日本では静かな年明けと思っていますが、イランでは大変な年明けです。友人のモハマド君のことが多少心配でもありますが、電話連絡も取れず、行くにも遠くて行けず、連絡待ちです。日本でもいつ来るかわからない地震は、誰もが持つ大きな不安の一つではないかと思います。
今年は一人でも多くの皆様が平和で無事な良い年でありますよう、祈っています。イランでの地震にも驚いています。現在の私に出来る事は募金しかありませんので、多くはないのですが協力させていただきます。
1月14日よりインドネシアに出張しますが、大変貧困ですので、一人でも多くの日本人が旅行で来ることを希望している国です。人の良い人達が多い国です。笑顔とオパールの他は何もありませんが、それでもバリ島の海はいいと思います。中国より物を安く買う事が出来ます。
ホテルは日航が高いですが、日本円で1500円くらいでもいいホテルがあります。スーパーはジャスコがありますが高いです。中国では日本の百貨店が上海に多いのですが、インドネシアにはジャスコ1店しかありません。
インドネシアは年中暑いところですが、安く行ける海外だと思います。中国人が世界中に多いのも驚きです。
2月5日まで出張中ですのでよろしく。今年の中国の正月は1月20日より早いので、神戸の南京町の正月は見る事ができません。残念。
(2004年1月14日)
前略 テレビ・新聞にてイラク、テロの話で大変です。インドネシアのバリ島でもテロ事件で、ホテルの入出でもボディチェックが厳しく、日本では考えることのできない厳しさに驚いています。日本は平和で貫く国と思いますが、本当の平和が来ることを祈っています。
イラクに自衛隊派遣が進んでいますが、本当にいいことなのか私にも不明です。明日は来るかもしれない地震災害を忘れては、と考えます。インドネシアでも住宅はもろく、トタン一枚で出来ている住宅が多いです。ホテルや他のところでは、地震の心配も無いと言ってもよいのですが、ホテルでは、大変な事に、と心配します。
海外での心配はホテルです。韓国、中国、インドネシア、ベトナム、私の行ったところでは、満足なホテルはありません。しかし、アメリカでは、一切心配はありませんでした。日本と変わりありませんが、違うところは、全ての大きさにありました。
2人の子どもが中国から来日しました。二日目の日に風呂に入るよう申しますと、生まれて初めての入浴と知らず、水風呂の中に入ってしまい、病院に連れていき、大変でした。15歳の男の子ですが、15歳で風呂を知らない、日本では考えられないことです。日本に来て、本当に幸せなのだろうか、と心配しています。書く事も話す事もできない事は厳しいだろうと心配しています。
友達もできず、良い日本語の出来る学校があれば、遠くても行きたく思いますので、通知してくださいませんか。中国に帰りたくないと申しておりますので、帰すこともできず、困っています。女の子は18歳。2人います。週に1回でもいいのです。よろしく。
(2003年12月8日)
かみひこうきの皆さん、こんにちは。いつもご苦労様です。
インドネシアは暑い所ですね。昼が40度以上で、暑くて大変な所です。インドネシアの人たちは、親日的で、親切でやさしく、良い国ですが、また失業者の多い国で、公園や町の中は 一日中座っている人の多い所です。私の行った所はジャカルタで都市ですが、一般の人達の給料も3,000円前後で大変だと思います。しかし皆さん明るいので驚いています。
ホテルも大変良いのですが、何を食べても多少のカレー味でカレー好きな人には良いでしょう。食べ物はホテルの中で食べると安くて美味で、中国より良いと思います。
中国でもインドネシアでも万一の時に逃げ場の無いホテルが多いので、地震や火事が起きないことを祈るほかありません。一流ホテルでこれですから、不安で眠る事もできないですよ!! 私は27階でしたが、下の方にと申し出ましたが取れず、不安な毎日でした。
来週またインドネシアのボルネオに行きます。オランウータンに会いに行くのではありません。どこの国に行っても中国人の多い事に驚いています。南京町も世界中に有るのも驚いています。
