今田 寿史さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:81才男性 職業:なし)


 神戸の大震災から17年経ちました。その間記憶に残ったのは鹿の子台仮設住宅に2年間住んだことでした。悔しいことや悲しいことばかり続くのではないかと想像していましたが、そんなことはなく、清潔で美しい大自然の環境に恵まれた日々を送らせて頂きましたこと、まことに感謝にたえません。
 春はタンポポの花が荒野一面に咲き、赤トンボの群が大空一面に飛び交い、空を茜色に染め上げ、秋はススキの大群が重なり合って咲きほこり、地平線の果てまでも白い絨毯をしきつめたように銀色にまぶしく輝いていました。

 今回の東北の大地震の惨状は夢にも思いあたらなかったです。ガレキの山のあるなしが、こんなにも違和感を作るのか?このガレキの山は恐ろしいことにあまりにも膨大であり、あまつさえ放射能を含んでおり、死の灰に汚染されたままになっている。この悪因悪果は未来に向けて持続され、その苦悩は増えていくのでしょうか?
 仮に今もしガレキの上に降った雨がガレキの下からもしくは側面からしたたり落ちて、小川や池に流れ込み、その水がまた水田に流れ込み稲作に影響し、米が放射能を含み、米を食べた人が汚染されはじめるとどうなるのか?またはガレキに降った雨が蒸発し、空中に散らばった時、いっしょに放射能セシウムが空中感染するのは間違いない。
 空中にばらまかれたセシウムが人や動植物に口から入り、または皮膚から体内に吸収されるのは間違いないでしょう。

 広島長崎の原爆、そして被爆以来ずっと放射能から解放されず、放射能に喰いつかれたまま今日に至るまでいまだにその脅威にとりつかれ死神につきまとわれ続けていながら、それでもまた再稼動せよと言って拍手する人達の未来はどうなるのか、考えただけでもゾッとして血の気が引いていく気がします。
(2012年6月11日)


ある少年のミステリー紀行 2

 思いきって歩こうか、しかしころんだらもう立てないかも。体力は極限に来て足の力はゼロです。足に感覚はなくだるい苦しいすわりたいと思うばかりでした。今すわったらもう二度と立てないぞと思いました。なんとかしてこのまま動けたらいいのにな、と思いましたがどうすることも出来ません。人っ子一人歩いていません。助けを呼ぶことができません。〜しかし〜思いきって電柱を放しました。最後の決断でした。

 恐怖で倒れそうになりながら、一歩ずつ小さくゆっくりゆっくり歩きました。ふらつく足を踏みつけながら踏みしめながらそろりそろりと歩きました。どの位歩いたでしょうか?手は膝上に当てたままでした。もう立っているのが辛くて我慢しきれなくなり倒れてしまおうかと思ったその時、両眼になつかしい農家が見えてきました。農家は二軒並んで立っており、その間を通りぬけると我が家がきっと見えてくる筈です。

 やっと来ました。二軒の農家の間まで来ました。見えました。なつかしい我が家を見ました。ポーッとあかりがついていました。足をさすりながら夢中でよたよたと飛び込みました。障子をあけると畳がひいてありました。畳の上に夢中でうつぶせに倒れました。頭が割れるように痛く、声がかすれて何も言えません。奥から母の声がしました。
 ”いさおか?…ごはん食べなきゃ”という声でした。彼は声が出ません。かすれた声で”ああ…というのが精一杯です。そのまま仰向けになりいつか眠ってしまいました。頭痛と疲労から眠ってもすぐに眼がさめます。それを繰り返すばかりです。

 それから4日くらいして学校へ行けるようになりました。足も元気が出てきてゆっくりと歩けるようになりました。当時この村は無医村です。無医村はいたるところにあったのです。

 富山湾にはさめはいません。大型の亀もしゃちもいません。大型魚といえばブリが1種類だけ回遊しています。大きくなると3メートルは優に越えます。でも彼はブリを食べません。命の恩人と思うからです。彼は時々天空を見上げて祈っています。
 ”ブリよ有難う。神様のお使いをしてくれたんだね…。”と
 学校は小さくきたなくいやらしく、又又転校させられました。戦争は益々激しく東京空襲から広島・長崎と原爆が続き食糧難から大混乱になりました。彼も中学二年になってやっと敗戦になりました。もう過去はうち捨てて幸せに向かって進みましょう。
(2010年12月18日)


 ある少年のミステリー紀行

 当時9歳だった彼は小学校の4年生でした。夏の暑いさかりの日、海へ行きました。誰も海に入っていません。彼は遠浅の海に入りました。そこは富山県打出の浜といいます。彼はフンドシになり、海の中へ入ってゆきました。50mもいったでしょうか?丁度そこが遠浅の終点でそこから急に深い「がけぶち」となり、深海になるのでした。
 彼は泳げません。ドスンと落ちた時は必死でした。もがきました。両手両足をばたつかせるだけで体は動きません。水を飲みました。容赦なく海水が口から入ってきます。胃が一杯になるのにそんなに時間はかかりません。海水は肺に侵入し始めました。ゴクンゴクンと肺に入り、苦痛でのたうち回りました。「助けて」と声にならない声で叫んでいました。やがて肺は海水で一杯になりました。体が重くなったせいか沈み始めました。でも眼はよく見えていました。崖っぷちは大きな石が4つ重なったように見えていました。もう手も足も動きません。両手を挙げた姿勢のままで沈んでゆきました。「もう死ぬね…」と思いました。体力も尽き果て、手足も硬く、首も動かず苦しみました。

 突然背中にゴツンと何かがぶつかりました。続いてまた一つ固いものが激しくぶつかりました。そして何者かに腕をくわえられ、上に放りあげられたのです。すぐまた腕をくわえられ、上に引き上げられました。続いて右腕もくわえられ、浅瀬に上げられ、浅瀬の中を砂浜に向かってグングン早く移動しました。両手両膝が地面につき、四つん這いになったところで、両手両足が解放されました。彼は砂浜に向かって、そろそろと動き始めました。体力も尽き果て、手足も固く動かず、首も回らず、苦しみました。両手がだるくて体を支えきれません。しかし、夢中で這っていきました。
 やっと砂浜に上がった時、もうくたびれ果ててうつ伏せに倒れてしまいました。胃から海水がどっと出ました。何度も出ました。次に肺から少しずつ海水が出始めました。少しずつ、少しずつ出てくるんです。同時に呼吸も少しずつ少しずつできるようになりました。やっと肺の中の水もほとんど出尽くして、体が少しずつ回復し始めました。あたりはもう暗くなり始めていました。

 やっと自力で砂の上を動きました。脱いだ服のそこまで行き、服を着ました。そして砂浜から出ようと這って行きました。電柱が立っていました。電柱にしがみつきました。続いて2本目の電柱にしがみつきました。次に3本目にしがみつきました。4本目の電柱はどこにもありません。これから家に帰るのにどうしたらよいだろう。まだ歩けません。足が硬直していて痛いのです。日はどっぷりと暮れていく。しかし、早く帰りたい。(つづく) 
(2010年10月17日)


 いよいよ女権時代の幕開けですか?
 大東亜戦争無条件降伏した次の日から、男性優位の時代はひっくり返り、女権時代になったのです。それに気がつかない日本国民はやたら野蛮な行動を繰り返して来ました。女性も気がつかずに何十年も過ぎました。そして25歳になると「行き遅れだぞ!」と、オールドミスになったらどうしようか、等はかなくも悲しい悲鳴を上げていました。男女同権という分かったような分からない用語をこしらえて、国民に押し付けました。

 しかし、今、平成20年にきて初めて、国民は目覚めたのです。ビルの会議室にも灰皿が消えました。あっ!と言う間でした。道路にも吸殻が消えました。煙草中毒者は人のいないところを探して、ひっそりと隠れて吸っているようです。
 70歳の美人がスカートをはいています。母親は小さな子どもを連れて、ミニスカートを履き、臆面なく悠々と歩きます。それが普通になりました。誰でもスタイルに自信があれば、平気で美を競う時代ですね。女性が羨ましい限りです。

 それに比べて男性は、今も昔も変わらぬ太めのズボン、上衣にネクタイが最高の服です。そして、リストラ、または首きり。全くいいところがありません。今、婚活が始まりました。結婚するでもない、しないでもない、同棲するでもない、しないでもない。とにかく、相手をよく知ることが大切です。それには一緒に暮らしてみましょうか?…というわけで婚活が盛んになりました。
 男女両方とも仕事を持っています。それでうまくいけば大丈夫。結構なことですが、ただ始めから子どもを作れば大変です。妊娠しないよう最大の注意を払わなければなりません。

