八木 かず子さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:71才女性 職業:自営業)


 震災から早や19年目、いまでも震災がなかったら子ども達も私も違う人生があったのではないかと、震災後の生活はだんだんと苦しくなるばかりでした。
 4月に消費税も上がり、物価も上がり、ますます苦しい生活が待っていると思うと先々希望が持てません。

 東日本の人達も日が経つにつれ国からも周りの人達からも置いてけぼりになる気持ちが強くなるので、一日も早く国が手を差しのべて、一日一日が希望の持てる生活を望みます。
(2014年1月6日)


 早や大震災から15年、去年は中国で大きな地震、今年は13日にハイチで大きな地震。
 テレビを見るとまた15年前の1月17日の朝の大きなゆれでタンスの下敷きになり身動きがとれなく、やっと下の子供に助けられ、台所はガラスだらけで下の子供がふすまをはずし、その上を玄関まで歩き、下駄箱を起こして外に出ると商店街から火柱、長田の方も真っ黒な煙が立ち上り、「ワァー」とただ立ちすくみ、夕方まで台所のガラスを片付け、小学校に避難しました。

 朝から何も口にしていない夜は、椅子に座って余震がくるなか、「震え」ながら「寒さ」と「空腹」をしのぎ、やっと次の日におにぎり2個を食べ、一日過ごしたあの日。タンスが背中に乗っていたため、背中が痛くて、寒くて、思い出すと悲しくなります。
 一番困ったことは、仕事から帰ってペットボトルを袋に入れ、6階まで毎日歩いて上がって、洗濯水、トイレ、炊事にと使い、やっと一月後にエレベーターが動きました。

 15年前に地震がなかったら、神戸の人達も人生が変わらずに済んだと思います。私達も下の子供も上の子供もまだ結婚が出来ません。商売も不景気で生活が苦しく大変です。また地震がくるのではといつも不安です。ハイチの人達も一日も早く食べ物、住む所を用意されるといいのですが。
 災害の恐ろしさは忘れることができません。少しでも被害を少なくすることができる日頃からの防災について考えることが大事ですが、私も忘れています。
(2010年1月15日)


 去年からアメリカのサブプライムローンにはじまり、ガソリンの高騰、海外では中国四川省の大地震、各地の大災害。今年に入り、大不況で大勢の人々が首切りと本当に世界全体が影響を受け、今年もつらい一年になるのかと思います。

 私たちはあの大震災から14年を迎えました。あの大震災のことは一日として忘れることはできません。
 いつも、今地震が来たら・・・と不安な毎日です。ガスの元栓も今は必ず使った後は閉めています。14年前の地震で建物も動いてずれているのか、トイレの換気扇もねじれているのです。水もポリタンク2つベランダに置き、タンスも全部捨てたため、今背の低いものを使っています。玄関はなるべく鍵を締めないようにして、懐中電灯をぶらさげています。

 二度とあのような地震はあってほしくないと思います。
(2009年1月16日)


 今年も早2月半ば過ぎとなりましたが、まだまだ寒い日が続いて、朝起きるのが嫌になります。
 2月14日の午前0時半頃地震があり、「ウワァー地震」と云ったきり、ドキドキしてまた大きいのが来たらと寝れませんでした。

 この度は浦嶋様のちぎり絵「心のこもった贈り物」ありがとうございました。本当に上達され、私達に送って頂き、誠に申し訳ございません。店に飾らせて頂きます。お客様にも観てもらえて、私も嬉しいです。

 春の訪れも、もう足元まで来ています。どうぞお体御自愛下さいまして、お過ごし下さい。
 ありがとうございました。 
(2005年2月17日)


 今日(1/17)で震災から10年。 悲しかったこと、苦しかったこと、あっと言う間の10年。
 神戸の人達は、世界の人達、全国の人達から励ましを受け、外目には復興は進みました。しかし、一瞬にして家を失い、家族を失い、ただ呆然としていた震災から10年。まだまだ忘れることのできない日々、心の傷は癒されません。

 去年は台風や水害、又、新潟(中越)地震とスマトラの大地震・津波。私達震災で被災した者が風化しないように伝え、防災についても日頃より体で学ぶことの大切さを知ることによって少しでも役立つことです(二度とあっては欲しくないのですが)。私も震災は忘れていないのですが、防災の大切さは「おろそか」になっています。

