生活にも慣れました。生活も一寸落ち着き、これで健康であれば何も申し分ないのですが、転倒して以来、高齢の事もあり色々病気が出てきました。今は毎日が病院通いで、何を考えて楽しい余生を送ればよいのか、わからないようになりました。
仮設ではふれあいセンターというところがあり、色々と横のつながりもあったのですが、今の復興住宅では何もありません。隣近所も皆扉一つ、閉められたままでお話をする事もありません。時折福祉の方が訪問されては来ますが、ただそれだけで老人の一人暮しは寂しいものです。
病気の為に余り外出も出来ないので、毎日テレビのニュース等で社会の出来事を知っている位です。私の人生も終わりに近くなってきましたが、現代の日本社会には、私ども老人には理解の出来ない事件があまりにも多いように思います。真面目に人生を生きておられる方も多いと思いますが、余りにも悪人の多すぎるように思います。
青少年をはじめ、役人、教育者等にもう一度、しっかりした教育をし直してもらい、美しい日本国又、恥ずかしくない自慢の出来るような国にしたいものと思っております。今は誰を信じて生きて行けばよいのか、わからないような状態で、悲しく思っております。私は復興住宅を市より与えられて、それは感謝しております。もっともっと、皆さんが努力して老後の生活が不安のないようにして欲しいものと思っております。
(2000年8月4日)
被災以来、早5年の月日が経ちました。たったこの前のような気持でおりましたが、只今は市当局のお陰により、神戸市内の恒久住宅へ引っ越し、一人暮らしの寂しさはありますが、毎日落ち着いた生活をして致しております。
被災してから色々ありました避難所生活、それから仮設住宅の生活等と、人はその時その時により、体が環境についていくようになったようで、ようやく今日まで生き長らえてきました。恒久住宅へ入居し、落ち着いた安らかな生活をと望んでいたのですが、街でのマンション住まいは、部屋に入ると誰もいないし、又誰も来ない。最悪の場合は、一日中一言も言葉を発しない日もあります。長い人生を生きてきて、最終的には人間はこんなものかとも思ったりしますが、これは私の思い違いであって欲しいと思っております。
ようやく暖かくなり、外へ出掛けることも出来るようになりましたので、努めて外へ出て、人との触れ合いを持つように心掛けておりますが、何分にも仮設生活での怪我が元で、年齢と共に充分に歩くことが出来なくなりました。残念ながら、ショッピングも思うように出来ませず、すごく悲観的になるときも多くなりました。しかし、人はやはり最後まで堂々として生きて行かねばならないと思っております。
老人向きの集会とかボランティアの訪問とか、一寸そういったものは欲しいのですが、私の住んでいる所には何もない、何の声も聞こえてきません。見方に依れば寂しい一人暮らしですね。被災したしないに関わらず、老後は寂しいものです。
(2000年4月10日)
西暦2000年を迎えまして、おめでとうございます。
しばらくご無沙汰いたしましたが、お陰様でぼつぼつですが、生活致しております。一昨年腰を打ちまして、一時入院を致しました。昨今では、もう腰の方は大分良い方向に向かっていると自己判断を致しておりますが、年齢のせいか、体全身が無気力のような状態で、余り遠くへ出歩く事は出来ません。折角長田へ帰って参りましたので、あちこち歩いてみたいのですが、残念ながらそれが出来ないのです。毎日の食料品とかその他の必要な物は、知人に頼んだり、車を利用したりして用を足しておりますが。
いつもの一人暮らしなので、寂しいと思う事は当然ですが、何ら目的とか希望とかいったものはありませんので、毎日をぼんやりと生きているだけのように思えば、自分ながらどうしようもなく不安に駆られてきます。
全くの健康という事はありませんので、歯が悪ければ食物が十分に取れず、体力も弱ってきているので、外出をすればすぐに風邪をひいてしまいます。その風邪も若い時と違い、いくら薬を飲んでも1週間では治りませんので、風呂にも思うように入れないなど色々と都合の悪い事が多くあります。
仮設からマンションに引っ越しましたが、誰一人言葉を交わす事もありません。これも侘びしいと思いますが、人生長く生きていて、色んな人との出会いがありました。人は様々です。人の心を動かす事は難しいので、最近は何もかも割り切った物の見方をしております。良い住まいを提供して頂き、一人暮らしののんびりさなど、良い方向へ考えていく事に致しました。