 HAT神戸でも男の子が生まれました。その後女性が家出してしまいました。幸い父と子は2人で仲良く2人で暮らしています。始め、介護の人が2人来ていましたが、大丈夫と判断して2日目に出て行きました。
 その家の前を通ると子どもがよく話しかけてきます。「お母さんは?」と聞くと「知らない。はじめからいない」と言います。母親のいない子どもの寂しさがよくわかります。元気で丈夫に育ってくれと祈るばかりです。
(2010年8月14日)


 神戸市立婦人会館では今でもダンスパーティをやっています。
 5Fの広い広場は横に長く伸びています。両側にずらりと女性が並んで腰かけて男性を待っています。うっとりひっそり女らしいまなざしで、秘めやかな幸せを心に、ときめかせています。服装もまちまち。汚れのない真っ白な服、夢見るような淡いピンク色の服、澄み切った青い色の服。さまざまな色がとけ合ってやさしい時が流れます。

 やがて男性も多く入ってきて賑やかに楽しく踊り過ぎていきます。素敵な男性が次々に現れてカップルになり、素敵なダンスパーティが展開されていきました。
 恐ろしかった地震のことなど、すっかり忘れたような晴れやかな一日でした。恋のキューピットが現れて恋の矢を射てほしそうなカップルもいました。しっとりとした愛情に包まれて、花の精が喜んで踊っているような、楽しいムードを盛り上げているような、カップルもありました。おしゃれな女性達がしっとりとした時を過ごしていました。
 流れてくるダンス音楽も、幸せと楽しさに満ちたものばかり。日本の歌あり、外国の歌あり、みんな楽しく踊れるものばかりでした。
 5時がきてラスト「蛍の光」が流れます。楽しかった思い出は心のノートに残しておきましょう。つらいことや悲しいことがあった時、そっと思い出せるように・・・。

 帰りは2人で喫茶店に行く人や、「駅までご一緒に」と連れ添う人や、男女3人ずつ団体でにぎやかに話し合う人、さまざまです。「今日は疲れたわ、コーヒーでも飲んで帰りましょう」という声も聞こえました。
(2010年6月19日)


 人生はまたくまに過ぎてゆく。そんなわずかな時間がわれわれ一人一人に与えられた永遠なのだ…、とポールゴーギャンが書いています。
 美しく永遠に続く青い空、きれいな空、あかるい空の中に咲く愛の花のようでありたいものです。時の流れには岸がありません。太平洋をゆっくりゆっくり歩いてみたいです。ひとりぽっちの人間群は未来に向かって夫々舟をこぎつづけていきますよ。

 とにかく今年の冬は寒かったですね。4月末まで寒さが続いていましたよね。そんな中でも若い男の人はやさしさと愛に満ち溢れていました。女性は寒さを我慢しながら、ミニスカートをはいている人が大勢いました。やっと冬が終わって木の芽もつぼみも一斉に顔を出し、太陽の下で遊びたわむれて、大きくふくらんでいます。

 「さかなを食べると頭が良くなるってほんとかな」今、TVで医療機関がさかんに注意を促しています。背の青い魚がよいとね。動物(牛・豚)の肉は栄養満点だけど、食べ過ぎるといろんなリスクがあって、肝臓にも悪く、脾臓・腎臓などに影響悪しと言われています。女性にとってもシミやソバカスなど助長されるとか。だから魚に向かっていく方がよいと…。

 戦争中レイテに行った人はカエル、ヘビ、カタツムリなどを食べた。玉砕した島々と守備隊の人々もそうであったと聞きました。今は高齢化社会となって、長く生き延びる人が多くなりました。青魚や白身の魚のことまで心配するという文明文化の時代に突入しております。宇宙旅行の計画まで出て参りました。随分変わりました。こんなにも早々と日進月歩するとは誰が考えましたか?あまりの変わりように驚くばかりです。あまり早く変わるので、ついていけるのか?と何やら不安です。
(2010年5月5日)


 大震災から数年たった時、人々の心は再び変わり始めていたのです。地震の前の様にとげとげしく変化し始めていたのです。仕事の面でもお金の面でも競争競争。何でもかんでも競争社会へと変化し始めていき、エスカレートしていったのです。同時にボランティアの若い人達がいつの間にか消えてしまいました。あぁ、もう一度あの人達に会いたい。そして親身になって世話して下さった方々にお礼が言いたいといつも思っています。

 大震災から15年。今度は若いホームレスの炊き出しで100〜200人が行列していると新聞が写真入りで報道してました。神戸大震災の時は並んでも多い時で10人位でした。それに比べれば今回の派遣切りにより生じた炊き出しは悲惨です。たった一年で派遣の契約を解除されるのです。阪神大震災とは似ても似つかない恐ろしい現実です。悲しい現実です。

 大震災から15年。あの時いた人達はみな15年歳をとりました。今、また、この不況に見舞われました。介護する人も真剣に取り組んでおられますが、思ったように中々進まない状況です。それ程今の不況は深刻かつ複雑です。15年もたつと高齢者がどんどん増えました。大震災の時若かった人も、今は高齢者になりました。

 終戦直後の東京駅は悲惨でした。それとよく似た現実の悲惨さが現出しているのです。歴史は繰り返されると言いますが、あの時の東京空襲以上の悲しむべき悲惨さが所々ににじみ出ているのです。“大学は出たけれどホームレス”とか、“先が見えないけど生きている”とか、“希望がなくて年齢ばかり重ねている”とか・・・。
(2010年2月8日)


 “間欠跛行(かんけつはこう)”という病気、ご存知ですか?………。足がしびれて一歩も歩くことが出来なくなる病気です。この病は突然起こったりするので要注意です。こんな時はしゃがむしかありません。しゃがむと数秒で痛みがとれます。又元気を出して歩けばよいのです。足がしびれて激痛が起こります。治る時は4秒位でとっても気持ちよく痛みがとれていくのが体感出来ます。しびれも消えます。
 この病気を治すには、殆どリハビリしかありません。リハビリは正しい姿勢でゆっくりと歩行します。1日30分毎日歩くと突然治ってしまいます。人によっては様々ですが、1カ月もリハビリを続ける人もいれば、半月位で治る人と様々です。

 足に筋肉がつき、足の筋肉が出てくれば、早く治ります。足はかかとから着地します。歩く時はO脚(ガニマタ)とならずに、ゆっくり歩きます。そして次第にスピードをつけて歩きます。私は半年位リハビリを続けました。そして或る日突然治りました。以前のままの歩行になったのでした。足も強く、軽くなりました。
 どんなに嬉しかったことか。天にも昇る心地でした。そして足が強く、少し太めになった様でした。それ以来、ずっとリハビリを楽しく続けています。

 1日30分、毎日、雨の日は家の中を歩いたり、体操したりしています。片足1本立法やスクワット、寝返り法から立ち上がり法、等々です。立ち上がりは失敗すると転倒して腰を痛めます故、要注意です。私もよく失敗して転倒しています。怪我はしませんでしたが、あぶない所でした。“急がば廻れ”をつよく感じています。
(2010年1月22日)


 鹿の子仮設にいた時、一度遊びに来たU子さんとK子さんが月に1回来るようになりました。HAT神戸の西側にある、とても大きな広いロイヤルホストです。そこで毎月1回会うことになったのです。10時半頃から午後3時半頃まで5時間位話し込んでいます。14年間もたつのですが、1か月に1回だと懐かしくて貸切になってしまうのでした。それにしても、2人共14年前とちっとも変らず健康で美しく若々しく着飾っています。

 私はHAT神戸に来てから左足が「間欠跛行」という症状になり、膝下が急にしびれ痛くて歩けない状態になり、立ち止まってしまいます。すぐにしゃがむと4秒位で痛みがスーッと消えてしまいます。それが何とも言えないいい気持ちなのです。目に見えて痛みが消えるのがこんなに快楽なんだと思い始めました。しかし、あまり痛みがない時しゃがんでも痛みは取れません。不思議なものです。
 名医が言いました。「痛みやしびれと上手に付き合って焦らずゆっくりリハビリを続けていきますといつの間にか治ってしまいますよ…」と。

 私はそのつもりで毎日歩いています。「間欠跛行」という症状はリハビリしかありません。そのリハビリとは歩行訓練です。毎日雨の日も風の日も。晴天なら極楽、大雨なら中止。ゆっくりと正しくO脚にしないで膝と膝がすれ合うようにつま先を上げて踵から着地。首を上げて、眼を上げて、地平線を見る様に、腰から上はごく自然体で腰から上は板のように真っ直ぐに、大股にせず手は普通通りにして歩きますと楽しくなって来ました。歩くのが楽しく苦痛になりません。
 私の身体はだんだん軽くなり、スタイルもよくなってきました。
(2009年12月15日)


