喜田 三佐代さん(仮名)

  (住所:大阪府 年齢性別:71才女性 職業:主婦)


 阪神大震災、あれからもう10周年、忘れられない1月17日が訪れます。燈影に御生前のあのお方、優しいお顔を偲び追憶にふける耽る日がやって参りました。

 避難先で色々のトラブルに巻き込まれ疲れ、ストレスが溜まってボーっとしておりますと、かみひこうきからお便り頂いて嬉しかったですね。元気付けられたこと何度もありました。人は誰もが大切な心のふるさとを持っています。それを思う時の安らぎ、人を思いやる気持ちの優しさそのような世界へ誘ってくれるものがあります。

 私は心の(ふるさと)をボランティアの若い方々のパワーが私の活力に数年間でなってしまって、色々のことを教わりました。
 これからも若い方々の荷物にならないようにして、心の支えにさせて頂きたいと思っています。

 ちょっと疲れたとき、大変に心のケアが何よりの救いで慰めでした。
(2005年1月12日)


 震災からもう5年を過ぎて、報道も最終を迎えたようで、ちょっぴり寂しくなります。 自分と心の通う合うものがなくなったような、社会から隔絶されたような状態で、心細くなります。

 卒業式が各学校で行われていますが、被災者もボランティアの方々にいつまでも甘えてばかりおらないで、自分の足でしっかりと歩いて行かなくてはならない処に来ました。県外被災者の集いに参加させて頂いた時に、「異国の丘」を合唱した高齢者の方々は、どのような気持で日々を過ごしていらっしゃるかしら。「今日も暮れゆく 異国の丘に 友も辛かろ切なかろ 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 会える日が来る 春が来る…」と目に涙を浮かべてたお顔を、走馬燈のように懐かしく思い出します。

 大勢のボランティアの方々の慈悲で励まし続けて下さったご親切を感謝して、お礼を申し上げたい。長い間、有難うございました。生涯忘れられない財産であるボランティア精神を教わりました。私たちも卒業式のような気持で頑張りたいと思います。高齢者、被災孤児の方々に、少しでも心を留めて下されば幸いです。
(2000年3月30日)


 震災で県外に避難して、県外被災者の集いなどで、普段なら話しも出来なかった人々 と初めてお会いして心から打ち解けられる。あの感触は何などうか。同じ体験をした からかしら、ボランティアの方々の心のこもった木目の細かい配慮だったと思います。
 被災者の中に入って話を聞いていると、全壊して、夫を亡くした人、命は助かったが 家が全焼して過去を全部思い出までも消滅したした人々、孤独で間違い電話でも嬉し い人、自殺も考えたという人がおられて、兵庫県庁からもカウンセラーを派遣して下 さいましたが、あまりにも高齢者が多く、隅々まで届かなかったと思います。

 そんな時に温かい手を差しのべて下さった民間のボランティア団体の方々の親切が高 齢者の心の灯火となり大変に心のケアになったことと思います。私自身も心のケアに なり救われました。不況の長引く現代社会で人々の気持ちまで荒れる中で、泥沼に 咲いたきれいな蓮の花のようなお心の方々に感謝しました。
 被災された子供さん、高齢者に一人でも多くの方々からお声でもかけて下されば幸い です。

 県外被災者の集いで、神戸の過去を知りました。昭和13年に六甲水害、昭和20年に大空襲、平成7年に阪神大震災、大惨事はこれで三度目だそうです。でも殆どの高齢者は神戸に戻りたい一念で集いに参加されます。汽笛が哀愁を誘う街で、ロマンもあります。淡谷のり子さんの歌のように、窓を開ければ港が見える、メリケン波止場の灯が見える。
 震災後、新地や高層ビル(新しいマンション)が建って、県外から大勢の若い人が入居してきました。生まれ育った人が帰れなくて、おかしな現状です。ある街では97%は人口が戻り、復興と報道されますが、まだ帰れない人々や高齢者にとって取り残された寂しさを判ってください。数字だけではないのです。早合点をしないように、私達は情勢で判断しますが。