 新潟の人達も一日も早く元気を出して頑張って下さい。住み慣れた土地に帰れる日が一日も早く来ることに希望を持って、お体を大切に頑張って下さい。私たちも頑張って生きなければと思います。

 かみひこうきの皆さん、遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。
(2005年1月17日)


 ここ二、三日春の嵐が吹き、洗濯物が飛びそうで大変な此の頃。毎日お参り(ご先祖供養)に行く道に今日初めて梅の花が咲いているのを見て、もうすぐ春が足元までやってきたのだナー!!と。

 精一杯生きている私にとって、ゆっくり梅の花を見る気持ちは無く、往復一時間、ただただ歩き店まで帰る毎日。不景気と病気の不安で落ち込んでいた時、浦島さんのちぎり絵。また私の好きな「つばきの花」。毎年、私達のような者にありがとうございます。店に飾って、頑張らなくてはと励まされます。本当にありがとうございました。

 浦島様、どうぞお体大切にお過ごし下さい。
 かみひこうきの皆様、いつもありがとうございます。
(2004年2月16日)


 10年目を迎え、「もう10年目になるのか」、寒くなると、震災の朝のことを思い出して、本当にそれ迄に体験したことのない悲しいことばかり。10年になると震災前のいろいろなことも忘れていることが多くて、ショックが大きかったのでしょうネ!!

 震災の時、タンスが落ちてきて、フスマにタンスの角があたり、私は助かった。やっと今年1月4日、家で紙を買って張り替えることができました。が、あの日の夜は小学校で椅子に座って、ふるえながら過ごしたこと、あの震災がなかったら又違った人生だったのでは。子供達にとっても私にとっても本当に苦しい日々でした。

 震災後は、不景気が続いて、生活も苦しい日々ですが、全国の皆さんに助けていただき、神戸もだいぶ復興しました。大きい地震にあわれたイランも多くの人達が死亡され、地震の怖ろしさは全世界に知らされました。地震国日本も又いつ大きい地震がおこるかわかりません。防災、防災と、その日だけ(17日)云わずに日々気をつけることが大切なのではと思います。
(2004年1月7日)


 桜も満開で、街行く人達も春の服装となり、寒がりの私も少しずつ過ごしやすくなりました。

 先日の「東海地震」のことで遅くなりました私の体験ですが、地震の日、我が家のフスマが板にしていたので、タンスが落ちた時、フスマに引っかかって全部が下まで落ちず、私は助かりました。下の子供がフスマを倒し自分の部屋から出て、台所のガラスが割れているのでフスマの上を通り、靴を持ってきて、タンスを持ち上げ、私に「靴を履いて外に出るように」と助けてくれました。

 第一番に「ガスの大元を切る事」が大事ですが、我が家の3軒先の老人はローソクを点けて来ました。ローソクは絶対悪い事です。周りがガス臭い時は、「火を消す事」、「ブレーカーを落とす事」が大事です。もう二度とこわい思いはいやですね。
 看板を作るのでしたら、家の中にいつでも見える所に貼っておくことでしょうね。

 浦嶋さんは75歳で、人の喜ぶことをされ、本当に頭が下がりますね。有難うございました。
(2003年4月7日)


 足元に春のおとずれを感じる此頃ですが、まだまだ寒い日が続き、いつまでも重い上衣を着て、肩こり、疲労のとれない毎日を送っています。
 先日は「ちぎり絵」ありがとうございました。浦島様は何才くらいの方でしょうネ?

 「ちぎり絵」は根気のいる手先の作業で、肩こり、疲労はありませんか?私達に下さり、励まして戴き、本当にうれしく思います。店にかざって毎日楽しみに見て、頑張らなければと勇気づけられます。
 浦嶋様に宜しくお伝え下さい。
 かみひこうきの皆様もお体大切にお過ごし下さい。
(2003年2月18日)


 あけましておめでとうございます。

 お正月が来るたびにあの震災の日のことを思い出し、悲しい気持になります。
 1人暮しをしていた主人の母は、震災の朝、毛布にくるまり外で震えていました。前の日に私が買った食べ物も冷蔵庫がひっくり返った状態で、ショックでその後病院生活に入り、9月に亡くなりました。震災後1ヶ月後に、神戸まで広島から日帰りで見舞ってくれた私の長兄も今は亡く、母も亡くなり、本当に淋しくなりました。