 “源通”という散髪屋さんでした。ある日私の家に「こんにちは」というさみしい声がしました。ハイハイとオバーさんが出ました。源通のお母さんはおばあさんの胸に飛び込んで泣きました。今迄こらえていた感情が一気に吹き出したのです。一番大事にしていた長男の息子が帰って来たのです。死んで帰って来たのでした。その年の二年前、赤紙が来ました。長男は兵隊にとられ敵の弾に当って死んで帰って来たのでした。軍隊が遺影を中心に5人位鉄砲を持って3人ばかり、刀をぬいて捧げつつという格好で悠々と町の中を行進しました。

 赤紙が来た時は万歳々々の声に町中が日の丸をふって喜びました。中学生、女学生が先頭に旗を振り、軍歌を歌って行進し、その後在郷軍人の方や国防婦人会のお母さん達や子供がついて廻りました。駅のホームは人で一杯になりました。とても賑やかでした。私も何だか分からず旗を振って手を振っていたのでした。まだ子供でした。

 その源さんが今帰って来られたのです。物言わぬ死んで帰られたのです。源通さんの店の前で皆止まりました。刀をもった軍人さんは一斉に捧げつつしました。鉄砲をもった軍人さんは空に向かって一斉に空砲を鳴らしました。ドン、バカン、大きな音でした。島村(源通)二等兵は二階級特進して上等兵になったのでした。源通さんのお母さんは暗くなるまで居ました。

 源通さんは長男とまだ4才位の女の子とお母さんと3人暮らしだったのです。まじめに一生懸命に働く長男をお母さんは頼りにしていたのでした。

 私が部屋に入っていくとおばあさんはあっちへ行けといいました。源通のお母さんは私に「死んだらあかんよ!死んだらあかんよ!!」と涙ながらに訴えていました。
(2009年12月19日)


食生活の改善はすごい勢いで進行していますね。それと同時にどこへ行っても禁煙です。街中も道路も煙草の吸殻一つ落ちていません。
 これには驚きました。こんなに早くアッ!という間に変わるなんて、誰が想像できたでしょうか?想像は出来なかったと思います。
”タバコは百害あって一利なし・・・・"と医療機関の誰宛ての宣伝もなしにTVで言葉少なに宣伝しているわけでもないのにそれを聞いた人が想像以上に見かけ以上に大勢いたという証拠です。また殆んどの人がそれを納得してしまったのですね。

 会館という会館から灰皿という灰皿が一瞬のうちに消えました。しかし誰一人として文句を言いません。それでも吸いたい人はかくれて吸ってはいます が、吸殻は落としません。中毒になった人達だけがほんの少しいて人目に付かないよう、隠れて吸って吸殻はポケットにしまい込んでいるのでしょう。また中毒 の人や一日20本以上も吸っていた人が突然ほんとうに突然禁煙してしまったのです。私はその人を知っています。

 それは何故か?・・・・・病気が怖いからでした。何度も内臓手術をして奇跡的に助かっていた人がタバコは放せないといって一日中吸っていたが、急にタバコを捨てたのでした。やはり命には代えられなかったのですね。
 加齢と共にタバコの毒は拡大します。少しでも長く生きたいと思えば禁煙した方がいいでしょう。タバコは糖尿病になりがちです。加齢しても丈夫で元気で溌剌としていきたいものです。
(2009年10月21日)


 新型インフルエンザ拡大のニュースが飛び込んできました。まさか真夏の7月に風邪の症状が蔓延するなんて、全く寝耳のことで驚きました。
 この先どうなるのやら全く予測がつきません。とにかく予防法をしっかりやって体力を損なわず疲れないように十分休養をとることですね。
 と言っても、勤労者の方々にはそんな贅沢は言っておられないかもしれません。

 新型旧型インフルエンザ共に予防法はまず第一に「うがいをする」ことです。次に「手を石鹸でよく洗う」ことです。次に「マスクをする」ことです。鼻と口が十分隠れるくらいゆったりとしたマスクを使用します。医療用のマスクがこれにふさわしいのです。けれどマスクは市販のもので十分です。予防にはマスクが最適です。

 38℃の高熱は重症です。そうならないように気をつけます。
 これから冬にかけて人混みの中へ立ち入らぬように外出は控えめにすることが大切です。空中にインフルエンザヴィルスがうようよ漂っているからです。咳をしなくても保菌者がたくさんいます。保湿には特に気をつけて寒さを回避することだと思います。

 特に高齢者の方は急速に罹患率が高まってきました。一番気をつけなければならない年齢の方々です。合併症をお持ちの方もいろいろおありの様です。例えば糖尿病と合併症をもっておられる方が割りと多いと聞きました。危険です。放っておけない状況です。何とか対策を講じなければなりません。
(2009年10月4日)


 私が今着ているオーバーは高価なもので、私のような貧困層の人々が買えるようなものではありません。寝巻きも分厚い夜会服仕立てのもので、なかなかおしゃれなものです。どこへ着ていっても恥ずかしくない紺色の際立った立派なものです。背広もピンクがかった冬物のスーツで豪華です。
 これらの品はみな阪神大震災の時の救援物資で頂いたものばかりです。本当にありがとうございました。深く篤くお礼申し上げます。

 当時人々は苦痛にゆがんだ顔で杖をつき、びっこを引いて歩いていました。それは肉親を探し求め、親友を探しに歩いていたのでした。道路は倒壊家屋で車を通れず、電話も止まり、交通も遮断され、避難所だけが頼りでした。
 空は抜けるようなブルーの時がありました。そんな時でも人々は親類を頼ったりして出て行ってしまい、町を歩いている人は少なかったのです。

 それが今はどうでしょう。三宮の町はすっかり変わってしまいました。人々の心も変わりました。平和な感じの人々、どこか楽しげな感じのする人がかなり多くなりました。三宮の変わりように目を見張り、あまりの立派さに驚き、何だか怖くなりました。特に夜の街の賑やかさ、美しさ、華やかさが目を奪います。気持ちが高まって叫びたくなる位です。アメリカのサブプライムローンが世界中を引きずりまわして不況にしたけれど、これなら又うまく再出発が出来るのじゃないかしら。何だかそんな予感が致します。

 夢の都三宮、日本の都三宮、世界の都三宮・・・、どんどんふくらんでいきますね。
(2009年9月26日)


 この前の長雨で兵庫県佐用町は250戸が床上浸水しました。台所の隅から泥水が押し上がってくるのを見た時、或いは泥の塊がむくむくと湧き出して来た時は どんなにびっくりされた事でしょう。気が遠くなって何も捨てて逃げ出したくなられたことでしょう。泥だらけの家をきれいに片付けたとしても、台所の下は泥で埋まったままです。その上何ともいえない悪臭で家の中には居られません。

 何をする気も無くため息ばかり、助けて!助けて!と声にならない声で呆然とつぶやくばかりでした。夜疲れ果てて寝ても悪いいやな臭いが鼻を付いて眠ることさえ出来ません。「もう家には住めない。どこかに逃げよう・・・新しい家を建 てよう・・・それが不可能ならいっそ死んでしまいたい」と気持ちがおちこむばかり。「でもここで負けたらあかん。何とか頑張っていきなきゃあか ん・・・」
 心は堂々巡りを続けます。「そうだ、仮設住宅を建ててもらって、家の泥がきれいに取れ悪臭がなくなるまで仮設で頑張ろう。仮設に入って水害の事は当分忘れよう。いやなことは忘れて楽しく暮らしたほうがよい・・・」誰の思いも一緒です。

 佐用町の酒屋さんも家を捨てようかどうしようかと考えておられました。新しい住宅を建てるのはよいが、大変相当のお金がかかります。悩ましい事です。
 大震災のあと建てられた仮設住宅は心地よく住める立派な仮設がたくさんありました。あとでカナダに輸出されましたが、カナダ地方でも好評でした。兵庫県北区の広大な地所に数多く建設されたからでしょう。
 また全般に大自然のすぐれた実感と重なり合ってのどかに、さわやかに美しく楽しく暮らすことが出来 たからでしょう。佐用町にもこんな素敵な仮設住宅が建てられることを望んでやみません。
(2009年9月1日)


戦争中は君に忠に親に考にと押しつけられ、それを忠実に守り通してきた国民であった。何が何でも天皇に逆らえなかったし、親にも逆らえなかった。
 敗戦と同時にこの思想は一瞬にして消え、バラバラに分解され、子供たちは親離れし、其々独立して、アメリカから教えられた自由平等の精神に生き返った。好き同士であればすぐに結婚し、親と別居生活をするのが自由平等と考えられた。もの珍しさもあって、新聞・ラジオで色々なケースが紹介された。アメリカ型の個人主義・個人生活だった。