車の65%が日本車で、バイクの90%は日本製でした。日本製の電気製品より中国製が安く多くありますが、高くても良い製品として、日本製品が相互(そごう)デパートで売っていました。ジャカルタで1店しかないデパートの美しさ、一日中満員で、「そごうで会いましょう」が流行語でした。日本って素晴らしい国だと私は思います。
(2003年11月14日)
命の大切さは誰もが知っています。二度と無い人生は誰も同じです。テレビで殺人事件の多さに驚いています。自分の命の大切さを知る前に、他人の命の大切さも知ってほしく思います。自分勝手な考えの影響だと思います。人助けのために何一つ求める事ないボランティアの皆様に恥ずかしくないのかと申し上げたいです。
神戸の街も夜に港に行きますと、外国船が多く光り、その美しさを見ますと、災害も忘れることができます。巨大船に深夜に車、電気製品が山積みに荷積みされています。貿易品だと思います。
先日より、約一週間中国に行きました。思う事は、ホテルの火事と地震です。二、三十階建てが多いですが、逃げ場の無いホテルの多い事です。一流のホテルでも同じです。中国も又、大変不景気で失業者が40〜50%と多く、昼の街中は何の用も無く立っている人の多い事に驚いています。中国にも水害、台風で困っている人の多さに驚きました。何を作るにも人力の社会の中国ですが、有人ロケットを上げる国でありましても、何か国民の為に忘れているのでは、と思えました。それを考えてみますと、日本に生まれてよかったと母に感謝したいですね。
災害から8年近くなりますが、かみひこうきの皆様が今日までよく続けてこられた事にも、心より感謝の気持ちで一杯です。この先も一日も長く続けられることを願っていますので、よろしくお願いします。一枚一枚のかみひこうきを私の宝にして残してあります。
来月は、インドネシアに出張ですので、よろしく。
(2003年11月6日)
東北地方での地震に驚いています。いつ来るか知れない地震ですが、来る事は間違いありません。と言って、逃げる事も出来ず、その場所で生活する他ありません。
冬の地震と夏の地震には違いがあります。冬にはストーブを使い、寒い日には消すことが出来ないのです。一番に思う事は、大切な物を早く持ち出す事ですが、一番大切な命を持って、逃げ出して欲しいと思います。
命があれば何とかなります。安全な場所は道筋の何処より知っておくことが大切かと思います。また、火のまわる早さも思う以上で、火の海となり、その早さに驚かされます。荷物を忘れて逃げて助かった人が多いのは事実です。ただいつも思う事は、助けを呼ぶ人たちを助ける事の出来ない火の早さ、今もその声を忘れることはありません。早く忘れたい気持も事実です。
JRのガード下が安全かと思っていた人も多く、間違いでした。建物に安全の何一つとありません。しかし、小さな家の中では4本の柱に守られたトイレの中が安全でしたが、火が来ると何の役にも立ちません。外に出る他なく、安全な道筋を知っている事が何よりも大切かと思います。
また9月に中国に行きますが、中国の建物は大変不安が多くありますが、地震が来ると大丈夫だろうか、火事が来ると大丈夫だろうかと思うような建物が多いのです。それを思うとまだ日本が良いかと思いますが、いつ来るかわからない地震に命の道筋だけは忘れず、私は生活しています。
今日も有難うございました。
(2003年8月13日)
神戸・六甲の街も大きく変わり美しい町になりました。被災した街とは思うことができませんが、しかし、裏通りに入りますと仮設が未だ多く残っています。
六甲に行きますと大和公園があり、つい足が向くのでいきます。現在その公園に行きますと、ただの公園ですが私達多くの人が長い間テント生活をしていた事を思い出してまいります。
寒い冬の間の生活が昨日の事のように思い出されます。そして何よりも多くのボランティアの人たちの心ある協力に助けられた思い出が今だ忘れることができません。あの時の皆様方も今も元気に幸せに生活されていることと思いますが、私達は感謝の気持ちを忘れず、一生懸命頑張っています。
お返しする事もできませんので、私に出来る小さなお返しと考えて、ユニセフ募金をはじめました。安全な飲み水を得るための浅井戸用手押しポンプ、パイプ付属品一式をする協力です。私の出来る小さな事ですが、ボランティアの方々に教えられた心です。小さな事ですが、災害から7年でやっと小さな協力ができる事に感謝して募金をさせていただいています。