 私達も店まで普通30分くらいで行けるのに、震災後は1時間半もかかって、やっと店につくと、店の中はメチャメチャで、後片づけが1ヶ月かかり、やっと仕事を始めると不景気が続き、下の息子も震災のために仕事ができなくなり、去年やっと個人の会社に入りましたが、不景気なので大変みたいです。

 平成14年、住宅の下の仮設住宅の跡地にサッカー場ができ、14年は多くの人達が全国から来たのでしょう、にぎやかでした。ラジオなどで南海地震の話を聞くと、又あの日の様になるのではと思うと心配です。
 家の中を見て、上から落ちてこないかしら、水は18リットル2コ、8年たつと防災意識がうすれているのではないかしら、「ふろ」の水はいつも入れておく等々…でも日がたつにつれて忘れかけています。災害にあった人達は、いつまでも全国の人々に伝えてゆくべきです。
(2003年1月3日)


 朝夕しのぎやすくなりましたが、まだまだ日中は残暑がきびしく暑い日が続いています。

 「天災は忘れた頃にやってくる」と言いますが、25日の夜は本当にびっくりしました。いつも夜になると地震のことは忘れませんが、やっとのことで今日まで過ぎました。

 又防災について一生懸命考えなければと思うのですが、この前の地震の時もただオロオロ「怖いこわい」と大きい声を出すばかりで、防災のことは全然考えられませんでした。9月1日は防災の日、地震ばかりではなく台風も大雨を降らします。全国の皆様もう一度身の回りに必要とするものを置いておきましょう。これは私に言うことですが。

 小泉首相は「聖域なき構造改革」と言っていますが、これから先これ以上「不景気」が続き失業者が増えると不安は一層増します。特に小さい自営業者、中小企業にとって、死活問題になります。

 神戸市も市長選挙も、もうすぐありますが、まだ市民は震災後の生活のたいへんさを知って欲しいですネ。
(2001年8月27日)


 今朝は雪がちらつき寒い朝と成りました。足元に春が近づきつつ又冬に逆戻り、先日は浦島様からの春のちぎり絵本当に有難うございました。いつまでも神戸の人々のことを思い出していただき、感謝致します。店にはって励みとさせていただきます。

 上杉様の意見を見て、私も避難所となった小学校でのいろいろな事を思い出しました。私はプールから毎日バケツでトイレの水をくみ入れてもすぐに無くなり、プールの鍵を借りて水を運びました。夜10時頃物資が入ってくるのを男子は長い廊下を重いダンボール箱を運び、私の息子もくたくたになっていました。

 いろいろな人達で特に老人との喧嘩、寝不足で皆疲労で風邪を引いて本当に寒さがこたえました。家に帰っても毎日毎日6階までの水運びで、やっと1ヶ月後にエレベーターが動いた時の嬉しかったこと。今はポリタンクに2個入れております。風呂の水はなるべく入れています(地震の時は殆どなくなっていましたが)。
 時が経つといろいろな事を忘れ去られますが、いつどこで起こるかわかりません。また、「かみひこうき」を飛ばしてください。
(2001年3月14日)


 震災後は、神戸の人達にとって人それぞれに苦難の生活を送らざるをえなくなり私達自営業(小さい店)は本当に苦しい生活を送っています。神戸では商業の大小にかかわらず良く無いので大阪に会社が移り神戸はますます景気が落ち込みすっとこのような生活が続くのかと思うと、先が不安です。頑張りたくても仕事が無く、失業者も増えるばかりです。
 節約できることは、震災後のことを思い出して、水、電気、ガスとしています。着るものも何にも買えなくています。本当の被災者の姿は全国の人達に伝わりにくいと思いますが、私達が「かみひこうき」を飛ばさなければと、今日書きました。
 我が家の次男も相変わらずバイトをしています。なかなか仕事が無いのでしょう。1日も早く、景気が良くなればと願っています。
 1月17日が来ると、いやでも思い出し不安になります。被災者は頑張って、頑張って、前の生活に近づけばと一生懸命です。
(2001年1月19日)


 かみひこうきの皆様
 暑中お見舞い申し上げます。

 毎日、伊豆諸島の地震情報がラジオで流れています。本当に私達地震体験者でなければわからない恐さが思い出され、伊豆諸島の皆様も毎日毎日落ち着くことのできない日々を送っているのだろうと思うと、やりきれない気持ちです。私達も震災5年半が過ぎましたが、又大きな地震がくるのではと常に気になり、あの時の怖い思いは今も忘れられません。

