今田 寿史さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:76才男性 職業:なし)


星達の語らい

 まよなか午前0時頃だったでしょうか、おもてでざわざわと大勢の人々の声がしました。若い男女の話し声がにぎやかに聞こえて来たのです。何を言っているのかさっぱり聞きとれませんでしたが、いろいろと男女の楽しげに話し合っている声がしてきたのでした。
 “一体何事だろう、こんなまよなかのこんな時間に何かあったのかな?”ひょっとしたら炊き出しでもやっているのかな?……ふとそういう感じがしたのでした。“炊き出し”……なつかしいな、早く行ってみよう。思えば震災後の避難所で全壊・半壊の人達が待ちこがれていた炊き出しが、どんなに人々の心に勇気を、生きる希望を与え続けてきたことか……

 私はゆかたを着たままつっかけをはいて家をとび出しました。声のする方へ急ぎ足でとんで行ったのです。しかし行けども行けども真暗闇でした。この頃はまだ街灯はついていなかったのです。声のする所まで来ました。ところが不思議なことに今迄にぎやかな男女の話し声が急にぴたりと止んだのです。あたりはしんと静まり返り物音一つしていません。私はきつねにつままれた様に立ちすくんでしまいました。

 仮設の一番北側でその向こうは三田市にまで続く平原でした。大草原です。ずっと向こうの1軒の仮設の家からは、うっすらと灯りが見えました。すると反対側の元来た道のずっと向こうからさっきの男女のにぎやかな声がして来ました。何だ、あっちだったのか、方向を間違えたのだとひとりごとを言い、その方向へ向かっていきました。真っ暗な夜道を1人歩いていきました。到着しました。ところが突然男女の話し声はぴたりと止んでしまいました。あとは猫の子一匹通らない不気味な道の真ん中に私は立っていたのです。どこにも灯りは見えません。背筋に冷たいものが流れました。

 私は思わず空を見上げました。満天の星空でした。今迄見たこともない様な星空でした。星がこんなに大きくて美しい星達の群像を見るのは生まれて初めてです。大きな輝く白い星、ピンク色の星、小さい星が一杯集まって川の様になり、ピンク色に燃えている無数の星“天の川だな”と思いました。澄み切った真っ暗な夜空にきらきらと輝く美しい星達の群像に私は我を忘れて見入ってしまいました。さっきの男女のざわめきは夜空の星達のおしゃべりだったのか−大空の星達も大震災の地震の恐怖を語り合っていたんだよね……私はいつの間にか気持ちがすっと楽になりました。そよ風の吹く中、ゆっくりと帰路に就いたのです。
(2008年4月10日)


来訪者 その3

夏になりました。朝から雨がしとしとと降り空には厚い雲が立ち込めてほの暗く真夏だ というのにうすら寒く何かしら不安な不吉な感じのする日でした。

 「嫌な日だな。薄気味悪い日だ」と独り言を言っていました。・・・夜になって日はとっぷりと暮れてあたりは真っ暗になった夜の8時頃だったでしょうか。玄関の戸をトントンと叩く音が して戸を開けるとそこに立っていたのは花も恥らうばかりの若いそれはそれは美しい女性でした。
 年の頃は20才前後、色はあくまで白く瞳は大きく済んで綺麗でした。女優さんかなと思いました。その女性は手に一枚の紙切れを持っていて「この番地を探しているんですがどこでしょうか?」と おずおずと小さな声で尋ねました。私はその番地の場所を偶然知っていたのです。

 仮設の一番東側の一番北側の家でした。女性は傘を持っていなかったので髪はぐっしょり濡れ 服もぬれていました。駅からここまでの道のりは近くありません。雨に打たれてずぶ濡れでここまでやって来たのです。「とにかくお入りなさい。風邪をひきますよ。」と言ってその女性を 家の中へ入れ、タオルで拭きました。やや長いめの髪と洋服を拭き、エアコンをつけ寒そうだったのでコートを背にかけてあげました。
 女性は日本語がたどたどしく上手に話せないので中国人か韓国の人かと思いました。やっと落ち着いたので傘をさして出かけました。傘は1本しかなかったので、相合傘で出かけました。

 目的の家に着きましたが、その家は真っ暗でした。まだ帰宅されていないなと思い、二人で私の家に戻りしばらく待つことにしました。私の家はそこから近かったのです。
 私の家に入りコーヒーを入れ、二人で飲みました。飲み終わってから「もう帰っているだろう」 「行きましょうか」と言って再び出かけました。灯りが見えてきました。「あ、良かったね」と言ってその家の前に来ました。彼女は「色々ありがとうございました。」と言ってその家の中へ入っていきました。

