村上 智恵さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:70才女性 職業:無職)


 お手紙ありがとうございます。
 今はいろんなところから時々お手紙をいただいておりますので、楽しみにしてその日その日を送っています。
 今月18日に、また入院しますので、つらい目にあうのが悲しいです。でも、検査の結果が悪かったので、抗がん剤を打たなければなりません。悲しいことばかりで、いつになったら元気になれるのか、先のことが心配で毎日悩んでいます。でも、気持ちだけは負けてはいけないと、自分に言い聞かせがんばっています。こうして皆さんからお手紙をいただいて、返事を出すのが楽しみです。

 ボランティアで、Sさんというお人からもはがきをいただきました。私が「ありがとう。すみません」という言葉を教えたことがあるらしく、その言葉を忘れていないようでした。いつのことかわかりませんが、ちゃんと覚えておられるようです。電話番号がないのでかけられませんが、たぶん若いお人と思います。
 また病院から帰ったら、連絡します。いつも迷惑かけてすみません。では、これにて。
(2000年9月12日)


 いろいろとお手紙ありがとうございます。
 私は悲しい女です。人様にやさしくして喜んでいるのを見て、自分が幸せと思い、涙もろくて、また一方では強いことを言ったりして、それが私の生きがいでした。ボランティアに行っていた時は、とても楽しく過ごしていましたが、病気になってからは自分を忘れてしまったようです。今は自分の体さえ持て余しております。
 自分が嫌になり、いっそ放浪の旅に出て行きたい気持ちもあります。一人暮らしや病気持ちの者はみんなそうではないでしょうか。入院していた時などは、地震の時に死んでいればよかったのに…とかいろんなことを思います。

 また抗ガン剤を打つので、恐ろしくてたまりません。夜眠る時に、「ああ、このまま目が開かなかったらいいのに…」とか、考える時もあります。人間て弱いものですね。私は何のために今生きているのか、皆さんに迷惑ばかりかけて、何の楽しみもなく、一人毎日閉じこもり、寂しいやら哀しいやら…この世にいるのが嫌になります。何のために生きているのかわかれば、もっといろんな楽しみもあると思います。
 かみひこうきの皆さんもどうか体に気をつけて。いらん心配かけてすみません。自分を守って、楽しく過ごして下さいね。またお手紙出します。ごきげんよう。またね。
(2000年8月29日)


 長い事お手紙を出さず、ご無沙汰しております。私もなかなか副作用が取れなくて困っています。悲しくてたまりません。
 若菜さんからはがきを頂きました。心の支えです。皆さんから応援して頂き、やさしい心の支えに、私は何と御礼をしていいのか、わかりません。一日も早くよくなって、もう一度皆さんに会いたいものです。今のところ、ふらつきが取れないので恐ろしくてたまりません。私もこんなガンになるとは思っていなかったのです。恐ろしい病気です。これからもいつまで持つか、不安でたまりません。まだ外へ出た事がありません。

 今は梅雨なので、ジトジトとして嫌な気分ですね。そしてまた暑い夏が来るので、体に気をつけてがんばってください。風邪を引かぬように気をつけてね。私もがんばります。赤西さんからもはがきが来ましたが、出て行けないのが残念です。
 またお便りします。お元気で。
(2000年6月23日)


 お手紙ありがとうございました。私はまだ体の具合がすっきりしないので、ご迷惑かけてすみません。元気になって皆さんとお会いしたいと思っていますが、副作用がなかなか取れませんので、恐ろしくてたまりません。病院にいた時は、皆さんにいろいろお世話になりました。今はうちで外泊扱いとなっているので、なかなか退院できず残念でたまりません。
 この頃は花の絵も手に着かず、指先がしびれて思うように書けないので悲しいです。“がん”という病気は恐ろしいものです。あなた方も体にはくれぐれも気を付けて下さい。年を取れば、いろんな病気が出るものですね。もし。悪いところがあったり、傷付かれたりした時は、必ず病院に行って下さい。

 そして、かみひこうきをありがとう。大事にしまっておきます。いつも何かとお気遣いいただき、申し訳ありません。11日には岡山のOさんが来てくれて、長いこと話し相手になってくれました。一人暮らしには笑うこと、楽しい話が何よりのお土産です。
 またお便り下さい。私も出します。ごきげんよろしく。
(2000年3月14日)


 お手紙ありがとう。
 自分の書いた文章をしっかりとやり直して、読みながら泣きました。でもこんなに心配していただいてありがとう。何かにつけてまたよろしくお願いします。