 私達の住宅の下には大きなサッカー場が作られています。神戸市も震災後には大きな建物も見られなかったのが、今はあちらこちらに大きな建物も建てられていますが、住んでいる人達は不景気とお金の返済などなど、いつまでも大変な生活が続いています。私の子供もバイトをしています。1日も早く職が見つかればと願っています。伊豆諸島の地震も1日も早くおさまり、皆様が安心できる日々が来ます様にお祈りします。
(2000年7月31日)


 被災後不景気が続いている事もあって、周りを見ても ギスギスとした感じで、全国の皆さんも忘れてしまった のでは?
 有珠山の周りの人達は、噴火が続く限り 避難所生活で、心の休まることが無い毎日。 私達も 避難所生活をした経験があるので解ります。 一日も 早く我が家に帰って落ち着く事ができる日をお祈りします。

 神戸市の人達も今頃借りたお金を返済していかねばならず、 又、4月から40才以上の人達は介護保険料も納めなければ ならずで、復興住宅の住民の6割が無職とかますます苦しい 生活が続きます。
 全国の皆さん、「被災地」に目を向けて下さい。
(2000年4月19日)

 震災5年目やっと最後の仮設に住んでいた人が出られたそうです。でも仮設より出て公営の住宅に移り住んでも、隣り近所の人達の交流があまり無いとのことで、本当に年寄の人達は淋しい日々を送られているのではないでしょうか。神戸市も公共の建物は復興復興と建てられていますが、市民1人1人はまだまだこれからです。住宅ローンをかかえ、職につけず、不景気が続き、震災の傷はいえません。
 私達神戸市民、5年間一生懸命頑張ってきました。遠くから来られた人達の見ている所は復興の進んだ所ですが、地区によってはまだまだ空地もあります。一年過ぎるごとに震災は忘れられています。全国の皆様、一生懸命頑張っていますが店舗を閉めなければならなくなった人達が多くいます。何卒震災を忘れないで下さい。
 私の息子もまだ職につけません。本人はいろいろ探していますが、なかなかです。
 寒くなると背中が痛み地震の日を思い出し、夜になるとおそろしくなり、タンスが落ちて、下の息子がいなかったら上の子供と私は助からなかった。
 今生きていて良かったのかどうか。
(2000年1月14日)

 埼玉県の古川飛祐様、お便り有難とうございました。神戸市内(異人館)方面も土曜、日曜には、多くの人達が遠くから来ています。
 私の住んでいる市住の下の仮設住宅がとりこわされました。毎日仮設住宅を見ていましたが、やっと、皆様行く住宅があったのだろうかと、人ごと乍ら、本当に気になります。この前の朝5時に震度2ぐらいの地震があり、又、大きい地震があるのではと心配していましたが、それ以後こないのでホッとしています。前の地震で入口の戸がこわれて開きにくくなっているので、毎夜少し開けて寝ています。
 下の子供もまだ職につかず、バイトです。店の方も本当に不景気が続いています。
 神戸市民皆んな一生懸命頑張って生活しているのだからと、私だけではと落ち込みます。
 全国の皆さん阪神大震災があったことを忘れないで下さい。今年は暑さが厳しい日が続いていますが、電気代を節約しなければと、夜も暑いのですが、クーラーはつけないようにしています。
 何年たっても震災を忘れることはできなくて夜になると不安になります。
 又、お便り下さい。
(1999年8月6日)



残暑お見舞い申し上げます

 奴賀様よりのひまわりの種、植えてやっと1本だけ花が咲きました。毎日毎日咲き始めを楽しみにしていましたら、8月17日小さな花でしたが(鉢植え)、うれしくて切り花にして楽しんでいます。ありがとうございました。

 被災して4年が過ぎようとしていますが、まだまだ仮設に住んでいる人達がいます。次に住む住宅は家賃が高いこともあり、老人の方達は先の不安もあり、知り合いのいない所に行くのも不安でしょう。
 長田の方もまだまだ空き地がたくさんありました。私達も一生懸命頑張って生きなければと思います。でもこの不景気が続くと大変です。会社も次々倒産、失業者が増加して、我が家の息子達も相変わらず職なしでアルバイトをしています。

 神戸も空港建設の是非を市民に問う話が出ています。私達は本当に空港が必要なのか疑問を感じます。私は建設に反対です。駅前には足の悪い浮浪者の人を見かけます。仕事をしたくてもどうすることもできない人達もいます。もっともっと市民の人を知っていただきたいのです。本当に胸が痛みます。どうか皆様、被災地に目を向けて下さい。
(1998年8月22日)