 何かしら不安を感じたのでしばらく傘をさしたまま外に立って様子を見守っておりましたが、別に異常はなく平和な情況に思えたので回れ右をして帰りました。家に帰ってから色々と思い浮かべました。こんなに雨が降っていたのに傘も差さずに来るなんて・・・しかも初めての土地へ・・・
 外国の女性は確かに勇気があるなぁ、それとも愛の力が強いのか?・・・と。
(2008年2月29日)


来訪者 その2

 1995年6月鹿の子台仮設に入居して2ヶ月程たった7月の終わり頃のことでした。すでに太陽が地平線に没して外は夕闇に包まれ、人影も定かならず、やがて真っ暗な闇のとばりが押し寄せようとしていました。その時、あわただしく駆け込んで来た人がありました。
 「ごめん下さい。私、自分の家がどこだったか分からなくなったのです。どうしたらよいでしょうか・・・」

 見れば、まだ年の若い頃18歳前後の娘さんでした。私は「一緒に探しましょう」と言って外に出ました。連れ立って歩きましたが、もう暗くなっていました。その頃はまだ街燈が一つもなかったのです。夏ですから涼しくて心地よい風が吹いていてくれてよかったのですが、西も東も同じ家ばかり、玄関も裏も同じ建築ですので、とても千戸以上あるといわれた鹿の子台仮設の中から一軒の家を見つけることは無理だと思いました。そこで一旦2人で私の家に帰り、警察に頼んで探してもらうことにしました。
 110番に電話しました。警察は「すぐそちらに行きますが、2人共あなたの家の中に入っていて下さい。外に出られるとかえって見つけにくいですから」と言いました。それでその女性を私の家の中にお誘いして入ってもらいました。「私は女子大生なのよ」と彼女は言いました。
 「昼間外出して帰ろうとしたら家がどこだかわからなくなってしまって。同じ家ばかりだから迷子になってしまったの」と彼女は言いました。

 私はコーヒーを入れて、パンを出して、色々話をして元気をつけてあげました。つい話に夢中になってしまうと、いつの間にか外は真っ暗で1時間もたっていました。警察はまだ来なかったので、また110番しました。電話には女性の警官が出て「もうそちらに着くころです。今しばらくお待ちください」と言いました。その時玄関の戸をノックする音がして、戸を開けると大きな懐中電灯を持った3人の警官が立っていました。私は女子大生の方を紹介しました。
 警官は「お嬢さん、パトカーに乗って下さい。お家は必ず見つけますよ。大丈夫です。お任せください」と言い、私に向かって「じゃあ、お嬢さんお預かりします。お家は必ず見つけますよ。大丈夫。安心してください」そう言って、女子大生をパトカーに乗せて発車しました。
(2008年1月19日)


来訪者 その1

 鹿の子台仮設に入って間もない7月に入った頃、「仮設の生活ってどうなの、心配だわ」と言って一度仮設をみてみたいというお友達がやって来ました。ダンス 同好会のメンバーでU子さんとK子さんでした。U子さんはスキ焼の鉄なべを持っていくと言いました。K子さんは牛肉とか材料いろいろ缶ビールをたくさん 持っていくと言いました。

 その日が来ました。私は駅まで迎えにいきました。よく晴れたいいお天気だったのです。朝9時頃少し肌寒い位の日でした。仮設の我が家の裏の大き なガラス戸からは宝塚の山が青く見え、青畳のにおいがとても新鮮でした。「すてき!こんなきれいな所に住んでみたいわねぇ」と二人とも思わず言いました。
 三人ともビールを飲むほどに少々酔いもまわり、朝の清らかな空気に包まれてすっかり楽しく愉快になりました。気持ちも晴ればれとして遂にステレオをかけて 歌を一緒に歌い出しました。午後4時頃まで三人は飲んだり歌ったりしていました。そして最後に名曲のブルースでダンスを交互に踊って別れることにしまし た。

 夕日が仮設の壁をだいだい色に染めあげる頃、私は二人を送って道場南駅に行きました。道すがらU子さんが言いました。「今日はとてもすて き・・・最高だったわね。仮設といっても中は広いし住みやすいと思うよ。案外丈夫に出来てる。すきま風がないから冬もそれ程さむくないのでは・・・」
 駅に つくと間もなく電車が来ました。私は「又おいでね。飲もうよ」といいました。二人は「又近い中、スキ焼しようよ」といって喜んで帰りました。
(2008年1月3日)