また昔の神戸に戻る日を楽しみに頑張りたいと思います。多くのボランティアの皆々様に感謝の気持ちは、一生忘れる事はありません。本当にその節は有り難うございました。
(2003年8月7日)
長い間、返信が出来ず申し訳ありません。
急用が出来まして、6月4日に中国から帰ってきました。御返事が出来ず心配しておりました。
病気の多い中国ですが、家にトイレもない所が多い国ですので、SARSも当然かと思います。空を見ても一羽の鳥も見ません。猫も犬も一度も見ませんでしたが、蚊とハエが街中に多く、その他の動物は人、人、人でした。よく無事でいられたと思っています。
現在は中国から日本に帰る便がなかなか取れないため、二度と行きたくありません。
また、これまで通り続けますのでお願い致します。ご連絡まで。かみひこうきスタッフの皆様へ
(2003年6月20日)
前略 大地震についてよく調べている事に驚いています。文面通りと思います。しかし、現実に出来る事でしょうか?なかなか大変かと思います。
逃げる事、安全に身を守る事の出来る場所が有りますれば良いのですが。地震前と現実とは大きく変わりますので、なかなか安全な所がないのが事実です。4,5分で火の海となり、私の場合、近くの人の助けを呼ぶ声で早く何とか、と思ったのですが、目前に来る火の早さに4人の方を助け出す事の他、出来ませんでした。自分の手で出来る事は多くありません。
その時から今も思うのは、近くの交番、公民館にでも1本のバールでも有れば、もっともっと多くの人が助かったのではということです。大きな柱は手で動きません。中に人が居て、数人の人が集まってきても動きません。もう熱くて熱くて一滴の水もない所で、最後は焼け死ぬか逃げるかしか有りませんでした。
火が消えて行ってみますと、6人全員の方が死亡されていました。バールが有れば10人全員の方が…と今も思います。あの日あの時の事は早く忘れたい。しかし、あの日あの時の声は今も一生忘れる事が出来ません。
その場所は現在、お花を持って行きましてもビルの中に消えて見る事は出来ません。その時のことは忘れる事は出来ませんが、多くのボランティアの皆さんを思い出して忘れようと努力しています。
そして、今はかみひこうきからのお便りを楽しみに生きています。いつも心あるお便りに感謝します。
(2003年3月24日)
前略 三月に入り急に寒い日が続いていますが、もうすぐ桜の花を見る事ができます。
平成7年から(災害の)年から、一度もゆっくりと桜の花を見た事が無いのです。今年は花見が出来れば良いのですが。宝塚にでも花見に行きたいですね。
今日はちぎり絵を送って下さいました事、心より感謝申し上げます。初めて見るちぎり絵、素晴らしいですね。何も無い家に花が嬉しいです。心が有る花、私の家族の宝物です。一生大切に見せていただきます。 このちぎり絵を下さいました方に、心より厚く感謝申し上げます。私も何か考えお返しをと思っています。楽しみに待っていてください。
5月10日より中国福建省に行きますが、良いお返しができると思います(本当にお手数でした。有難うございました)。
何よりもうれしいです。災害ですべて全焼し灰になったので本当に嬉しいです。大切にします。心の花です。子供が大変喜んでいます。笑顔で満開の子供の顔に満足しています。自分のベットの部屋に持ち込んで困っています。夜寝てから皆が見れる所に取り返す他ありません。
世の中にはやさしい人も多くいるんですね。私も負けないよう努力しようと思いました。有難う。
(2003年3月7日)
前略 かみひこうきが郵便ポストに有りますと、フト、あれもう一ヶ月かと、月日の流れの早さに驚いています。
そんな短い人生の中にも、いろいろの出来事が多く在る事にも驚いています。私の友人にも多くの地震災害を受けた人がいますが、災害の事は忘れても生活は災害当時と変わりません。持ち家の人は空き地のままの人もまだまだ多いのです。年齢的に無理な人が多いかと思います。不景気な事もあるのかもしれません。
先日テレビを見ていますと、エッと驚いたのですが、父親の厚生年金を受ける為に、死亡した父親と白骨化する迄5年間同居生活をしていた54歳の男の話です。働くことを知らない男の事件で、世の中にもいろいろの人が居ますが、高校を卒業して、自衛隊に入隊して、3日で家に逃げ帰り、その後親と共同生活を送り、別に職安に行く事もなく、働かず、ただ食べるだけの人生に奔走している男。
