佐治 守さん

  (住所:神戸市 年齢性別:70才男性 職業:無職)


 7月27日朝日新聞朝刊で、小泉総理は靖国批判は分からないと述べた上、御自身の戦没者への想いをアピールされています。その中で総理は「無念の思いで命を落とした戦没者に敬意と哀悼の念を捧げるのは当たり前と思って参拝する」と強調されています。別に私は言葉尻を捉えたり揚げ足取りをするのではありません。昭和16年12月8日から昭和20年8月15日の4年間が、国民にとってどのような時代であったか、総理は知らないのではないでしょうか?。

 詳細に書くと長文になるので、点描的に記します。
 当時報道と言えば、NHKのラジオと新聞だけでした。私が昭和12年に小学校に入学した時から奉安殿という天皇の写真を入れた建物が学校には必ずありました。教育勅語と軍人勅諭は唱和するのが日課でした。また家にある金属類は退役軍人が回収に来て、出し渋ると代わりに憲兵が来て“非国民”と罵り、家探しをして持ち帰りました。一方思想的には愛国心を植え付けられ、忠君愛国や鬼畜米英等という言葉で洗脳されました。平和論を唱える人はたちまち営倉に入れられ、過酷な労働に従事させられました。
 簡単に言えば、日本人の軍属が日本国民を支配していたのです。故に国民は正当性の有無なく愛国者にならざるを得なかったのです。

 昭和18年頃から戦況は日本にとって悪化の一途をたどるのですが、それでも新聞ラジオは「今日も勝った」と誤報を流し続けました。昭和19年末頃から本土空襲が始まり、私も最年少の志願兵として兵役を受けました。乙種合格で20年4月入隊が決まっていました。
 20年3月17日、神戸の半分以上が空襲で焼け、同年6月再度の空襲で大半が焦土と化しました。つまり私達は二度家なき子になったのです。

 でも、忠君愛国の心は誰も変わらなかったし、徹底抗戦の意志もまた不変でした。だから総理の言う「無念の思いで命を落とした戦没者」との言葉は余りにも国民の思い(当時の)を無視した言葉であり、時代認識を疑います。片道燃料で敵艦に突進した人間魚雷や特攻隊の兵士の遺書が20年程前に各地で紹介されましたが、その内容の悲しいまでのさわやかさは、我々だからわかるのでしょうか?。

 当時の最終段階で日本攻撃を密議した「ヤルタの密約」というのがあります。トルーマン大統領の決断で、ポツダム宣言が発表されたのが7月26日。降伏を促す文書がバーンズ国務長官より日本に届いたと聴いています。
 ともあれ7月26日または27日に日本政府がポツダム宣言を受諾していれば、8月の広島長崎の原爆投下はなかったのでは……。

 ずいぶんタイムスリップして長々と書きましたが、要は小泉さんの無責任な言葉に、当時を生き抜いた者として我慢できなかっただけの事。
 それに付記しますが、戦没者だけが英霊ではない。国内で米機の焼夷弾、小型爆弾等でどれだけ多くの国民が死んでいったか!!
 もう回顧録はこの辺でペンを置きます。
(2001年8月3日)


 21世紀を迎えて、我が国はどう変わるか?いやどう変わらねばならないのか、国民の意識に問いかけようと思います。
 私はアナーキストでもアジテーターでもありません。一人の日本人が己の常識を赤裸々に吐露し、皆様の常識とどれだけ異なっているかを知りたいだけです。私は生来輪切り論が嫌いですが、20世紀を語るには、余りにも長大な文になりますので、点描式に語ります。

 私が生まれたのは昭和6年、満州事件の年であり、父が逝去したのが昭和12年、日支事変の年だそうです。ともあれ100年の内45年は、軍国主義が日本国民を洗脳したといえましょう。
 そして昭和20年8月15日、天皇の言葉によって終戦を知ることになるのですが、その時の日本全土、特に都市部は京都、奈良を除いてほとんど空爆で焦土と化していたと聞いています。
 敗戦(愚かしき4年間)――これが私の想い出です。 かくして日本は一夜にして軍国主義から平和主義自由主義なるものに塗り替えられました。その後何年かを経て、日米安保条約の成立。

 少々前説が長くなりましたが、お許し下さい。これから皆さんにお尋ねします。否教えて頂きます。
 今の日本は本当に平和国家ですか?。
 日本の法律は立派だと思いますか?。
 日本の国家権力にあなたは従属できますか。
 国家と国民の間は平等ですか?。
 自民党が長期政権を維持できるのは何故ですか?。
 荒廃した人心(毎日のニュースによると)は誰が作り出したのでしょう?。
  註 社会だとか大人だとか、一般論にしないで下さい。
 永田町の数の論理をどう思われますか(国会における与野党の質問時間の長短格差)?。
 司法の犯罪者に対する求刑をどう思われますか?。
 庶民が行政の一部にも納得できないとき、あなたならどうしますか?。
 国民が国政を変えたいと行動する時は(革命とでも言いましょうか)、日本では起こり得ると思いますか?。