仮設で起きた孤独死

 私の仮設の家の裏は、大きなガラス戸とこげ茶色の美しいサッシの小さい窓がありました。小さい窓を開けると、裏の仮設に住んでいるおじさんが、玄関に咲いている草花を大切に育てて美しい花を咲かせていました。いつも水をかけたりしている姿がさわやかに見えました。
 “いいお天気ですね”と声をかけると、“そうですね。気持ちがいいですね。この辺はとても空気がいい。このままずっと住んでいたいな”と笑っておられました。
 おじさんは背の高いスラリとしたスポーツマンタイプで、見るからに健康そうな人で、私もつられて外へ出ていろいろ話し合いました。

 私が三宮や垂水に仕事で行く時など、道場南口駅でも偶然二度ばかり会いました。最後に会った日はよいお天気で、おじさんは駅のすぐ前にある大きな石に腰かけておりました。 私が“お出かけですか?”と尋ねると“はぁー娘の所へ行って来ます。娘は震災の後、いい家を見つけて借りたと言うているがどうしているかな…”。おじさんはとても嬉しそうでした。

 それから10日程お会いしていませんでした。まだ帰っていないのかなぁ、どうしたんだろうと思っていました。その日は雲一つない青空でした。午前10時頃、おじさんの家の廻りに人だかりがしていました。何かあったかな、そう思って私も家を飛びだして、おじさんの家に行きました。
 おじさんの家の裏にはたくさんの人が集まっていました。おじさんの家の裏の大きなガラス戸の前に警察の方が数人立っているのが見えました。1人の警官が小さな金槌を取り出して、ガラス戸のカギがかかっているあたりをかちんかちんと叩き割り、そっと中に手を入れてカギを外しました。警官がみな一斉に中に入りました。そこに居合わせた群集は、固唾をのんで見守りました。

 しばらくして1人の警官が出てきて、首を横にふりました。居合わせた人々は大きくため息をつきどよめきの声を挙げました。何とも言えないやるせない思いでした。おじさんは死んでいたのです。私は仕事に行かねばならないので、すぐにその場を去りました。
 後で聞いたのですが、救急車が来ておじさんを乗せ、病院に向かわれたとの事でした。でも、再び息を吹き返すことはなかったのでした。近所に住むボランティアの奥さんがたえず訪問していたのです。でも、鍵はかかったままだし、呼んでも戸を叩いても応答がない、どうしたんだろう、そして10日間も何の音沙汰もない。これはおかしいと通報されたのでした。

 この事件の後2日目でしたが、昼頃一台の乗用車が来ました。おじさんの遺族の方が4人来られたのです。おじさんの家に入り、手際よく入らないものは捨て、必要なものは車に入れ、私も手伝って挙げました。帰り際に“お騒がせしてすみませんでした。お世話になりました。本当に有り難うございました”と丁寧に言って帰られました。
(2007年10月17日)


いざ仮設住宅へ 2

 この鹿の子台高原は市街地と違って空気が澄みわたり、いろんな木や草花が勢い良く咲き乱れ、のひのびと鮮明な色、何とも言えない美しい緑色をしていました。いろんな花も咲いています。コスモス、さつき、たんぽぽ、ひまわり、すすき等です。

 さつきは広い道路に沿って赤く咲き、たんぽぽはいつのまにか仮設の家の回りに咲きました。初秋9月頃からは、すすきの穂が一度に咲き始め、急速に広がり、どんどん大きくなって地平線の果てまでも一面に真白い絨毯を敷き詰めたように無限に続いていたのです。
 真夜中、寝ている時に家の裏のガラス戸をしきりに叩く者がいるので、誰かなと思ってガラス戸を開けてみると、大きなススキの穂がいつの間にか生えて家の中にどっと入り込んできたのには只々びっくりして唖然としたこともありました。

 夕方、そよ風にすすきの穂が揺れて波打ち、初秋の斜陽に照らされている様はたとえようもなく哀愁を感じさせるのでした。また、たまらないなつかしさと淋しさを思い出させるのでした。鹿の子台とは、本当に美しい夢の国だったのです。

 また、鹿の子台平原の夕焼けは格別なのです。空一面が真っ赤に茜色に美しく輝くのです。それが青空と夕焼けのコントラストになって大空全体が青と赤のオーロラのように見事な模様を作るのでした。更にそれに加えて無数の赤トンボがどこからともなくやってきて高く低く低く飛び交い、夕焼けを更に色濃く染め上げるのでした。
 無数の赤トンボが空一杯に飛び交う様は赤トンボのダンスのおとぎの国へ誘われたのかもしれません。青空に赤トンボの大群がたわむれる様は何と美しかったことか……。