 新しい場所にもだいぶん慣れてきまして、お友達もできそうです。花をくれたり、また道で会えば声を掛けてくれたりしてだんだん慣れてきたような気がします。「婦人会に入りませんか?」と言われて入会しました。月2回くらい寄り合いがあるほかカラオケなどいろんな行事があるそうです。会費も月500円くらいですむようです。うちにいてくよくよ考えるよりその方がいいでしょうし、お友達も作ろうと思っています。

 これから先も長くかみひこうきを送って下さい。待っています。心の支えありがとう。今はつらくとも、また良い日が来ると信じています。ではご機嫌よろしく。お元気で。
(1999年4月27日)


 美しいつばきのちぎり絵ありがとうございました。

 私は今、一人淋しく市営住宅で暮らしています。近所の人達と付き合いがないので悲しいものです。仮設にいた時は、いろんな人が覗いてくれましたが市営ではあまり口をきく人がおりません。ボランティアに行っていた時のことが、とても懐かしく思い出されます。いろんなお人にあったり、帰りにはご飯を食べて楽しんだことをしのべば、涙が出てきます。もっと若かったら友達もできるかもしれませんけど、年を取るとあまりお付き合いができないものです。でも木村君やともちゃんに電話をしたら、いろんなお話をしてくれます。矢萩さんも木村君と一度私の家に来て下さい。
 まだ仮設の気持ちが抜けなくて、錯覚して困ります。仕事でもしていれば気持ちが落ち着くのですが、何もしないでうちの掃除、洗濯だけでは……。体がすっきりしないので、なかなか片付けも終わりません。片付けする気も起きないのです。一人思案に暮れるばかりで、もう生きているのが嫌になる時もありますが。でも、我慢して一日一日を過ごしているのです。

 嫌なこと書いてごめんね。体に気を付けて、頑張って下さい。又お手紙致します。ご機嫌よろしく。来られる日をお待ちしています。
(1999年4月9日)


 お手紙ありがとうございました。

 私はやっぱり新しい家が欲しくて、仮設で待つことにしました。高倉台(県営空き家)はだめです。狭くて汚くて、とても入る気にはなれませんでした。行くまでの坂道も長くて私には合いません。待っていればまた募集があると思います。
 また寒くなったらボランティアに出ようと思います。まだ頭が痛くて、外に出るのが怖いのです。頭のCTを撮りに行こうと思っています。たぶん、地震の時に硬い物で6時間も頭を抑えられていたことが原因ではないかと思います。助かったのだから良かったと思いたいのですが、今になってこんな目に遭うなんて悲しいものです。

 いらん心配事書いてすみません。ごめんね。また会った時に楽しい話がしたいと思います。それまで元気になるように頑張ります。
(1998年8月12日)



 私は昭和4年10月12日生まれです。ものごころついたときは(ゴールデンバット)というたばこがありました。そのとき、私が7才のときです。

 昭和13年のときに、再度山の下に池があり、8月の日雨がすごくふり、池がきれて洪水となり、私の住んでいたところが、山手でした。お昼前のことです。山崩れが来て、私たちの家が流されてしまいました。その後近くのお寺に避難をしていろいろお弁当をいただき、そのときは、父も母もいました。私と姉と弟が3人家族7人でした。

 そして大倉山で「バラック」を建ててもらい、私は学校に入り、2年ほどしてから須磨区の大池町5丁目に家を借りました。それから弟が1人2人と生まれ、私と姉と弟が5人になり父母と家族9人となりました。2,3年してから父が家を出ていってしまいました。姉は母のおばのうちにもらわれていき、残された家族は母と私と弟の5人、7人家族でした。

 私は2年生でやめて、家の手伝いをしていました。母はぜんそくと心臓が悪いのに、浜の仕事に行き時々途中で帰ってくる日もありました。それから私は、大橋の赤のれんという食堂で働くようになり、皿洗いをして家族を助けてゆきましたので、好きな学校も行けずも昼も夜も家の手伝いばかり。それでも気にかけずがんばってきました。

 戦争が始まり、母の里が三木なのでそこへ避難をして、私はあっちこっちの田んぼを手伝い、7人で食べて行くのが大変でした。母も体が悪いのに昔の人ですから、わら草履を作るとき私がわらを打ち、母が草履を作り、それは口やことばでは言えません。苦労の重なりでした。そのうちに弟もだんだん大きくなって勤めるようになり、私も20才になりいろんな苦労もありましたが、貧乏はもういやと思いました。