 ところが、都合のよいことばかりではなく、都合の悪いことが色々と生じてきた。結婚すると子供ができる。子供の数が増えるとどうしても子供の面倒をみてくれる人が必要になってくる。離ればなれになったジーチャン、バーチャンが傍にいてほしい、何か助けてほしいという切なる願いがあわられてきた。
 しかし、おいそれと昔のようにはならなくなってきてしまった。互いに孤立化してしまっている今となっては、もう一度一か所に住むことは難しいし、家が近ければいいが、離れ離れの生活に慣れきった今となっては、もうやり直しはきかなくなっている。

 お金がいることばかり増えてきた。それでも何とか耐え忍んで生活し続ける。しかし、核家族は増えたが、子供は一日一日と大きくなっていく。学費もぐんぐん値上がりする。いつか労働者を増やしたいという政府のねらいから、“産めよ増やせよ”というスローガンが鳴り響いたことがあった。
 しかし、子供の数は増えたが人口は増加していません。増えたのは核家族ばかり、大家族は減少していきました。結婚しても将来の事を考えて思い切って子供もつくれない状況ですね。
(2009年8月13日)


 HAT神戸6Fの廊下から見える芦屋の山並みはとても美しいです。六甲山の隣の山です。私は毎日外出した時、そこを通ります。
いつも、きれいだなぁ!とため息をついているのです。そして思い出されるのは終戦直前の運命の日の事です。昭和20年3月東京大空襲の時、引き続き、神戸、西宮、芦屋と惨劇の嵐が次々と吹き荒れました。

 アメリカB29爆撃機・焼夷弾は屋根を突き破って落ち、家の中が一瞬にして火の海となるのです。ベトナムを焼きつくしたクラスター爆弾の元祖です。東京では333機のB29が3月10日深夜午前0時来襲し、下町は全部火の海となりました。人々は逃げまどいました。火の海の中を・・・。しかし逃げ場を失い、次々と焼き殺されました。東京も神戸も同じ状況だったのです。親と子は手をつなぎ走りました。両親の服に火がつき火だるまとなり、生きながら焼かれていく姿を子供は見ましたがどうすることもできません。
 親は子の名を呼び、子は親に近づこうとしますが熱くて近づけない。「お父ちゃん」「お母ちゃん」ともだえ苦しみ泣き叫ぶ。
 東京事問橋で5000人の人が死にました。橋の下に飛び降りれば3月の水は冷たく、凍死です。橋の上は灼熱地獄、橋の下は凍死地獄だったのです。
 東京でも神戸でも両親をなくした子供たちは駅にやって来ました。しかし食糧はなかったのです。食糧は尽き果てていたのです。昭和20年3月夜と朝方はまだ冷たく寒く、子供たちは父や母の名を呼びながら、飢えと寒さの中で死んでいきました。

 博多にいる弟が訪ねて来ました。久しぶり14年振りの再会でした。喜び合って楽しいひとときを過ごしました。
 弟が言いました。
 「大きな柱だね。太い柱ですね。頑丈に作られているので今後大地震がきても大丈夫かな?」
 私は言いました。
 「地震を考慮して作っているから手抜き工事もやってないだろう。地震の直後に建ったのだからね」
(2009年6月12日)


大震災のあと仮設住宅も消え、いよいよ神戸市は復興に向けて立ち上がりました。神戸の最大の都、三宮の復興は目覚ましいものでした。
 三宮へはバスで行き、或いは歩いて見て回りました。地震の前とはくらべものにならない位、明るく賑やかでした。夜になると赤や青や緑のネオンやライトが美しくまばゆいばかりにあでやかに色取れれていました。

 地震の恐怖や苦痛が今ではすっかり消え失せ、みんな明るい笑顔で歩いています。商店街も華やかに大勢の人が出入りしています。みんな楽しそうに話 し合ったり、流行のセンスある服を着て嬉々として歩きあるいは自転車にのっていかにも喜びに満ちあふれて暮らしておられます。地震のことなどすっかり忘れ て楽しげに嬉しく華やいでいます。
 思えば14年前の恐ろしかった事などすっかり忘れて・・・・

 当時は道路も寸断されて交通機関がなくわずかに市バスが1日に何本か安全地帯をくぐり抜けて通っていました。人々は苦痛にゆがんだ顔で杖をつき ビッコをひいて歩きました。そして肉親を探し求め親友を探しに歩いて行ったのです。電話もとまり、文通も出来ず、避難所だけが頼りでした。空は抜けるよう にブルーの時もありました。それが今はどうでしょう。街の中はすっかり変わりました。人の心も変わりました。平和でどこか楽しげな人々がかなり多くなっています。三宮の変わり様に目を見張りあまりの立派さに驚き何だか見慣れぬ街に来たようでちょっと恐い気もします。特に夜はキラキラと光り輝く建物が一杯並 んでいます。
(2009年5月19日)


 ハット神戸、5Fの私の家の裏のベランダに大きなガラス窓があります。そこから見える南の広場をのぞいてびっくりしました。いつのまにか杉の枯れ枝一面に緑の葉が吹き出しているのです。大きな道の両側に何十年かの杉の木が一面に植えられてあります。そのたくさんの木々が一斉に緑色に染まったのです。

 “春の到来も近いなぁ…”と思わずつぶやきました。また、気候も一度に温度上昇したのです。オーバーやマフラーを脱いで外出しましたが、寒くありませんでした。昨日4月9日まではオーバーやマフラーや手袋までつけていたのですが、今日になって急に温度が上昇したのです。そして、大きな太鼓橋を渡る人影が見え隠れする位一度に緑色の葉が生い茂りました。

 西側にも大きな太鼓橋があります。それを下から上っていくと横に入れる通路があり、県立美術館に入ります。そこは美術館の2Fの入り口で、スロープを伝って1Fに降りてゆきますと広場になっていて休憩室や無料の閲覧室があります。その広い静かな所で絵画や本を読み、また、広く高い天井をくぐり抜けながら1Fの休憩室でコーヒーを飲んだりしました。次に外へ出てふり返ると六甲系の山並みが一望できて雄大な気分になれました。ゴシック風の建造物の中を歩いてゆくとヨーロッパに来たような気分になったり、1Fの広い通路で絵画の巨匠達の伝記をTVで観たり、美術愛好家にとって楽しみはつきません。

 美しき人生、楽土の人生、そんな人生を綴ってみたい気分になりました。また、エレベーターで2Fに上がり、海の見える所でタバコを吸ったりもしました。
(2009年4月20日)


 このHAT神戸の玄関には二基の高い塔が建っており、その塔のてっぺんはソーラー発電所になっておりまして、その配線は各住宅の街頭にもなり、庭の地面の下から明るい光を放つ地下光線にもなっております。また運河の河べりの街燈や庭のあちらこちらの街燈にもなっています。夜のとばりがうす暗くなりかけの時分から点燈されて美しくきらびやかにほのかな明るい光線に生き生きとHAT神戸を浮き立たせております。HAT神戸の南側には四車線の大きな道路が東西に走っており、その向こう側には巨大な運河があって、漁船や貨物船が行き来しています。

 HAT神戸の東側の庭から運河にかけて巨大な太鼓橋がかかっております。勿論道路もまたいで運河の縁まで行っています。この太鼓橋は殆んどが木製で出来ています。ちょっと風流を感じさせます。
 HAT神戸の西側にもこれとよく似た大きな太鼓橋がHAT神戸の西側の端から運河の縁まで続いています。この橋の中程から美術館の2階へ行けるようになっています。美術館は神戸市に一つしかない県立美術館です。ゴシック風に建てられていて、天井が高く夏はとても涼しくてヨーロッパ風に楽しく建てられています。2階の展望台に行きますと折しも漁船の汽笛が鳴って一艘の船が出航しました。波のない静かな海面に薄暮の雲が映ります。

 夜のとばりが一陣の風と共にやって来ました。停泊中の船に掛橋に小さな灯が灯りました。さあ帰ろう、美術館からも帰りの人が出てきました。太陽は山の中腹から下の方へと入って行きます。太陽の先がほんの少し見えました。六甲山系の雄大な山々がほんとにきれいに見えました。
(2009年3月7日)


 HAT神戸に来てまず第一に感じたことは屋根の形でした。ハット(帽子)の形をした屋根や三角帽子の屋根や平べったい屋根。色んな草花で彩られた屋上庭園の屋根、これは6階建の駐車場の屋根です。エリザベス女王の冠のような屋根等色々様々な屋根の住宅が並んでいました。