 大自然のおりなす業につい見とれてしまう私でした。私は毎日赤トンボの中に入って歩きました。赤トンボの唄をうたいながら……。
 “夕焼け小焼けの赤トンボ 負われて見たのはいつの日か…”
(2007年8月3日)


いざ仮設住宅へ

 今も思い出します。あの山の向こうのずっとずっとはるか遠い所に仮設があって、そこに住んでいたんだと・・・。
 避難所の診療室に来ている神経科の先生が、言いました。“仮設はあとの方が良いのが出来るから、慌てて申し込まない方が良いと思う。大丈夫、仮設に入れない事はないよ。まだまだたくさん建つんだからね”と。その言葉を信じて待ちました。そして最後に建った仮設に申し込んだのでした。やっぱりその通りでした。

 そろそろ初夏のにおいがただよい始める頃。1995年6月。念願の仮設に入ることが出来ました。神戸市北区鹿の子台仮設といいます。
 大震災のあとは、神戸市、芦屋市、西宮市、明石市等、あちらこちらとたくさん仮設が建ちました。私の入居した仮設は水はけもよく、道路も舗装されており、緑色の美しい屋根、2Kの広い部屋、新鮮なにおいのする青畳、こげ茶色の軽快なサッシの窓、電話一台、黄色い大きなカーテンと小さいカーテン、エアコンと二基のプロパンガスボンベが付属していて、水道からは暑い湯も出る風呂付の住宅でした。

 先ず最初にこの仮設へは神戸電鉄で行きました。電車は長いトンネルを抜け、山を登り、谷を渡り、田園風景のまっただなかを勢いよくひた走りに走ってゆきました。登山電車です。電車は六甲山の裏側を通り抜け、有馬温泉を右に見て、更に北へ北へと進んでいったのでした。やっと道場南口駅に着きました。
 駅を出ると左手の小高い所に仮設が見えました。“あっ!あれだな!”それにしても随分遠い所に来たものだなぁ・・・と、何だか心細くもあり、未知の期待や好奇心にわくわくもしました。

 仮設の我が家に到着しますと、引越し会社のトラックが先に来て待っていました。その日は引越しの荷物を入れて、整理整頓するだけで、すっかり疲れました。裏の大きなカーテンをあけると、遠くに宝塚の山々がほのかに青くかすんで見えます。玄関の戸をあけると三田の山が小さくほんのりと、やはり青くかすんで見えます。ここは広大な鹿の子台平原なのでした。
(2007年6月6日)


 避難所から自衛隊が帰るという知らせを受けて、多くの被災者が運動場に飛び出して来ました。私も飛び出しました。
 春の終わり、初夏の始まりとは言え、まだ肌寒い夕暮れ時、春の夕日に包まれて自衛隊のトラックが校門の外へ消えて見えなくなるまで、罹災者も自衛隊の隊員さん達も手を振り、ハンカチを振って見えなくなるまで別れを惜しんでいたのでした。
 「又来てね!」と誰かが叫びました。「はい、何かあったら呼んで下さい。いつでも来ますよ……」と隊員さんが力強い元気な声で応えてくれました。私はこの時ほど自衛隊が頼もしく、又、懐かしく思ったことはありませんでした。

 震災で水道が止まって飲み水もなく、困っていた時です。自衛隊の給水車がいち早く駆け付けてくれ、罹災者のポリバケツや水筒に水を注入してくれた事、野戦風呂を設営してくれた事、私が柵に足を引っ掛けて転倒し、胸や膝を打ってしばらく起き上がれなかった時、素早く走ってきて抱き起こしてくれた事、そして避難所の救護室に連れて行ってくれた事など、次から次へと走馬燈の様に思い浮かびました。

 特に印象深かったのは、野戦風呂でした。運動場に巨大なテントが設営されました。野戦風呂です。まだ雪が降っていて風も加わり寒い冬の日、この巨大なテントの中は春の様に暖かく、天井も高く広々としていました。脱衣場も広く、自家発電の電気が煌々と明るく、30人位の人が服を脱いだり着たりしていたのです。このお風呂は無料です。それが又何とも嬉しかったのです。浴槽も広く、大きくゆったりと入れて快適でした。石鹸も用意してありました。タオルは救援物資でたくさんあったのです。
 広々とした湯舟につかっていると大震災の恐怖や苦労を忘れさせてくれました。この野戦風呂が夕方から夜にかけては入浴希望の人が増え、行列が出来ました。受付には隊員さんが2人いて行列をさばいてくれました。「はい、次はここまでの方どうぞお入り下さい……」と、私は毎日入浴しました。