日本には、こんな悲しい、希望も持つ事なく夢のない人もいると思いますと、子供から大人になりきれない人かと思います。子供の教育の大切さを考えます。私の家族の中にも5歳の女の子がいます。私が高齢なので、いつまで見てやれるかと心配ですが、女の子ですので、困ることも多くあります。
いろいろ女の子の考え方も勉強したいと思いますが、かみひこうきの皆さん、知らない事は書きますので勉強させて下さい。女性スタッフの方にお願いです。
また、来月もよろしく。
(2003年2月11日)
新しい年を迎えて、毎年思う事は「今年こそは」ですが、また1月17日5時46分も年の始めに考える一つです。元通りの生活が返って来る日を夢に見る事も有ります。しかし、多くの人が同じ苦労をと考えますと、頑張る他有りません。
何の関係の無い、かみひこうきのスタッフの皆様を思いますと、いつも私の話を聞いて下さる人が居ると思いますと、大変うれしく、心よい感謝の気持で一杯です。
世の中に、本当に、やさしい人が居ると思いますと泪の出る思いがします。
私に出来る事が有れば、本当に言って下さい。小さな事でもいいです。協力させて下さい。
今年は、家が建てる事が出来るかも知れません。かみひこうきの皆さんを神戸の街にお食事にでも御招待させて下さい。夜の港町を招待させて下さい。
(2003年1月22日)
いつもお便り有難う御座います。1月17日は三ノ宮に居ります。東遊園地に行きますと、6433本のローソクの灯がともっているのを見る事が出来ました。胸が一杯になり、何も言う事が出来ず泣きたくなる思いでした。
多くの家族の方を見て、一人一人に私が出来ることがあれば言って下さいと申し出ますと、ワーッと泣かれて大変でした。まだまだ皆さん大変なんだと思いました。人の命のもう帰って来ないのだと思いますと、何も出来ない自分が悲しい気持ちで一杯になり、時間の流れを待つほかありません。
この震災を忘れる事なく、一人でも多くの人達に二度と同じ苦しみをさせない努力をするよう考えたいですが、次の世代に、そして次の世代にお願いしたいと思うのです。
災害はきっと又来ます。しかし同じ苦しみのない災害でありますよう祈ります。かみひこうきの皆さんも大変かと思いますが、長く長く続けられる事を祈っています。それでは今日はこれにて。
(2003年1月18日)
被災から早くも8年が近く来ます。多くの人に助けられて、今日の日があります。災害前の生活が返ってくるまで頑張ろうと思っていますが、中々思い通り行きません。
しかし、戦争中を思いますと、現在の生活を満足できない事はありません。多くの人の親切がありました。親切は金で買えることはありません。感謝の気持ちで一杯になりました。一生忘れることはありません。人の親切ほどうれしいものはありませんね。北朝鮮の人達にも知ってほしいと考えます。
帰国された5人の皆様の24年間の空白の人生を一日として返すことの出来ないことを考えない国なのでしょうか?今出来ること、家族の皆さんを一日も早く返してあげることが、大切なすぐに出来る事では、と思います。それが日本と北朝鮮の共同の平和、そして、世界の平和では、と思う日々です。
一日も早く家族を返して下さい。日本も困っている(本当に困っている)人達の為に私達も努力して助けてあげたいと希望しています。日本の多くの親切も知ってほしく思います。軍のための協力はできませんが、北朝鮮国民の為の協力はしたく思います。「かみひこうき」の皆様にお頼みしたく思います。痛烈に思います。
阪神大震災より神戸の街も大変美しくなり、夜の六甲山より見る夜は、昔の神戸になりました。スタッフの皆様が神戸に来ることがありますれば、ご案内申し上げます。そして南京街の味にご招待申し上げます。お待ちしています。
(2003年12月26日)
首を長くして待っていたカミヒコーキが来ました。何枚出来たかと見ています。
先日、身内の者が他界して、1ヶ月になります。災害の時も無事に家が残って、運の良い女と思っていました。私など、今からこの年令で、家を建てることなど出来ないと思って、現在の3DKの住宅で頑張っています。しかし自分の住んでいた所は空地ですので、建てて子供に残してやりたい気持でおりますが、現実には中々出来ません。