 愚問の数々並べましてスミマセン
(2001年1月16日)


痴呆老人の妄語抄 其の3
 この度は怒りです(ボケなりにネ)。
 1.犯罪記事を見聞するに、余りにも加害者の刑が軽すぎませんか。殺人を犯してもほとんどが10年まで、少年法に至っては2,3年が限度、精神異常者は無罪…これでは被害者は浮かばれません。それも常にターゲットになるのは弱者です。

 2.去る5月8日朝日新聞夕刊に、別紙の記事(「老人は死んで下さい国のため」−名句か否か議論今も)が掲載されました。川柳には、狂歌と同じく決まり言葉はありませんが、若い人達の感想が伺えればいいなと思います。
 私見を述べますと、一部共通した考えもあります。しかし、文法的に読むと何か変です。まず「老人は」の言葉は、衆に向かって発せられる三人称で、私事を言うならば他にいろんな表現があるだろうと思うのです。
 次に『死んで下さい』は、いろいろ解釈できるので(逃げ道があるので)私見は述べません。最後の『国のため』ですが、これも解釈に苦しみます。
 さて、総論を言わせて頂くと、この老人いろいろ説明されてますが、「老人は国のために死ねよ」と言っているように聞こえます。人間死を公に語るには、誕生を無視しては語れないはずです。個人的選択肢を持たず、生まれたのがたまたま日本で、それからの死までは運命や心得違いで、人は善にも悪にもなります。『死』これは人に向かって、決して使ってはならないのではないでょうか。
 今一つ公憤を感じるのは、マスコミが取り上げたことです。ボランティアとはラテン語で、命を賭ける(奉仕)と聞いてます。日本語では献身?と訳しているとか。この作者は、ボランティアの語意に真っ向から反対しておられるように思います。
 ともあれ、不快な記事でした。くだくだしい事を悪筆でゴメンなさい。
(2000年6月3日)


痴呆老人の妄語抄 其の2
 又書かせてもらいます。スミマセン。
 今回はAとBに分けて、老人の不安を訴えたいのです。

 Aは相変わらず地震についてですが、今回言いたいのは、最近毎日のように起こる各地での地震です。若い人は何とも感じないかもしれませんが、年寄りは何やら不安ですなぁ。これも自分が怖い目に遭ったからでしょうかね。いや、起きれば防ぎようのない事は判ってます。天災ですもんなぁ。ただ心配なのは、全国知事会で決めた100万円の支援金ですわ。あんなもん、何の足しにもなりまへん。ホンマに。冷静に考えたら判ることと違いますか。人間が一人生きていくのに月なんぼなければ駄目なんか。家賃、光熱費、公営住宅の場合は共益費、自治会費、棟内での葬祭費……。空っぽの住居与えられても、生活用品買えばチョンです。
 我々年金で細々と生きてますが、こんな思いをする人がまだまだ出るんやないやろか…なんか思ったりしてますねん。心配したかてどうにもならんのにね。

 Bは4月1日から始まる国民介護保険制度です。40歳〜64歳〜65歳以上と分けられていますが、ここに新聞資料(2000年3月26日 神戸新聞)を入れときます。神戸市が兵庫県内で最高の保険料(65歳以上3137円)です。低年金受給者には、要介護者でもないのに納得できまへんで。兵庫県や神戸市は何考えとんやろ!!
 生活再建借入金の据え置き・利子補給期間5カ年延長の運動に加わりました。皆さんも我が身に置き換えて、よーく考えてみてもらえまへんか。署名運動への参加お願いします。
(2000年3月29日)


痴呆老人の妄語抄 其の1
 春近くなりましたなぁ。それでも心は寒いですわ老人にはハイ。
 この4月から国民介護保険制度が始まり、今年中には震災後の貸付金制度の返却も始まるそうで、大変ですわ。まったく。
 テレビで田中真紀子議員が出演された時でした。「日本の65歳以上のお年寄りは、平均してお金持ちだ」と言われましたが、ホンマでっか?。それやったら、うちは何しとったんやろ。震災前までのんびり暮らしていたのに…。