 湯舟につかっているとき、誰かが大きな声で「水を入れて下さい、熱いです」と言いますと、テントの陰からさっと隊員さんが大きなホースを抱えて湯舟に入って来ました。「水を注入します」と言ってホースを湯舟に入れました。ゴボゴボと音を立てて水が入りました。隊員さんは時々入って来て水を入れたり湯を入れたりしてくれました。
・・・つづく・・・
(2007年3月14日)


 稗田小学校が避難所でした。運動場の中央で焚き火が燃え盛っていました。廻りを罹災した人達が取り囲んでいました。誰もが放心した顔で押し黙ったままこみ上げる不安を押し殺していたのです。

 焚き火の材料は豊富になりました。倒壊した家屋が道路に散乱している折れた柱やタンスの破片が山積になっている、それを持ってきて燃やしていたのです。天を焦がす焚き火が地上から空に向かって吹き上がっていて雪が深夜にもかかわらず寒いつめたい爪に吹きまくられ焚き火に照らされて火の粉と一緒に舞い狂っていたのです。
 市内は全部停電で、水道も止まり、電話は全部普通だったのです。情報は全く入らず対策本部もつんぼ桟敷同様でした。

 避難所の運動場に3本の電話が設置されました。この電話だけが市内の各所に通じたのです。この電話に蜿蜒(えんえん)長蛇の列が出来ました。運動場の端から端まで続きました。
 夜中の1時になりました。長蛇の列は半分に減ったので電話の列に加わりました。並んでいた人達はみんな寒さに震えながら全壊や半壊で身動きがとれない人達なのでした。お先真暗な不安をかかえてそれでも何とか生きてゆこうと必死にもがいている姿が何とも痛ましく、唯唯祈るばかりの私でした。

 やっと順番が来ました。「生きていてくれよ!」「何とか電話に出てくれよ!」と心で叫びながら震える手でダイヤルを回したものです。「もしもし私です」なつかしい声だった。「豊美か!」・・・「とよみだね」!・・・「元気か」・・・「怪我はなかったか」・・・「大丈夫か?」・・・私は夢中でした。たてつづけに我を忘れて叫んでいたのです。
 あとは声にならなかった。ドット涙があふれた。豊美は垂水にいたのです。一番被害のひどかったのは長田区、次が灘区、東灘区、そして須磨区でした。私は灘区です。豊美は生きていた、無事だった・・・次の瞬間歓喜が体中をかけめぐった。

 「何べん電話しても通じないの、頭の中がまっ白になって・・・どうしていいか分からなかったの」電話の向こうでも泣いていた。豊美が無事だったこと、なつかしさと嬉しさで心がはずんだ。「よかった!」「よかった!」と思わず叫びました。
 豊美は私の社交ダンスのパートナーなのです。
・・・つづく・・・
(2007年1月29日)


 人は年をとってくると、だんだん孤独の心境になります。
 長い年月の体験や学習によって心情は鍛えられてはいるものの、先の人生が次第に不透明になってくると、心細さ、淋しさがこみあげます。何でもよい、安定した支えを求める様になります。ウバステや高齢者切捨て政策にならぬよう確固たる人民の連結、民衆の横の繋がりが大切だと思います。ボランティアの復活を心から求めます。

 大震災の時はボランティアの方々に一方ならぬお世話になりました。今、元気でここに住居出来たのもボランティアの方々のお陰なのです。
 避難所での生活は厳冬の中、大変厳しいものでした。”お先、マックラ”将来を考えると見も心もスリヘッてしまいそうでした。先のことは考えないでいこう、”何も考えるな”と自分に言い聞かせて崩壊した街の中を歩きました。歩きに歩きました。
 そんな時、タキダシが街のあちこちでありました。避難所でも毎日タキダシがありました。寒い中、熱いうどんが、ラーメンが・・・・
 今もその時のことが思い出されて涙がこぼれます。

 一番嬉しかったのがタキダシでした。「食べてください!」という声に誘われて熱いうどんやラーメンを戴きました。「頑張ってね!」「頑張ろうね!」その声が今でも耳に残っています。立ち上がる勇気を下さった方々のその声に励まされて歩きました。

 避難所の広い体育館の片隅で仲の良かった6人(男性4女性2)の方々と最後の晩餐をしました。夜もふけて別れる時「どんな事があっても生き抜いていこうね、頑張ろうね、又会いましょう」と固い握手をして別れました。
 その後仮設の選択、入居等々めまぐるしく変動し、お互いの消息も不明となり連絡は途絶えたままになっている。
(2006年12月12日)







今田 寿史さんへ届いた『かみひこうき』




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