他界しました身内は、母の妹ですが、子供も誰も居ませんので、家は私が自動的に相続する事になり本当の所困っています。税金も有りますが、家が古くてそのままで住む事が無理かと思います。
修理するにも600万前後ですので、新しく建てる方が早いかと思い、売って自分の土地に建てる方が良いかと考えて相談に行きますと、現在家を買う人が無く、50坪の土地では中々売れないとの事で、夢破れたりと困っています。家が売れずとも、相続税その他の税金は来るので、不景気な時代だと本当に考える毎日です。
私の仕事は現在半分の収入も有りませんので苦しい生活ですが、そんな時に思い出す事は、多くの人に助けられてここ迄これた私の命ですので、忘れる事の出来ないのはあの苦しい時に頂いた、多くの皆様そしてボランティアの方々の親切です。
それを思い出すと頑張るぞと思います。負けては親切なボランティアの皆様に申し訳なく、まだお返しが出来て居ないのではと思い、お返しの出来る日迄は頑張りたいと思っています。カミヒコ−キの皆々様の御協力にいつも感謝しています。
(2002年12月10日)
前略 紙飛行機も多く出来ました。私の宝にしております。いつもいつも本当に有り難うございます。
私も現在の生活が変わりました。それは離婚です。中国との生活、食文化、文化の違いもありますが、何より考え方の違いには勝てませんでした。
子供は私が引き取って二人の生活で大変ですが、現在4歳ですので頑張るほかありません。母親が連れて行くと思ったのですが、それは間違いでした。彼女は共同生活を忘れている女でした。5年間で入浴は10回とありませんでしたね。食事も10回以上作ったことはないと思います。
別れた女の悪いことは忘れて、子供の為に生きるほかないのですが、あの災害時を思いますと、我が儘出来ないことは言うまでもありません。多くの人に助けられての生活でしたが、その感謝の気持ちは、今も忘れることはありません。
かみひこうきのスタッフの皆々様のような方達を知ることが出来たこと、現在もお便り下さる心に感謝しております。この便りが来ないと何か淋しいと思うようになりました。この先私の人生は長くはありませんが、長く長く続けて下さるよう願いたい今日この頃です。
夏から急に冬が来たような毎日ですが、私に出来ることがありますれば何でも申しつけて下さい。全力でご協力申し上げます。次回から私の人生と災害を書き続けていきたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。
(2002年11月16日)
今日は楽しみの「かみひこうき」が来ました。今日は何を書くかと考えていますが、中国の事にします。
中国での妻の月給は日本円で6,000円ですが、福建省では高給取りの方です。3,000円、4,000円の人が多いのです。妻が多いのは朝から夜まで大きな石を1階から5階、6階と持って上がるのが仕事で、顔は黒人と変わらない顔で1日中仕事をしています。
昼食もいも2個で終わります。それは20人家族で仕事をしているのは妻一人の生活のためです。それを思いますと、妻も変わりました。来日当時はご飯4杯5杯と食べていた、それも香の物だけで食べる妻でしたが、5年後の現在はごはんも1日2杯と食べず、副食が多くなるなど変わっておりますが、風呂だけは月に1回と変わりません。何とかできないかと困っています。
先月中国に里帰りをしましても3日で帰って来ます。家がくさい、汚い、食事がまずいとの事です。もう帰りたくないと言っています。豚との共同生活ですので無理もない事ですが、それでも故郷と思いますが、中国人の考え方は私には不明なところが多くあります。考え方の違い、文化の違いは大きいと近頃思う日が良く有ります。
風呂に入らない妻を何とか入れる方法はありませんかねえ……。毎日困っています。家族一同より。
(2002年11月1日)
毎日のお仕事ご苦労様です。夏は夏の楽しみが有りますが、私は冬が好きなのです。中国・福建省と大阪では、夏も冬も変わりませんが、不思議な事が一つあります。
福建省福建市の家の庭先にはバナナの木があり、多くのバナナが付いています(実がなっている)。それも大きな実です。日本はバナナの世界一の輸入国ですが、なぜ日本では作らないのか不思議です。作っても安くて無理なのか。福建省に行くといつも思う事の一つです。