 地震で失ったものは何やろ、と考える時があります。家屋、家財、地域住民との別れ…いろいろありますけど、私にとって一番大切なのは、やはり信用ですな。神戸に生まれ、一ヶ所に50余年暮らしていた私にとっては、それが一番情けないことでしたわ。
 例を述べると、おかず代だけあれば米屋さんも酒屋さんもその他のお店も、地元やったらほとんどが月末払いで済むでしょ。それがどうです。震災後は皆前金です。知らん土地で冗談も言えず、前金払いでの暮らしはほんまに味気ないもんです。
 金がステータスシンボルみたいな世の中なんて何やろ。あれ?又馴れん横文字つこうてしもた。横文字ばやりの日本?何で正しい日本語使わへんねやろ。世の中何もかも猛スピードで変わっていくようで、年寄りはどうしたらええんやろ。
 まあ、今日はこれまでにしときます。
(2000年3月10日)

古川さんへ
 いつもあたたかいエールを有難う。古川さんは、確か若い人だったよね。私はもうすぐ69歳を迎える老人、考え方、生き方すべてに格差があると思いますが、日本の未来を見つめる視点では大同小異と思います。またネット上でいろいろ話しましょう。

 埼玉県狭山市には、3年以上支援をして下さっている個人の知り合いがおります。1棟50戸ほどの小さい集合住宅ですが、神戸市より"ふれあい喫茶担当者"として認めてもらっていますので、月1回ふれあい喫茶を開店していますが、これは狭山市の方の物資援助によるものです。ではまたお便りしますね。
(2000年2月17日)


 秋も深くなり、市長選、国会での公的支援継続審議と、被災者にとっては胃の痛くなるような問題が山積しています。皆様に於かれましては、いろいろと忍耐の日々を過ごしておられる事と思い、心からお見舞い申し上げます。

 被災者と一言にまとめられましても、貧富の差、老若の差は歴然としたことでしたことでして、再起もそれにかかっております。ところが神戸人はおとなしいのか、怒りの声も泪の声も聞こえてきません。どうか皆さん心からの叫びをかみひこうきに記しましょう。

 寒くなります。どうかお体大切に。
 かみひこうきを私達の絆の場にいたしましょう。
(1997年10月21日)

 国会議員、国民の皆様へ

 職、金、住の三重苦に悩む被災地より慟哭の思いを伝える者です。

 何卒すべての被災者が『日本に居てよかった』と思える日が訪れますように、お願い申し上げます。


 参議院議員 殿

 すべての被災者を対象とした「公的援助法」の実現を願います!

 「公的援助法」実現のために、ご尽力下さい。

 前略、阪神・淡路大震災被災地への日頃のご支援に感謝しております。

 この度は「生活再建援助法」の賛同議員に加わっていただきましたこと、心から嬉しく思っております。

 さて、参議院において今、議員立法として提案されようとしています「全ての被災者を対象とした恒久法」としての「公的援助法」につきまして、是非とも4月15日ごろまでに議会に提案できますよう、ご尽力願います。

被災地では老いも若きも持てるものも持てないものも、一様にすべてを失った震災被災者は、その生活基盤回復が遅れ苦しみの日々が続いております。

 一見自立したように見える者も、借財を抱え明日の不安におののいているのが現実です。2年3ヵ月の現状は、貴議員の今の存在をどれほど心強く思っているかわかりません。

 どうぞこの国会で、必ずこの法案を成立させ被災地と日本の未来に希望を与えて下さいますよう、必死の思いでお願い申し上げます。

 国会でのご奮闘をご期待申し上げております。
(1997年4月20日)










佐治 守さんへ届いた『かみひこうき』



1.馬場雅裕(OLIVES LEAF NETWORK)さん

 佐治守さん、初めまして、馬場といいます。今、名古屋でも、取り上げ初め、みんな頑張っています、僕も、ホームページなどで、掲載しております。微力ではありますが、只今奮闘中です。
(1997年5月5日)

2.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)

3.古川飛祐さん

 こんにちは。1997年4月、10月のかみひこうきを拝見しました。皆さんの心の叫びを、私や、多くの人達が、かみひこうきにより、聞き、メッセージを返すことができます。そこから、かけがえのない絆が生まれていきます。佐治さんの声も、これからたくさん聞かせてください。そして、どうぞお体を大切になさってください。
(1999年8月21日)

4.古川飛祐さん

 こんにちは。寒い日が続きますね。風邪がはやっていますが、大丈夫ですか?私は、ごく軽いのですが、ひいてしまい、のんびりしています。ちょうど月が丸い頃なので、窓から見上げています。晴れていれば、どこの空にも輝いているのだろうなと思いながら、良い年になるよう心からお祈りします。
(2000年1月23日)



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