 このHAT神戸の中央に福祉事務所があり、社会福祉法人博由社灘の浜高齢者介護支援センターハッピータウン神戸と書いてありました。
 そこには特別な施設が色々入っており、別誂のような建物でしたから、そこの受付で聞いてみたのです。「誰でも入れるんですか?」と。「はい入れます。ただし、資格審査がありますので、それにパスしないと入れません…」という返事でした。

 私が入居したのは4番館ですが、向い側に5番館があります。そこにはホールと和室と小部屋と禁煙室用休憩部屋があります。そのホールでは葬式も出来ます。実は葬式優先なのでした。2日間連続して行われ、他の部屋は閉鎖されることになります。お通夜もできるのです。葬式の日は支援センターから女子従業員が4〜5人準備にやってまいります。
 葬式のない時は映画館になったり、カラオケ会場になったり、習字の会場等になります。最近は葬式が減り、文化活動が盛んになりました。死亡して空家になった所へ若い人が入りますと子供が生まれます。
 世代の交代が今まさに始まっているのです。

 HAT神戸の広大な敷地の空き地を庭と呼んでいますが、この庭の木々は14年前に植えられたものです。それが段々と大きく育ちました。見上げるばかり大きくなりました。その木々には白い花やピンクの花、色とりどりの花を咲かせています。何という木か知りませんが、色鮮やかに素敵に美しく咲き誇っています。今は冬ですから、殆ど花も葉も散って枯れ木みたいですが、4月頃からは一斉に鮮やかに咲くでしょう。待ち遠しく感じられます。

 今年から餅つきが始まりました。つきたての餅は入居者全員に配られました。だんだんとHAT神戸は住みやすいよい方向に向かって進行していきます。
 平和な、そして、入居者全員が明るく楽しく日々をすごせるよう、発展していくことでしょう。
(2009年1月20日)


離別
 仮設よさようなら。鹿の子台の夕焼けよさようなら。無数の赤トンボよさようなら。無限に続いたすすきの穂よさようなら。うぐいすの里よさようなら。私は旅立たねばならない。

 “わしゃ最後の一人になるまでここにいるぞ。みんなが出ていったら、わしも行く。みんなが出ていくのを見送ってから、わしはここを出るつもりぢゃ……”といつもそう言って頑張っていたおじいさん、長い仮設のはずれまで来て、振り向くとおじいさんはまだ立ったままジッと私を見送っていました。
 交通事故で足を1本なくしたチンバの犬と目の赤い5〜6匹の子うさぎを家の中で飼っていたおじいさんでした。
 “ここで別れたら二度と会えないだろう。おじいさん達者で暮らせ”私は心の中で叫んでいました。声の届かぬ距離でしたから。おじいさんは両手を大きく振っていました。私も大きく手を振り続けました。

 たった二年間の仮設の生活でしたが、十年も経った様に思われます。美しい仮設、楽しかった仮設、なつかしい日々が思い出されます。なつかしの我が家をあとにして、再び旅に出なければなりません。我が身の運命のはかなさを思いました。
 今は鹿の子台仮設のあとには多くの家が建ち並び、スーパーまで出来上がっているそうです。でも私の心の中には美しい仮設と燃え上がるみどりの大平原、そして真紅に染め抜かれた大空と赤とんぼの大群が織りなす美しきふるさとが生き生きと輝いているのです。

 帰りの電車は空いておりました。私のふるさとは鹿の子台です。そうです。そう決めました。ふるさとは遠きにありて想うもの。私は今でも鹿の子台のことを思い出しています。仮設が消滅しても、鹿の子台のふるさとには変わりありません。私の夢のふるさとです。電車の窓からは裏六甲の美しい景色が見えて来ました。私の愛した鹿の子台は、はるかかなたに去ってゆきました。
 さようなら、いつの日か再び会える日を待っています。
(2008年12月10日)


おじいさんと三本足の犬

 鹿の子台仮設の中の大きな道路をへだてて、私の家と反対側におじいさんが一人で住んでいました。1匹の犬を飼っていました。白と黒のぶちで野犬でした。その犬に首輪をつけ、くさりをつけて飼いならしたのです。よく散歩に連れて行ったり、自転車につないで遠くまで行きました。
 或る日ふと見ると私はびっくり仰天して「アッ!」と驚きの声をあげました。犬は三本足になっていたのです。後足1本が足のつけ根からなくなっていたのです。きっと交通事故で車にひかれて片足がもぎ取られたのでしょう。
 それにしても犬は元気よくかけ廻り、走り廻っているのです。痛そうにも見えません。苦しそうにもありません。もともと足がなかったかの様に走ったり歩いたり。渾身の力で体をふるわせて動き廻っていました。その頃、仮設が解体され取り払われるという噂が流れ始めていました。

 おじいさんは言いました。
「わしゃなぁ、ずっとここに居続けるつもりぢゃ。最後の1人になるまでここにおるぞ。みんなが出て行ったらわしも行く。みんなが出ていくのを見送ってからわしはここを出るつもりぢゃ」
 おじいさんは豪快に笑いました。とてもたくましい筋骨隆々として背の高いおじいさんでした。頭はすっかり丸坊主でしたが・・・。

 そのうち噂はだんだん本当になり、垂水や西神地区の住宅入居の抽選用紙がきました。仮設の人々は色々と選択して、抽選用紙に希望地区を書いて投函しました。バスに乗り遅れたら大変だ、という心理が働くのでした。
 私も出しました。職場に近いのがいいとすれば垂水がいいかな、と思いました。
 しかし、抽選の結果ははずれでした。次から次へと抽選用紙がきましたが、みなはずれました。そして最後にHAT神戸の住宅申し込み用紙が来たのです。

 私は大震災直後に行った避難所の医療室にいた神経科の先生の所へ行き、色々と相談したのです。先生は、「ここなら今までの中で一番いい。HAT神戸に入れたら最高だよ」と言われました。私は勇躍申し込みました。
(2008年10月12日)


中村先生行状記

 大震災により神戸市婦人会館の屋根に大きな穴があきました。爆弾を受けた様なひどい被害でした。雨が降ると屋根の真下にある5F大ホールは水浸しになり、階段を伝って水は滝の様に下へ落下していきました。何ヶ月が過ぎ、婦人会館の屋根の修理も終わり、ダンスパーティが復活する日が来ました。

 “あヽやっと工事もすんで復活出来たね…”とみんな喜び合いました。そこへ中村先生も来ました。そしてそっと私にささやきました。“お話したいことがあります。是非聞いて下さい”…と。ダンスパーティが終わり、みな帰ったあとで、隣の部屋に二人で入りました。彼は言いました。“実はね、僕は12時間生き埋めになってきましたんや。やっと消防署が見つけてくれて、助けられたんですわ”中村先生は苦しそうに言いました。私はびっくり仰天して言葉も出ませんでした。

 “あの時はもう死ぬのかと何度も思い、何とも言えない恐ろしさで気が動転していました。助かった時はいっぺんに体の力が抜け、何をしゃべったかわからへんでした”中村先生は続けて言いました。“僕は人にいじわるばかりしてきました。罰が当たったんですね。悪いと知りながら、知らん顔してやっていた悪い人間でした。ごめんね。もういじわるしません。本当にごめんなさい”彼は何度も頭を下げ、大粒の涙をこぼして男泣きに泣いていました。“これからは人を助けていきます。人を助けることに喜びをみつけていきます”と。

 今まで彼は要領ばっかりの人生でした、人にいじわるばかりしてきたことを深く反省していました。“中村さん、あなたはもうすっかり変わってしまわれた。これからの人生をダンスする人のために捧げてください。是非お願いします”彼は涙を拭き拭き頷きました。深く深く頷いていました。彼は言いました。“ダンス、上手な人を見ると、ついヤキモチが出て、僕は本当に深く反省しています”
 “でも、見つかってよかったね。発見されて九死に一生を得たのだ。中村先生は運が良かったのだ。これからはがんばってね!”私は言いました。何度も言いました。
(2008年8月16日)


鶯の里(うぐいすのさと)

 秋に入った頃、私は仮設住宅を拠点にして東へ西へ北へといろいろ探索に出かけました。
 まず西の方へ歩いていきますと仮設が途切れた後に長い林道が続きます。突然視界が切れて大きな池が現れました。大きな赤い緋鯉が泳いでいるので半分は人工の池でしょう。池の周りは松や紅葉やブナの木が生き生きと勢いよく繁っていて、池の水は青々としてかなり深そうでした。
 そこから先は大きな松林が続き、天を覆いつくして大きな松の木の中から美しい鶯の鳴き声がしきりと聞えたのです。姿は見えませんが、何羽も集団で鳴いている様子でした。あちらこちらの繁みの中から聞えました。