 戦争も終わり、母の兄弟がもう神戸に出て行くようになったときは家族7人で、神戸には出てきたものの家がなくて路頭に迷い、私が今で言えばスナックみたいなところでお金を借りて借家を借り、母と弟と6人で住んでいたのです。弟も浜の仕事をして、その日の暮らしをたててゆきました。なんぼか食べるだけできるようになり、ようやく落ち着いたかと思えば、弟が家を1人2人と次から次と出て行き、でもそれぞれ家庭を持って出ていったくれたので、私は安心しました。

 その後私も所帯を持ち、やっとのことで生活できるようになり、女子と男子と2人生まれましたが、それも13年ほどの夢でした。主人の母にいじめられ、皮肉とかいじわるされて、もうこれ以上がまんができず、私は上の女子を連れて家を出ていきました。

 それから私の姉が姿 をあらわし、女の子を見て上げるからと言って、連れていきました。一人になった私は会社で働き、仕送りをしていましたが、姉は子供がないので欲しかったと思いますが、あまりにも私をだまして残酷です。かわいそうに娘がどんなに苦しい思いをしたかと思うと、私は涙 を流し、思い浮かべて泣きました。その娘が今は、44、5になっていると思いますが。地震の前に私が月見山の病院にいたときに来てくれました。もう6年ぐらい会っていません。それまでは、時々あってくれたのに、今では何の音沙汰もなく、どこでどうしているのか、死んでいるのかわかりません。母というものは、いつまでも我が子を心配するものです。男の子も私から時々電話をして、声だけ聞きます。東須磨にいますが、別れた主人のところへは行きません。ただ息子の声を聞くのが楽しみです。

 この世の中にいろんなお人もいると思います。でもだれもうらんでいません。私が悪いのです。どんなにつらくても子供を残して出た私が悪いと思っています。そのつぐないをしなければいけないのです。私は小さい時から一度もよいことがなくても、こうして話せるお人がいれば気も晴れます。
(1997年6月16日)



 私のきょうだいは七人です。姉が一人そのつぎが私です。あとは弟が五人もいたので、姉は15才でもらわれていきました。私はそのとき13才でした。あとは下に男ばかり五人、お父さんがいえでをして、私が弟のせわをして、母が一人ではたらいていましたので、がっこうへもいけませんでした。たべものもおなかいっぱいにはたべられませんでした。そして私は夜さらあらいに行き、はたちまでくろうのたえまもありませんでした。母もしんぞうがわるくてかわいそうでした。でも私もいっしょうけんめいにきょうだいのせわをして、やっとのことで私がはたちのとき弟がゴルフのキャディーとしてつとめるようになり、私もあんしんしましたが、やっぱり私もはらたき、いえのせわをしてたすけてきました。私の母の里は三木です。おばさんのたんぼにてつだいに行き、さつまいも、むぎ、いものつるなどをもらい七人でたべていきました。いろんなくろうをしました。

 でも私は、がっこうだけがいきたかったです。びんぼうをしていろんな人にあい、いろんなところではたらきましたが、いまおもえばべんきょうになったとおもいます。おやをうらむことはありません。私はそんなほしの下にうまれたとおもい、じしんでたすかったこともまだまだ私にはこのよにひつようがあるのかとおもい、がんばっています。

あしもいたいし、からだもあまりよくなくても、ボランティアにはいってゆうきがわきました。ときどきかなしいときもありますが、ボランティアがあるからたのしみです。みなさんはやさしくてしんぱいしてくれますのでうれしいです。これからどこへいっても、ボランティアのあるかぎりついて行くつもりです。これからもよろしくおねがいします。ではこれにておわります。
(1997年5月9日)



 私は須磨区に住んでいました。平成7年の1月17日の阪神・淡路大震災にあい、私は生き埋めになりほんの少しの穴から息をして助けて、助けてと何十ぺんも声を出し続け、6時間も埋っていました。恐ろしい目に遭い、何べんも死ぬかと思いました。一人暮しなので本当に怖かったです。けがもしており、やっとのことで近所の人に助けてもらいました。水もなく、履く靴もなく、食べるものもなくいっそこのまま死んでしまった方がよかったと思いました。でもみんなのおかげで助けていただいたのだからがんばっていこうと思います。

 でも、地震から1年6ヵ月後に地震のために腰を悪くしてそれがもとで足が悪くなり、心臓も悪くなってしまいました。私は仮設住宅に住んでいますがお金も無く福祉をいただいております。姉のお骨も納めなければなりませんがそれも出来ず、たった一人の姉ですがかわいそうです。弟はどこにいるのかまだわかりません。