中国ではバナナが一元かな? 日本円で6円50銭と思います。100円なら20本前後でしょう。きっと日本でも作ることが出来ると思います。コスト的に出来なくても、家庭でなら作れると思いますが。
私の所でもバナナは出来ませんが、中国より直輸入の妻と子は育っています。バナナも育つと思いますがねえ。しかし、文化の違いの大きさもあり、なかなか大変です。毎日風呂に入れと申しますと、「先月入った!」これで終わりです。馬鹿馬鹿しくて返事する気も有りません。
小さい子供は喜んで入るので安心していますが、母親には困っています。 夏に一日二回入っている私は何とか入れる様努力しましたが、現在も変わりません。
生活の違いも大きいです。中国で妻の家の中は土ですので、掃除も出来ません。日本での掃除を見て不思議がっております。「ゴミが無いから」と言ってしないのには困っております。
(2002年9月1日)
前略 先日の御連絡の中に団体一覧が入っていていろいろと有る事を知り、大変うれしく思いました。多くの人が自分の事を忘れて、多くの人達の為に頑張って下さってる事を知り、私ももっと努力をと思いました。
かみひこうきの皆々様にも、本当にうれしく感謝しています。多くの人達の為に有難う御座います。私に出来る事は、何でも云って下さい。喜んで致します。
私の家族は3人ですが、近く5人になります。日本で生まれた私の子供のほか、男の子13才と女の子15才の2人が来ます。これまた、風呂を知らない中国の子供達ですが、母親も3ヶ月に1回しか入浴しませんので、困った事になります。
私は中国語が出来ませんし、勉強しましても忘れる方が早いので困ってます。半年間、中国で生活しますと話す事は出来ますが、私はその半分ですかね、忘れる方が早いので。妻は4年でやっと話が出来ますが、私が帰るとペラペラ話をするので、手紙を書く事も出来ない時が有ります。
先日など「さいふが無いさいふが無い」と申しますので、良く話を聞きますと台所でナイフが無いとの事で、妻にはまだまだ勉強不足だと言いました。いろいろ間違いの多い所も有りますが、平気でペラペラ云っている毎日です。「日本語むずかしい」と1日に2、3回言ってますが、英語よりむずかしいということです。
中国では学校にも行っていない女ですが、ひらがなとカタカナで手紙を書いています。字を知らないので、自分の親、姉妹にもひらがなで手紙を書いて中国に送っています。中国の人は、読む事が出来ないと言っても、勉強して読んで下さいと言っているそうです。
(2002年8月27日)
スタッフの皆様 大変ご苦労さまです。私は中国に行ったり帰ったりの生活です。妻の里に行きますと、あの災害よりもっと大変な生活です。
米一日一食で、朝と昼はいもの生活です。仕事がないこともありますが、給料も5000円前後で大変です。
妻の姉妹で10人、親とその他で20人で小さな小屋での生活です。妻の実家に行っても泊まることは有り
ませんが、ホテルに泊まりましても食事に困ります。
日本食がありますが、高くてまずいのでハンバーガーを食べて終わります。マクドナルドの味は世界共通しています。上海ですと味の良い物がありますが、福建省はまだまだ大変な所です。
一番困るのはトイレに戸がありません。一流のホテルですらありません。有料トイレは公園に多くありますが、どのトイレにも戸はありません。男よりも女の人が大変と思いますが、中国女性は平気ですね。
風呂も1ヶ月に1回が多いので、年に3・4回が普通です。妻の国はそんな国です。日本に来ましても風呂に入りませんので、困っています。何とか良い方法がありますれば連絡ください。
いつもお便り感謝しています。
(2002年8月4日)
あれから7年ですか、月日の流れは早いですね。ボランティアの皆々様お変わりなくお元気のことと存じます。7年が来ましても10年が来ましても、皆々様の親切は忘れることはありません。そしてかみひこうきの皆々様の御努力感謝申し上げます。万に一つでも私に出来る事が有りますれば申し付けて下さい。喜んで御協力申し上げます。