 池のほとりにはさまざまなベンチがあり、坐ってよし寝てよしいろんなベンチがありました。机までついているすてきなベンチもあり、鉄棒があり器械体操の器具が置いてありました。私は学生時代体操をしていたので、なつかしく思いました。鉄棒にぶらさがったり体を動かしているうちにだんだん復活してき て逆上がり、蹴上がり、続けて前方回転、後方回転がスムーズに出来るようになり、学生時代と同じ気分になりました。

 私はここを「鶯の里」と名づけました。そして更に西へ西へと向かいました。その先は大きな芝生の小山があり、一面に色あざやかな緑の芝生が揃って生えておりましたので、気持ちよく寝転んだり坐ったりしているうちに静かに大平原の秋は暮れていきました。
 人通りはほとんどなくたまにジョギングする人を見かけるくらいのものでした。小道の両側は勢いよくのびのびと草が生い茂っており、その美しい緑色で埋まりそうな道を歌いながら帰りました。遠くに一軒家の灯りが見え、夕闇の中に静かにほのぼのとした淡い光を投げかけていました。

 私は唄いました。 〜あの町この町灯がくれる灯がくれる。今来たこの道帰りゃんせ帰りゃんせ・・・ 
 私はこの唄が大好きでいつも唄って帰りました。
(2008年6月21日)


来訪者 その4

 暑かった夏もそろそろ終わり、秋風が涼しく吹き始めた頃、この鹿の子台仮設の入り口の方からすてきな美しい女性が現れました。午後3時頃だったでしょうか。
 まだ若い、背の高いスタイルの良い女優さんかと思いましたが、制服・制帽を着用しておられましたので、一目で女性の警官だと分かりました。
 私の向かって「御本人様いらっしゃいますか?」と尋ねられました。「私が本人です」と言うと、「えっ!」とびっくりした顔をして、「わぁ!お若いですのねぇ!」と驚いてとても嬉しそうでした。私は「いや、なに成長が遅れているのですよ……」と言って笑いました。二人は打ち解け合って色々とお話をしました。

 地震の事、仮設に来た事、地震で地割れがして歩けなかった事、など色々と話しました。家の前に深い穴が空いて、2m位下の方は真っ暗で、落ちたら這い上がれそうもない気味の悪い不思議な縦割れ地割れでした。
あの地震の直後、私はカメラを持って写真を撮り続けました。後世に残すべき地震の大切な証明をしておきたかったのでした。
 1階がつぶれて2階が折り重なり、1階にいた人はみな死にました。あちらにもこちらにもそういう家があったのです。家が半分に引きちぎられ、家の中が散乱している姿もありました。
 カメラを向け、シャッターを押す時はさすがに手がふるえ、指が硬直しました。

 赤い夕日が雲を茜色に染める頃、彼女は帰りました。「大変な苦労をなさったのですね。これからもお元気で頑張って下さいね。何かあったら、どんな些細な事でも構いません。110番して下さいね……」と言って帰りました。

 私は仮設の出口に行きました。秋の夕日がひときわ美しく、晴れ渡った秋空を茜色に染め上げました。無数の赤トンボが乱舞する北区の大平原がありました。遠くに家が豆粒のように小さく見え、すすきの穂がいっぱい出て、白い綿帽子が風にゆれながら無限に地平線のかなたまで続いていました。私はこの美しい光景に我を忘れて、茫然と立ちすくんでしまったのです。
(2008年5月19日)


星達の語らい

 まよなか午前0時頃だったでしょうか、おもてでざわざわと大勢の人々の声がしました。若い男女の話し声がにぎやかに聞こえて来たのです。何を言っているのかさっぱり聞きとれませんでしたが、いろいろと男女の楽しげに話し合っている声がしてきたのでした。
 “一体何事だろう、こんなまよなかのこんな時間に何かあったのかな?”ひょっとしたら炊き出しでもやっているのかな?……ふとそういう感じがしたのでした。“炊き出し”……なつかしいな、早く行ってみよう。思えば震災後の避難所で全壊・半壊の人達が待ちこがれていた炊き出しが、どんなに人々の心に勇気を、生きる希望を与え続けてきたことか……

 私はゆかたを着たままつっかけをはいて家をとび出しました。声のする方へ急ぎ足でとんで行ったのです。しかし行けども行けども真暗闇でした。この頃はまだ街灯はついていなかったのです。声のする所まで来ました。ところが不思議なことに今迄にぎやかな男女の話し声が急にぴたりと止んだのです。あたりはしんと静まり返り物音一つしていません。私はきつねにつままれた様に立ちすくんでしまいました。

 仮設の一番北側でその向こうは三田市にまで続く平原でした。大草原です。ずっと向こうの1軒の仮設の家からは、うっすらと灯りが見えました。すると反対側の元来た道のずっと向こうからさっきの男女のにぎやかな声がして来ました。何だ、あっちだったのか、方向を間違えたのだとひとりごとを言い、その方向へ向かっていきました。真っ暗な夜道を1人歩いていきました。到着しました。ところが突然男女の話し声はぴたりと止んでしまいました。あとは猫の子一匹通らない不気味な道の真ん中に私は立っていたのです。どこにも灯りは見えません。背筋に冷たいものが流れました。

 私は思わず空を見上げました。満天の星空でした。今迄見たこともない様な星空でした。星がこんなに大きくて美しい星達の群像を見るのは生まれて初めてです。大きな輝く白い星、ピンク色の星、小さい星が一杯集まって川の様になり、ピンク色に燃えている無数の星“天の川だな”と思いました。澄み切った真っ暗な夜空にきらきらと輝く美しい星達の群像に私は我を忘れて見入ってしまいました。さっきの男女のざわめきは夜空の星達のおしゃべりだったのか−大空の星達も大震災の地震の恐怖を語り合っていたんだよね……私はいつの間にか気持ちがすっと楽になりました。そよ風の吹く中、ゆっくりと帰路に就いたのです。
(2008年4月10日)


来訪者 その3

夏になりました。朝から雨がしとしとと降り空には厚い雲が立ち込めてほの暗く真夏だ というのにうすら寒く何かしら不安な不吉な感じのする日でした。

 「嫌な日だな。薄気味悪い日だ」と独り言を言っていました。・・・夜になって日はとっぷりと暮れてあたりは真っ暗になった夜の8時頃だったでしょうか。玄関の戸をトントンと叩く音が して戸を開けるとそこに立っていたのは花も恥らうばかりの若いそれはそれは美しい女性でした。
 年の頃は20才前後、色はあくまで白く瞳は大きく済んで綺麗でした。女優さんかなと思いました。その女性は手に一枚の紙切れを持っていて「この番地を探しているんですがどこでしょうか?」と おずおずと小さな声で尋ねました。私はその番地の場所を偶然知っていたのです。

 仮設の一番東側の一番北側の家でした。女性は傘を持っていなかったので髪はぐっしょり濡れ 服もぬれていました。駅からここまでの道のりは近くありません。雨に打たれてずぶ濡れでここまでやって来たのです。「とにかくお入りなさい。風邪をひきますよ。」と言ってその女性を 家の中へ入れ、タオルで拭きました。やや長いめの髪と洋服を拭き、エアコンをつけ寒そうだったのでコートを背にかけてあげました。
 女性は日本語がたどたどしく上手に話せないので中国人か韓国の人かと思いました。やっと落ち着いたので傘をさして出かけました。傘は1本しかなかったので、相合傘で出かけました。

 目的の家に着きましたが、その家は真っ暗でした。まだ帰宅されていないなと思い、二人で私の家に戻りしばらく待つことにしました。私の家はそこから近かったのです。
 私の家に入りコーヒーを入れ、二人で飲みました。飲み終わってから「もう帰っているだろう」 「行きましょうか」と言って再び出かけました。灯りが見えてきました。「あ、良かったね」と言ってその家の前に来ました。彼女は「色々ありがとうございました。」と言ってその家の中へ入っていきました。

 何かしら不安を感じたのでしばらく傘をさしたまま外に立って様子を見守っておりましたが、別に異常はなく平和な情況に思えたので回れ右をして帰りました。家に帰ってから色々と思い浮かべました。こんなに雨が降っていたのに傘も差さずに来るなんて・・・しかも初めての土地へ・・・
 外国の女性は確かに勇気があるなぁ、それとも愛の力が強いのか?・・・と。
(2008年2月29日)


来訪者 その2

 1995年6月鹿の子台仮設に入居して2ヶ月程たった7月の終わり頃のことでした。すでに太陽が地平線に没して外は夕闇に包まれ、人影も定かならず、やがて真っ暗な闇のとばりが押し寄せようとしていました。その時、あわただしく駆け込んで来た人がありました。
 「ごめん下さい。私、自分の家がどこだったか分からなくなったのです。どうしたらよいでしょうか・・・」