 ゴールデンウィークに入りましたが、全国不況で皆さん大変な様ですね。神戸に住んでいる私達にとっては震災後の生活は、毎日毎日生きていると、いや、「生かされている」とつくづく思います。

 旅行で来た人達には復興した道路や建物を見て、元の姿だと感じているでしょう。 でもまだまだ仮設に生活(1人で)している人達や私達、小さな店舗は不況風をもろに受けているのです。にもかかわらず、道路に置かせてもらっていた「看板」を警察の人が「神戸の顔である道路に置かない様に」と一言何も言わずに警察に持ち帰り、女性の私が抗議しても分かってもらえず、本当に同じ市民として悲しくて悲しくてたまりませんでした。

 この度「ひまわりの種」をお送り下さり、ありがとうございました。毎日、朝出かける時、今日頑張ってと思って家を出るのですが、店に出ても仕事が無いので一日が長く感じられます。

 全国の皆さん、神戸市民1人1人はまだまだ大変な生活を強いられています。私の親戚も深江の県住に住んでいましたが、両親が80才近くで1人息子(42才)でしたが、家賃が高くて、又、老人には5階までの階段を上るのが大変です。結局近くにマンションを買ったのですが、2日目に息子さんが「ガン」で長く生きられないとのこと。本当に親はショックが大きく、「先に死にたい」と言っていました。市も県も国も被災地の現状を深く考えて下さい。
 乱文乱筆失礼します。
 (1998年5月1日)



 寒さも和らぎ、桜の開花も予想されました。

 毎日毎日いやなニュースばかりで、私達被災地のことは忘れられています。震災復興と丸3年が過ぎ、4年目に入っても今なお仮設住宅には25,300世帯が不自由な生活をされているそうです。
 高齢者や病人の多い仮設住民にとって、過酷な日々が続いていると思います。
 残酷な孤独死もたびたびあり、本当に心が痛みます。仮設住宅の住民の現状をもっともっと行政の人達に知っていただきたいです。

 私達大人も、小さな子供も1日たりとて震災の恐怖のことは頭から離れません。全国の皆さん、市街地は復興しても住民の心のケアはまだまだです。私達は震災後、無我夢中で今日まで生きて来ました。全国の皆さん、被災地の現状を知っていただき、救援下さい。

 色紙は店に飾らしてもらっています。毎日頑張ろうと出てきていますが、仕事が暇で落ち込む日が続いています。でも、色紙を見て気持ちを取り直すようにします。
 (1998年3月4日)



 震災から3年が過ぎました。1月17日が近づくと、毎晩不安になり、寝られない夜が続きました。また大きい地震がと私だけでなく近所の人達も同様でした。17日が過ぎほっとしたのですが、今日(19日)地震があり、また不安ですが、もっと不安なのはこれから先の事です。

 二人の子供は失業状態です。平成9年に5%の消費税となり、益々不景気が続き、私達母子家庭は大変です。市は復興復興と進めていますが、弱者だけが取り残されて行くようです。仮設に住んでいる人達(老人)も安定した生活が1日も早く来ることを望んでいると思います。

 奈良県の浦島様、手作りのちぎり絵を送って下さってありがとうございました。店に飾り、毎日見てがんばろうと心の支えにしています。全国の皆様の励ましの言葉で、私達神戸の人も頑張らなければと、毎日を送らせていただきます。ありがとうございました。

 かみひこうきをもっともっと多くの人達に知っていただきたいです。
 (1998年1月19日)



 (9月1日防災の日)朝夕少しずつ涼しくなりつつあり、また寒くなると震災の朝「和服ダンス」が背中に落ち動けなくなり、やっとの思いで子供達に助け出されたこと、寒くなると背中の痛みが震災を忘れることが出来ません。仕事も不景気が続き、子供2人もまだ職が決まらず、本当に落ち込む毎日ですが、気持ちだけでもしっかりしなければと朝出掛けます。仮設住宅で生活されている方を思うと、元気を出さなくては……と。

 行政は建物、道路と本当に早くきれいに整備を急務としていますが、街に住む人達はまだまだ心の痛みは癒されません。

 仮設で一人住まいをされている人達、仕事の出来ない人達を行政はもっともっと知って、仮設に見舞って下さればと、私達母子家庭にも。全国の皆さん、被災者の現状をお知り下さい。
 (1997年9月1日)

 

 街は復興復興と道路、建物は再建されつつありますが、街に住んでいる人々の暮しは全然良くなっていないのが現状ではないでしょうか?