高齢者なので出来る限り物事にこだわらず、いつも安らかな気持を持つように努力いたしております。若い時はああだったこうだったと思う事もありますが、人生もう残りも少なくなってきております。少しでも楽に生きていきたいと思っております。我が家は倒れてなくなりましたが、新しい家を与えて頂き、一人暮らしにはもったいないと思っております。外地引き上げの時の苦労と震災とで長い人生の中苦労は致しましたが、只今は静かなのんびりとした生活を与えて頂き、心から感謝致しております。これから先、なお不安は多いようですが…色々とありがとうございました。
(2000年1月3日)
しばらくご無沙汰いたしました。月日の経つのは早いもので、震災以来早4年と数カ月が過ぎました。高齢の身ながら、4年数ヶ月の長い月日を仮設で過ごし、本年の2月上旬、やっとの思いで神戸市長田区の方へ引っ越すことができました。
どちらかと言えば元気で、毎日のように買い物や散歩等に出掛けておりましたが、不用意にも玄関前でひどく腰を打ちました。痛くて痛くてどうしようもなく、救急車をお願いして地方の病院へ入院しました。いろいろと検査をして頂き、骨折はないということで2週間入院の後退院しました。痛み止めその他の薬を服用しつつ通院しまして、一人暮らしのものでヘルパーさんをお願いして不自由な生活をしつつ、市営住宅への転居通知を待ち続け、やっとの思いで引っ越すことができました。相変わらず腰の痛みは取れず、おまけに風邪まで引いてどうしたらよいのかと心配しましたが、子供夫婦と引っ越し屋さん2人に手伝ってもらい、引っ越すことができました。新居はマンション形式ですので、一軒一軒独立していまして知人も少ないために言葉を交わすこともありませんでした。どこに居ても一人暮らしですので、淋しさは変わりません。
腰を打ってから随分歩く稽古をしたのですが、やはり年齢には勝てないことを自覚しました。せめて市場まではと歩いてみましたが、若い時は訓練である程度良くなるものなのですが、もう歩くことは無理なようです。何もかも年のせいと思うと淋しいです。
一時はうつ病のようになりまして、何もかもいらない、早く人生を終わりたいとばかり思っていたのです。こればかりはできませず、気分を全部割り切って物事を考えていくようになりました。新しい住宅に移れたので、一生懸命にがんばって生きていくつもりでおります。
(1999年8月15日)
度々かみひこうきよりのお便り、誠に有り難うございます。
復興住宅へ引っ越し以来、何かと整理している中3ヶ月の時が経ちました。今はこれといってすることもなく、掃除と洗濯等日常の平凡な日々を送っております。
いまだに一度打ちました腰の痛みは簡単に取れそうにありません。不自由ながらも皆々様のお助けにより、ゆったりとした気持ちで静かに生活させていただいております事を神戸市を始め、ボランティアの方々に深く感謝いたしております。80年余りの人生を静かに振り返ります時、やはり感慨ひとしおでございます。
悲しい敗戦の経験をも乗り越えてきましたし、働いて働いてようやくにして取得した家も震災のために未練を残して出ていくことになりました。その折は非常につらい思いを致しましたが今は十分な家を提供して頂き、老後の寂しさはありますがこれが私の人生…4人の子供に恵まれましたが、皆それぞれ成長し社会人として頑張っております。
平凡ながら幸福に家族と生活を致しておりますので、私も老齢でありますが余り子供達の負担を掛けないように、周囲にも出来るだけ世話も掛けないよう一生懸命体に気を付けて人生を終えたいと思っております。
皆々様どうもありがとうございます。どうか元気で社会のために頑張って下さるよう祈っております。
(1999年5月20日)
何時も何かと心に掛けて頂きまして、誠に有り難うございます。
被災以来早4年の月日が経ちました。不自由な仮設生活を経て本年の2月上旬にやっと市街地のマンションへ引っ越す事が出来ました。その間倒れて腰を強く打ち、しばらく入院する事になり、その上に風邪を引いてしまいました。普通であれば1週間もすれば治るはずの風邪がなかなか治らず、ここまで持ってきました。荷物の整理や色々な手続き等々周囲の人々にお世話になりつつ、やっとの思いで落ち着いてきました。
引っ越し後の定住地も色々不満はありましたが、神戸市も多くの人々に住居を与える事は大変だったのだと思うようになりました。私は自分の家を失った時は涙が出ましたが、沢山の費用を掛けまた手間を掛けて多くの被災者のためにして下さった市の皆様に感謝を致しております。今はやっと心も落ち着きまして、思うままの生活をしておりますが相変わらずの一人暮らしなので、寂しさは変わりません。