 目上の人は何を考えているのですか。もっと仮設の住人の気持ちを考えて下さい。保護を受けている金額ではとてもくるしいのです。政治家の方々は自分のことばかり、私達のことをよく考えて下さい。67才になった私に何ができますか?もっとお金を増やして下さい。姉もうかばれません。家もなかなか当たりません。政治家の方はこんなおそろしい目に遭ったことはないでしょうね。もっと国民のことを考えて下さい。ろくな食べ物も食べられません。お願いですから保護を受けている人の気持ちをよくご自分に置き換えて考えて下さい!何もかもが信じられません!どうかお金を出して下さい。保護のお金ではとても食べていくことが難しいです。ガス、電気、食費が高くとてもやっていくことができません。いっそ殺して欲しいです。

 政治家の方々、私達の立場をよく考えて下さい。お願いします。あなた方は貧乏人の気持ちがわかりますか。どうかはやくお金を下さい。家を当てて下さい。お願いします。
(1997年4月29日)



 地震から3年目が近づいていますが、私は仮設にいつまでいるかわかりませんが、行く所が無いので辛抱してどこへでも与えられた所がくるまで待つしかありません。毎日不安でたまりません。仮設のみなさんは私とおんなじ気持ちでいると思います。年もとっているし、体も悪く毎日の生活は息が詰まる思いです。一日も早く仮設から出ていきたいものです。仮設には「ふれあいセンター」があっても冷たい人ばかり。具合が悪くて20日間も寝込んでいたのに仮設のお世話係の人、となり近所の人も冷たい人ばかりです。一人で夜になると心細くて、地震のときに死んでいればこんなつらい目にあわなくてもよいのにと思います。

 姉も亡くなり悲しくてたまりません。何の楽しみもなく暮しております。平成8年4月22日に姉は仮設に来ておりましたが、急に具合が悪くなりそのとき「週末ボランティア」の人が来ていたのでその人達に姉を救急車で運んでもらいました。私一人ではとてもできなかったと思います。それから2日後に姉が亡くなりました。兄弟がいても他人と同じで薄情なものです。私は保護をうけているのでお金が無く、世話になるところもなく、涙が出て私も死んでしまいたいと思いました。

 でもボランティアの人に励まされています。今はボランティアに入り、人を励ましたいとがんばっています。いつまで生きているかわかりませんが、ボランティアをやっていくつもりです。みなさんも私達とがんばって生きましょう。夢をもってがんばって下さい。
(1997年4月22日)










村上 智恵さんへ届いた『かみひこうき』



1.馬場雅裕(OLIVES LEAF NETWORK)さん

 村上智恵さん、初めまして、名古屋に住む馬場といいます。メッセージ読ませていただきました。
今、僕がはいっている団体で、県外避難者の交流会を開催して、それらの情報をパソコン通信なるもので、情報発信しています。県外避難者の方が代表になって「りんりん愛知」を発足しました。県外でもがんばっていますよ、微力ですが、お手伝いをさ せて頂いています。夢(みなさんの笑顔)をもってがんばっていきますよ!
(1997年5月5日)

2.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)

3.古川飛祐さん

 ボランティアに出られているとのこと、御苦労様です。これまで、本当に辛い思いをされてきましたね。お体の具合はいかがですか?。これから良いことがたくさん起こるよう、お祈りしています。私にできることとして、まず手紙をこうして書いています。この世に必要とされている村上さん、遠くの私と一緒に生きていきましょう。
(1999年6月20日)

3.川本 恵子さん(仮名:神戸市)

< こんばんは。始めまして。。。あれから、5年ということで、数日前から今日まで、テレビの特別番組が多く放送されておりました。そのお蔭で「かみひこうき」さんのホームページを知りました。
 私も東灘区深江で震災に会いまして、今は灘区に住んでおりますが、長かったような、短かったような、この5年でありました。
 私の娘は産まれつきの知的障害児で、出産と同時に医者から宣告を受けました。
母親として、なかなか立ち直れずにおりましたが、やっと、なんとか、物事を肯定的に考えられるようになった矢先の震災でした。
 震災当時、娘は三歳でした。いろんな事がありましたが、先日、満8歳の誕生日を元気に迎えることが出来ました。知的な能力の遅れは勿論、身体も弱いですし、手術などもありますが、それでも彼女の精一杯生きている姿を見て、親というより、人間として学ぶことが多くあります。
 娘の成長を目にする時、無事に生きてこられたことを感謝せざるを得ません。「命」という目には見えないけれども、この世で一番大切なものをこれからも、「宝物」として、大事にしていきたいと思っております。
 皆様も、この宝物を大切に・・・・精一杯良い人生を歩き続けられますように。。。。寒さが厳しくなってきます。何卒ご自愛下さいますよう。。。心より願っております。
(2000年1月17日)



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