 見れば、まだ年の若い頃18歳前後の娘さんでした。私は「一緒に探しましょう」と言って外に出ました。連れ立って歩きましたが、もう暗くなっていました。その頃はまだ街燈が一つもなかったのです。夏ですから涼しくて心地よい風が吹いていてくれてよかったのですが、西も東も同じ家ばかり、玄関も裏も同じ建築ですので、とても千戸以上あるといわれた鹿の子台仮設の中から一軒の家を見つけることは無理だと思いました。そこで一旦2人で私の家に帰り、警察に頼んで探してもらうことにしました。
 110番に電話しました。警察は「すぐそちらに行きますが、2人共あなたの家の中に入っていて下さい。外に出られるとかえって見つけにくいですから」と言いました。それでその女性を私の家の中にお誘いして入ってもらいました。「私は女子大生なのよ」と彼女は言いました。
 「昼間外出して帰ろうとしたら家がどこだかわからなくなってしまって。同じ家ばかりだから迷子になってしまったの」と彼女は言いました。

 私はコーヒーを入れて、パンを出して、色々話をして元気をつけてあげました。つい話に夢中になってしまうと、いつの間にか外は真っ暗で1時間もたっていました。警察はまだ来なかったので、また110番しました。電話には女性の警官が出て「もうそちらに着くころです。今しばらくお待ちください」と言いました。その時玄関の戸をノックする音がして、戸を開けると大きな懐中電灯を持った3人の警官が立っていました。私は女子大生の方を紹介しました。
 警官は「お嬢さん、パトカーに乗って下さい。お家は必ず見つけますよ。大丈夫です。お任せください」と言い、私に向かって「じゃあ、お嬢さんお預かりします。お家は必ず見つけますよ。大丈夫。安心してください」そう言って、女子大生をパトカーに乗せて発車しました。
(2008年1月19日)


来訪者 その1

 鹿の子台仮設に入って間もない7月に入った頃、「仮設の生活ってどうなの、心配だわ」と言って一度仮設をみてみたいというお友達がやって来ました。ダンス 同好会のメンバーでU子さんとK子さんでした。U子さんはスキ焼の鉄なべを持っていくと言いました。K子さんは牛肉とか材料いろいろ缶ビールをたくさん 持っていくと言いました。

 その日が来ました。私は駅まで迎えにいきました。よく晴れたいいお天気だったのです。朝9時頃少し肌寒い位の日でした。仮設の我が家の裏の大き なガラス戸からは宝塚の山が青く見え、青畳のにおいがとても新鮮でした。「すてき!こんなきれいな所に住んでみたいわねぇ」と二人とも思わず言いました。
 三人ともビールを飲むほどに少々酔いもまわり、朝の清らかな空気に包まれてすっかり楽しく愉快になりました。気持ちも晴ればれとして遂にステレオをかけて 歌を一緒に歌い出しました。午後4時頃まで三人は飲んだり歌ったりしていました。そして最後に名曲のブルースでダンスを交互に踊って別れることにしまし た。

 夕日が仮設の壁をだいだい色に染めあげる頃、私は二人を送って道場南駅に行きました。道すがらU子さんが言いました。「今日はとてもすて き・・・最高だったわね。仮設といっても中は広いし住みやすいと思うよ。案外丈夫に出来てる。すきま風がないから冬もそれ程さむくないのでは・・・」
 駅に つくと間もなく電車が来ました。私は「又おいでね。飲もうよ」といいました。二人は「又近い中、スキ焼しようよ」といって喜んで帰りました。
(2008年1月3日)


仮設で起きた孤独死

 私の仮設の家の裏は、大きなガラス戸とこげ茶色の美しいサッシの小さい窓がありました。小さい窓を開けると、裏の仮設に住んでいるおじさんが、玄関に咲いている草花を大切に育てて美しい花を咲かせていました。いつも水をかけたりしている姿がさわやかに見えました。
 “いいお天気ですね”と声をかけると、“そうですね。気持ちがいいですね。この辺はとても空気がいい。このままずっと住んでいたいな”と笑っておられました。
 おじさんは背の高いスラリとしたスポーツマンタイプで、見るからに健康そうな人で、私もつられて外へ出ていろいろ話し合いました。

 私が三宮や垂水に仕事で行く時など、道場南口駅でも偶然二度ばかり会いました。最後に会った日はよいお天気で、おじさんは駅のすぐ前にある大きな石に腰かけておりました。 私が“お出かけですか?”と尋ねると“はぁー娘の所へ行って来ます。娘は震災の後、いい家を見つけて借りたと言うているがどうしているかな…”。おじさんはとても嬉しそうでした。

 それから10日程お会いしていませんでした。まだ帰っていないのかなぁ、どうしたんだろうと思っていました。その日は雲一つない青空でした。午前10時頃、おじさんの家の廻りに人だかりがしていました。何かあったかな、そう思って私も家を飛びだして、おじさんの家に行きました。
 おじさんの家の裏にはたくさんの人が集まっていました。おじさんの家の裏の大きなガラス戸の前に警察の方が数人立っているのが見えました。1人の警官が小さな金槌を取り出して、ガラス戸のカギがかかっているあたりをかちんかちんと叩き割り、そっと中に手を入れてカギを外しました。警官がみな一斉に中に入りました。そこに居合わせた群集は、固唾をのんで見守りました。

 しばらくして1人の警官が出てきて、首を横にふりました。居合わせた人々は大きくため息をつきどよめきの声を挙げました。何とも言えないやるせない思いでした。おじさんは死んでいたのです。私は仕事に行かねばならないので、すぐにその場を去りました。
 後で聞いたのですが、救急車が来ておじさんを乗せ、病院に向かわれたとの事でした。でも、再び息を吹き返すことはなかったのでした。近所に住むボランティアの奥さんがたえず訪問していたのです。でも、鍵はかかったままだし、呼んでも戸を叩いても応答がない、どうしたんだろう、そして10日間も何の音沙汰もない。これはおかしいと通報されたのでした。

 この事件の後2日目でしたが、昼頃一台の乗用車が来ました。おじさんの遺族の方が4人来られたのです。おじさんの家に入り、手際よく入らないものは捨て、必要なものは車に入れ、私も手伝って挙げました。帰り際に“お騒がせしてすみませんでした。お世話になりました。本当に有り難うございました”と丁寧に言って帰られました。
(2007年10月17日)


いざ仮設住宅へ 2

 この鹿の子台高原は市街地と違って空気が澄みわたり、いろんな木や草花が勢い良く咲き乱れ、のひのびと鮮明な色、何とも言えない美しい緑色をしていました。いろんな花も咲いています。コスモス、さつき、たんぽぽ、ひまわり、すすき等です。

 さつきは広い道路に沿って赤く咲き、たんぽぽはいつのまにか仮設の家の回りに咲きました。初秋9月頃からは、すすきの穂が一度に咲き始め、急速に広がり、どんどん大きくなって地平線の果てまでも一面に真白い絨毯を敷き詰めたように無限に続いていたのです。
 真夜中、寝ている時に家の裏のガラス戸をしきりに叩く者がいるので、誰かなと思ってガラス戸を開けてみると、大きなススキの穂がいつの間にか生えて家の中にどっと入り込んできたのには只々びっくりして唖然としたこともありました。

 夕方、そよ風にすすきの穂が揺れて波打ち、初秋の斜陽に照らされている様はたとえようもなく哀愁を感じさせるのでした。また、たまらないなつかしさと淋しさを思い出させるのでした。鹿の子台とは、本当に美しい夢の国だったのです。

 また、鹿の子台平原の夕焼けは格別なのです。空一面が真っ赤に茜色に美しく輝くのです。それが青空と夕焼けのコントラストになって大空全体が青と赤のオーロラのように見事な模様を作るのでした。更にそれに加えて無数の赤トンボがどこからともなくやってきて高く低く低く飛び交い、夕焼けを更に色濃く染め上げるのでした。
 無数の赤トンボが空一杯に飛び交う様は赤トンボのダンスのおとぎの国へ誘われたのかもしれません。青空に赤トンボの大群がたわむれる様は何と美しかったことか……。

 大自然のおりなす業につい見とれてしまう私でした。私は毎日赤トンボの中に入って歩きました。赤トンボの唄をうたいながら……。
 “夕焼け小焼けの赤トンボ 負われて見たのはいつの日か…”
(2007年8月3日)