 私の息子2人も震災後職が無く、アルバイトをしていましたがアルバイトも七月で(下の息子)切れこれから先の日々の生活をどのようにすればと思い、国に一日も早く被災者に援護の手を差し伸べて下さいとお願いします。私達個人商店はますます厳しく市や県ももっともっと避難所、仮設住宅で生活している人に心配りをしてください。

 県外から旅行に来た人達は北野の復興した異人館の方ばかり見物しているので本当の現状は解らないのでしょう。全国の人々に被災地に住む人々の状況を伝えて下さい。
(1997年7月8日)










八木 かず子さんへ届いた『かみひこうき』



1.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)

2.古川飛祐さん(埼玉県)

 昨年12月のお手紙を読みました。「神戸一市民のことを忘れないで下さい」この声に多くの人が応えると思いますよ。みんな、そちらのことを真剣に考えています。私のように、一歩ずつ歩み出す人が全国にいます。新聞に載った「かみひこうき」の案内を大勢が目にしたでしょう。震災は忘れられてはいません。全ての人が安心して暮らせる日が来るまで、忘れることは許されません。どうか、お体を大事になさって下さい。息子さんが安定したお仕事に就けますように。
(1999年6月21日)

3.古川飛祐さん(埼玉県)

 お手紙ありがとうございました。仮設住宅が取り壊され、ではそこに住んでいた人達は落ち着き先が決まったのだろうか…と私もニュースを聞く度に思います。地震も小さなものが起きる度、自分の怖さとこういう時の皆さんの気持ちとを、同時に考えます。揺れが収まり、静かになると本当にホッとします。入口の戸が開きにくくなっていて、毎夜少し開けて寝ていらっしゃるとのこと、私に戸を直せる技術があれば良いのに、と思います。

 子供さんのお仕事、アルバイトであっても長く続けられればと考えます。私の仕事も元はアルバイトという形でした。公共職業安定所などの役所に関わる仕事内容なので、不景気はひしひしと感じています。政府が長期的な対策をとってくれることを願っています。八木さんが、夜安心してぐっすり眠れ、朝は何の心配もなく目覚められるようになるためにも。
 9月も半ばになりましたが、過ごしやすい秋が早く訪れると良いですね。夜、気持ち良く眠るのが体にはとてもいいのですから。
 国が人間に対して何をするべきなのか、毎日考え、望んでいます。自分の無力さに気を取られる前に、やるべきことを探しています。八木さんも呼びかけを続けて下さい。私はいつもここにいて、こだまを返すことができます。どうぞお体を大切になさって下さい。子供さんのご健康もお祈りしています。私の理想、人間が安心して暮らせる世の中の実現のため、努力し続けることをお約束します。

 多くの歌手の方々が、神戸を想う歌を作り、大勢の人がそれを聴きました。私と同様に、今もその歌を聴き、あるいは口ずさみ、曲に込められた想いを受け継いでいる人が、全国にいると思います。
 それではまた、お話ししましょう。
(1999年9月15日)

4.古川飛祐さん(埼玉県)

 こんにちは。その後いかがおすごしですか?
 すっかり秋になりましたね。雪が少ない日は、富士山が見えます。穏やかな日には、 水鳥が親子だと思うのですが、仲良く川を泳いでいます。そんな景色を眺めながら、 いつも八木さんはどうされているかなと考えます。神戸の空がおだやかであって欲し いと願います。菊の花が真っ盛りで、ああ、私はとてもこの花が好きなのだなと改め て感じています。少し前まではコスモスが優しく揺れていました。お体を大切になさっ て下さい。
(1999年11月6日)

5.浦嶋三四さん(奈良県)

 ちぎり絵のお礼のお手紙、ありがとうございました。
 お店に貼って下さっているとの事、下手なのに、何か恥かしくなります。年を重ねすぎ、思うように貼れていないのに、ほんとにありがとうございます。
 地震はいつおこるか、こればかりはわかりません。奈良でもいつおこるか。明日は我が身ですもの。
 大変だったと思いますが、お元気に過されているとの事。どうぞ御身大切にお元気で日々お過し下さいますように。奈良からお祈りしております。
(2001年5月8日)


八木さんへ『かみひこうき』を送る

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