私もその後中国より妻を迎えての生活です。30才も年が下ですので、困ることも多くあります。その妻もやっと日本語を話すようになりました。しかしまだアワワ、アワワのところもあります。と申しましても私は中国語アワワも出来ませんですが……。
近く中国より妻の子供が2人来日する予定で、アワワ3人だと頭が変になりそうですが、災害の時に助けられたことを思いますと、何でも努力すれば出来ると思います。元気に今日という日があるのも、あのボランティアの人達のおかげと思い頑張りたいと思います。
(2002年7月4日)
あの日より7年と思いますと、月日の流れの早い事と思います。その節はボランティアの多くの皆様に助けられての生活でした。その多くの皆様は今も忘れる事はありません。感謝の気持ちで一杯です。
若い多くのボランティアの皆様も元気にしておられる事と思います。私の人生の中で忘れることのできない思い出です。私は地震よりも、もっと大切な事を勉強できました。人の親切の大切さを知りました。私も自分に何が出来るだろうかと考えますと何もありません。その中でも小さな事でも出来る事を努力したいと思う人間に変わった事も事実です。災害の苦しさよりも、私はボランティアの多くの皆様の親切のうれしさと大切さを今も忘れる事の無い思い出です。
日本の国の有り難さ、人の有り難さを知る事が出来ました。私にも何か出来る事の来る日をと思いながら、頑張っております。かみひこうきの皆さんも大変かと思いますが、出来る限り一日でも長く続けて下さるようお願いしたいと思います。心より願っています。
(2002年4月13日)
被災後の生活の苦しさ、寒さの中での生活は6ヶ月続き、やっと多くの皆様に助けられ、仮設に入居出来ました。仮設での暑さは、室内の温度が40度以上となり、冬は室内と外の温度が変わらない事を知りました。
震災で肉親と死に別れた単身者の多くが、誰も知らぬ間に亡くなっていきました。しかし、自分の事だけで人の事を考えられない人達の多い場所では、白骨化するまで分からないのが現実で、誰一人気付く事はありません。
そんな生活の中で、私の住宅にもお客様が来て下さいました。最初集金の方かと思い戸を開けるとにっこり笑顔、ボランティアの女性の方でした。毎日誰とも話す事のない私の話を聞きながら心配して下さった思い出が心に残り、4年後の現在も忘れられません。あの時の思い出として大切にしております。
私は生きていく限り、多くのボランティアの皆様に心から厚く御礼申し上げます。困っている人は被災者だけではありません。私達以上に困っている多くの人もおられるかと思いますが、私に出来る事は何かありませんでしょうか。多くの人にお世話になった私に出来るお返しはありませんでしょうか。出来る事から始めたいと願っております。
(1999年3月24日)
前略 災害の当日思ったのは、水道の止まった事でした。数分後に大火の中の自分の家、何一つ出来ずに見る悲しさ、一滴の水もなくただ見るだけの淋しさです。
そして一夜を寒さの中で仮の宿である小学校でトイレを使用出来ない事です。寝る事もなく朝を迎えて、全国から多くの食糧、そしてボランティアの人達でした。うれしくて、うれしくて、感謝の気持ちで一杯になりました。地獄の中での仏とは、この事と思いました。
多くの人達が死にたい死にたいと言っていた中で、助けたのは多くのボランティアではないでしょうか。他人である多くの人達が、全国からガンバロウガンバロウの声で私達を助けて下さいました。ボランティアの方々には今も感謝の気持ちで一杯ですが、今思う事は私に何が出来るのか考え、出来る事から始めようと考える毎日です。
震災の中で一番早く復興出来たのはパチンコ店で満員、そして道路でした。次は高速道路です。しかし今だ復興出来ないのは仮設の皆さんと一般住宅ではないでしょうか。多くの義援金が集まりましたが、20万円では復興出来ません。支援金もいろいろな理由で4年後の今も受け取る事が出来ず、何の為の支援金かと思います。この支援金も多くの人達の努力があればこそ決定したのですが、今だ受け取れずです。
引っ越しが出来ない人達、行く所が今だなく困っている人には出ないのが不思議ですが国のする事、決定しただけの話です。長い間私達の支払った税金を早く返して欲しく思う今日この頃です。
(1999年3月6日)
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