お天気の良い日は外へ出ていきたいと思うのですが、腰を打った後遺症とでもいうのでしょうか、また高齢の為もありましょう、遠くまで歩く事が出来ませんので、買い物などはすぐ車を利用してしまいます。しかしこれも私の運命でしょうから、何事も諦めて川の流れに従って生きて行くだけでしょう。灯の消えるまで。
皆様のお心掛けに感謝しております。
(1999年4月24日)
一瞬にしてわが家が全壊して仮設へ来て早3年の月日がたとうとしております。短
かったようで長かった月日をただ黙々と生きてきたのですが、見知らぬ多くの方にお
暖かい励ましのメッセージを頂き感謝しております。仮設の毎日は静かで車の音も人
の声もあまり聞こえないさみしい孤独の生活です。時折、神戸の元の住宅地へ行って
は懐かしい思いを残して帰ってきます。神戸の待ちも少しづつではありますが復興し
てまいりました。
しかし、被災者への公営住宅の建設はだいぶん遅れているようで未だ数万の人々が 仮設での生活を余儀なくされています。不自由と言えば不自由。有り難いと思えば有 り難い仮設生活ですが、特に高齢者にとっては一日も早く安定した生活がほしいもの です。公営住宅への入居は大変難しいようです。
今はただ、雨露をしのげるところがあるのだから気長に待つしかないのです。多く
の方々の励ましのメッセージありがとうございました。頑張って生きていきます。
(1998年1月7日)
被災以来早3年近くの年月が経ちました。
何となくあのすごかった震災を少しずつ忘れかけているような気が致します。私共は未だ仮設という家で取り残されたような気持ちで、何だか淋しい思いで過ごしておりますが、皆それぞれに家を再建されたり又は市営公営の住宅に引っ越されて行きました。9月末には又公営住宅の募集があるようですが、抽選というのは当たる人当たらない人が出来ます。私はいつも後者の方に入るようです。早く恒久住宅に入って落ち着き、それなりに持ち物を整理して、ささやかながら望みを持っていきたいのですが、これも運次第で余り期待は出来そうにありません。
今はすべて成り行きに任せるような気持ちで生きているような感じです。私の長い人生も色々とありましたが、早残りも少なくなっております。たとえ2、3年でもより充実した、僅かでもいいから希望を持って生きていきたいと思っております。
(1997年8月27日)
思いがけぬ震災にあいまして何が何だかわからない状態がしばらく続きました。崩れ落ちたわが家を眺めあそここちらと修理や改築等をしながら自分の最後の住処だときれいにしました途端が全壊でした。危ない家の中へおそるおそる入り取れるだけの荷物を取りまして仮設へ来ました。わが家を後にした時、永年お世話になりました家へ向かって手を合わせ涙をぼろぼろと流して振り返り振り返り未だ見ぬ方向へとやってきました。
仮設の方々は皆温かい人ばかりです。不自由ながらようやく慣れてきましたが、何時までもこうしている訳にはまいりません。今は一日も早く恒久住宅へと願っております。市営住宅の抽選のやり方が解りません。高齢者優先と何時も書いておられます。若い人つまり60才台の入居が早く当たっております。出来る限り公正に、しかも迅速にやって下さい。
西神は空気も良く景色も良いところですが物価が非常に高いところです。百貨店で野菜その他食料品を買う事が無理です。食品を買うのはやはり市場で安くて新しいものが第一です。
早く神戸へ帰らせて下さい。市営住宅をもっともっと早く造って下さい。贅沢を言うようですが、ウサギ小屋は造らない方がよろしいかと思います。新・神戸は国際的な神戸です。経済的に大変とは思いますが、神戸の住民が胸を張って生きて行けるようにして下さい。ワンルームが沢山出来ているようですが荷物が入りません。永年税金を収め苦労してきましたが、せめて最後には少しだけゆとりのある生活を楽しみにしております。
老齢者は多くが年金少ないです。生活援助は絶対に欲しいものです。奥尻、雲仙なみに是非同等の支援を心から国へお願いしたいと思います。私は人生残りわずかです。少し落ち着いて神戸に住んで良かったと思わせて下さい。終戦後外地(朝鮮)より3人の子供を連れて38度線を夜となく昼となく歩いて歩いて帰ってきました。終戦以来50年神戸で暮してきました。神戸の街を美しく活気ある街にしたいと私は思います。
(1997年4月20日)
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