 集いで思いましたが、順番にカウンセラーの方が聞いていても、先に済んでおっても、又、割り込んできたり、私も同じ位の年齢だったら、同じこと、したかしら、他人ごとには考えられませんでした。カウンセラーの人も若いのに一人で大変だったのです。長引く不況で簡単にゆかないのも事実ではないでしょうか。
(2000年2月13日)


 平成7年1月17日、生涯忘れられない日となった。ゴォーッとすごい地鳴りと共に鉄筋と道路のアスファルトが割れ、壊れる凄まじい音の中で、家族は奇跡的に命を拾った。落ち着いてくると、部屋の中は瓦礫の山。ガス、電気、水道が止まって飲料水にも困った。ペットボトルを探して飲み、生き返った。
 午後2〜3時頃に震災を免れたスーパーで1時間半位は並んで、1袋千円で食糧を判るだけ買い、上を凌いだ。近所の人々から飲料水のボトルやパン、弁当を貰ったり、情報を教えてもらったり、外国人から熱いお茶(日本茶ではなかったが)を上げようかとその親切が嬉しかった。美味しい助かったと持って来てくれた。国境を越えた人情が忘れられない私の財産です。

 震災数日後に京都府庁建築課から建物の調査に見えた。赤紙を張られ、半壊で住み続けるのは危険ということで避難所へ。事務所を通じましたが、紹介の場所は重複していてトラブルになるので危険な所で1ヶ月半住んでいましたら、震災の恐怖から自律神経がおかしくなり、食べ物の味覚、空腹が判らなくなっているのに気がついて、保健室で相談するとブランクはまだ一番下とのこと。
 被災地に大学生、若者が大勢ボランティアで駆けつけてくれたのに何をしていいのかわからず街を歩き回っていたり、老夫婦が区役所にボランティアを依頼に行っても派遣できないと断られたりしてコミュニケーションがうまく行かないこともありました。また、ガスタンク爆発の危険があり避難勧告が命令になって、確実な状況に応じて適切な判断の出来る情報がなく、不安な日々を過ごした。

 避難所で外部の者でも食糧をもらえるようになったのは十数日後で、茶髪の男の子が「おばちゃん、寒いやろ。カイロ上げようか」と。外観ではない心のつながりです。涙で別れた人々、また元気で会いましょうと握手で別れた外人…高齢化社会目前にもっと若い人と上手につき合えたらいいと思います。不況とダブルパンチで苦悩の日々を、悲惨だった過去を教訓に、せっかく助かった命を頑張っております。
(1999年3月29日)






喜田 三佐代さんへ届いた『かみひこうき』



1.川本恵子さん(仮名:神戸市)

 こんばんは。始めまして。。。あれから、5年ということで、数日前から今日まで、テレビの特別番組が多く放送されておりました。そのお蔭で「かみひこうき」さんのホームページを知りました。
 私も東灘区深江で震災に会いまして、今は灘区に住んでおりますが、長かったような、短かったような、この5年でありました。
 私の娘は産まれつきの知的障害児で、出産と同時に医者から宣告を受けました。母親として、なかなか立ち直れずにおりましたが、やっと、なんとか、物事を肯定的に考えられるようになった矢先の震災でした。震災当時、娘は三歳でした。
 いろんな事がありましたが、先日、満8歳の誕生日を元気に迎えることが出来ました。知的な能力の遅れは勿論、身体も弱いですし、手術などもありますが、それでも彼女の精一杯生きている姿を見て、親というより、人間として学ぶことが多くあります。
 娘の成長を目にする時、無事に生きてこられたことを感謝せざるを得ません。「命」という目には見えないけれども、この世で一番大切なものをこれからも、「宝物」として、大事にしていきたいと思っております。
 皆様も、この宝物を大切に・・・・精一杯良い人生を歩き続けられますように。。。。寒さが厳しくなってきます。何卒ご自愛下さいますよう。。。心より願っております。
(2000年1月17日)


喜田さんへ『かみひこうき』を送る

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