いざ仮設住宅へ

 今も思い出します。あの山の向こうのずっとずっとはるか遠い所に仮設があって、そこに住んでいたんだと・・・。
 避難所の診療室に来ている神経科の先生が、言いました。“仮設はあとの方が良いのが出来るから、慌てて申し込まない方が良いと思う。大丈夫、仮設に入れない事はないよ。まだまだたくさん建つんだからね”と。その言葉を信じて待ちました。そして最後に建った仮設に申し込んだのでした。やっぱりその通りでした。

 そろそろ初夏のにおいがただよい始める頃。1995年6月。念願の仮設に入ることが出来ました。神戸市北区鹿の子台仮設といいます。
 大震災のあとは、神戸市、芦屋市、西宮市、明石市等、あちらこちらとたくさん仮設が建ちました。私の入居した仮設は水はけもよく、道路も舗装されており、緑色の美しい屋根、2Kの広い部屋、新鮮なにおいのする青畳、こげ茶色の軽快なサッシの窓、電話一台、黄色い大きなカーテンと小さいカーテン、エアコンと二基のプロパンガスボンベが付属していて、水道からは暑い湯も出る風呂付の住宅でした。

 先ず最初にこの仮設へは神戸電鉄で行きました。電車は長いトンネルを抜け、山を登り、谷を渡り、田園風景のまっただなかを勢いよくひた走りに走ってゆきました。登山電車です。電車は六甲山の裏側を通り抜け、有馬温泉を右に見て、更に北へ北へと進んでいったのでした。やっと道場南口駅に着きました。
 駅を出ると左手の小高い所に仮設が見えました。“あっ!あれだな!”それにしても随分遠い所に来たものだなぁ・・・と、何だか心細くもあり、未知の期待や好奇心にわくわくもしました。

 仮設の我が家に到着しますと、引越し会社のトラックが先に来て待っていました。その日は引越しの荷物を入れて、整理整頓するだけで、すっかり疲れました。裏の大きなカーテンをあけると、遠くに宝塚の山々がほのかに青くかすんで見えます。玄関の戸をあけると三田の山が小さくほんのりと、やはり青くかすんで見えます。ここは広大な鹿の子台平原なのでした。
(2007年6月6日)


 避難所から自衛隊が帰るという知らせを受けて、多くの被災者が運動場に飛び出して来ました。私も飛び出しました。
 春の終わり、初夏の始まりとは言え、まだ肌寒い夕暮れ時、春の夕日に包まれて自衛隊のトラックが校門の外へ消えて見えなくなるまで、罹災者も自衛隊の隊員さん達も手を振り、ハンカチを振って見えなくなるまで別れを惜しんでいたのでした。
 「又来てね!」と誰かが叫びました。「はい、何かあったら呼んで下さい。いつでも来ますよ……」と隊員さんが力強い元気な声で応えてくれました。私はこの時ほど自衛隊が頼もしく、又、懐かしく思ったことはありませんでした。

 震災で水道が止まって飲み水もなく、困っていた時です。自衛隊の給水車がいち早く駆け付けてくれ、罹災者のポリバケツや水筒に水を注入してくれた事、野戦風呂を設営してくれた事、私が柵に足を引っ掛けて転倒し、胸や膝を打ってしばらく起き上がれなかった時、素早く走ってきて抱き起こしてくれた事、そして避難所の救護室に連れて行ってくれた事など、次から次へと走馬燈の様に思い浮かびました。

 特に印象深かったのは、野戦風呂でした。運動場に巨大なテントが設営されました。野戦風呂です。まだ雪が降っていて風も加わり寒い冬の日、この巨大なテントの中は春の様に暖かく、天井も高く広々としていました。脱衣場も広く、自家発電の電気が煌々と明るく、30人位の人が服を脱いだり着たりしていたのです。このお風呂は無料です。それが又何とも嬉しかったのです。浴槽も広く、大きくゆったりと入れて快適でした。石鹸も用意してありました。タオルは救援物資でたくさんあったのです。
 広々とした湯舟につかっていると大震災の恐怖や苦労を忘れさせてくれました。この野戦風呂が夕方から夜にかけては入浴希望の人が増え、行列が出来ました。受付には隊員さんが2人いて行列をさばいてくれました。「はい、次はここまでの方どうぞお入り下さい……」と、私は毎日入浴しました。

 湯舟につかっているとき、誰かが大きな声で「水を入れて下さい、熱いです」と言いますと、テントの陰からさっと隊員さんが大きなホースを抱えて湯舟に入って来ました。「水を注入します」と言ってホースを湯舟に入れました。ゴボゴボと音を立てて水が入りました。隊員さんは時々入って来て水を入れたり湯を入れたりしてくれました。
・・・つづく・・・
(2007年3月14日)


 稗田小学校が避難所でした。運動場の中央で焚き火が燃え盛っていました。廻りを罹災した人達が取り囲んでいました。誰もが放心した顔で押し黙ったままこみ上げる不安を押し殺していたのです。

 焚き火の材料は豊富になりました。倒壊した家屋が道路に散乱している折れた柱やタンスの破片が山積になっている、それを持ってきて燃やしていたのです。天を焦がす焚き火が地上から空に向かって吹き上がっていて雪が深夜にもかかわらず寒いつめたい爪に吹きまくられ焚き火に照らされて火の粉と一緒に舞い狂っていたのです。
 市内は全部停電で、水道も止まり、電話は全部普通だったのです。情報は全く入らず対策本部もつんぼ桟敷同様でした。

 避難所の運動場に3本の電話が設置されました。この電話だけが市内の各所に通じたのです。この電話に蜿蜒(えんえん)長蛇の列が出来ました。運動場の端から端まで続きました。
 夜中の1時になりました。長蛇の列は半分に減ったので電話の列に加わりました。並んでいた人達はみんな寒さに震えながら全壊や半壊で身動きがとれない人達なのでした。お先真暗な不安をかかえてそれでも何とか生きてゆこうと必死にもがいている姿が何とも痛ましく、唯唯祈るばかりの私でした。

 やっと順番が来ました。「生きていてくれよ!」「何とか電話に出てくれよ!」と心で叫びながら震える手でダイヤルを回したものです。「もしもし私です」なつかしい声だった。「豊美か!」・・・「とよみだね」!・・・「元気か」・・・「怪我はなかったか」・・・「大丈夫か?」・・・私は夢中でした。たてつづけに我を忘れて叫んでいたのです。
 あとは声にならなかった。ドット涙があふれた。豊美は垂水にいたのです。一番被害のひどかったのは長田区、次が灘区、東灘区、そして須磨区でした。私は灘区です。豊美は生きていた、無事だった・・・次の瞬間歓喜が体中をかけめぐった。

 「何べん電話しても通じないの、頭の中がまっ白になって・・・どうしていいか分からなかったの」電話の向こうでも泣いていた。豊美が無事だったこと、なつかしさと嬉しさで心がはずんだ。「よかった!」「よかった!」と思わず叫びました。
 豊美は私の社交ダンスのパートナーなのです。
・・・つづく・・・
(2007年1月29日)


 人は年をとってくると、だんだん孤独の心境になります。
 長い年月の体験や学習によって心情は鍛えられてはいるものの、先の人生が次第に不透明になってくると、心細さ、淋しさがこみあげます。何でもよい、安定した支えを求める様になります。ウバステや高齢者切捨て政策にならぬよう確固たる人民の連結、民衆の横の繋がりが大切だと思います。ボランティアの復活を心から求めます。

 大震災の時はボランティアの方々に一方ならぬお世話になりました。今、元気でここに住居出来たのもボランティアの方々のお陰なのです。
 避難所での生活は厳冬の中、大変厳しいものでした。”お先、マックラ”将来を考えると見も心もスリヘッてしまいそうでした。先のことは考えないでいこう、”何も考えるな”と自分に言い聞かせて崩壊した街の中を歩きました。歩きに歩きました。
 そんな時、タキダシが街のあちこちでありました。避難所でも毎日タキダシがありました。寒い中、熱いうどんが、ラーメンが・・・・
 今もその時のことが思い出されて涙がこぼれます。

 一番嬉しかったのがタキダシでした。「食べてください!」という声に誘われて熱いうどんやラーメンを戴きました。「頑張ってね!」「頑張ろうね!」その声が今でも耳に残っています。立ち上がる勇気を下さった方々のその声に励まされて歩きました。

 避難所の広い体育館の片隅で仲の良かった6人(男性4女性2)の方々と最後の晩餐をしました。夜もふけて別れる時「どんな事があっても生き抜いていこうね、頑張ろうね、又会いましょう」と固い握手をして別れました。
 その後仮設の選択、入居等々めまぐるしく変動し、お互いの消息も不明となり連絡は途絶えたままになっている。
(2006年12月12日)







今田 寿史さんへ届いた『かみひこうき』




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