清澤 徳子さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:89才女性 職業:無職)


久しくご無沙汰しています。書かねばと思いながら遅くなりました。
 東北の地震に私達神戸の者は本当に心から御見舞申し上げます。

 まだ神戸の地震は早朝で、火がもとで大きな火事になり沢山家をなくされた方、家の下敷きで亡くなられましたのが多かったのです。
東北の方は津波と放射能と三重にも大変な目に遭われ、こんなひどい事があるのかと毎日テレビで見ています。地震の規模も大きいし、未だ行方不明の方が3,500人もおられると聞いて、家族の方もご本人も気が休むことがないと思うと辛いです。

 神戸も17年も経ってやっと街らしい神戸に戻りましたが、東北の方々も大変でしょうけれど希望を失わず頑張ってほし いです。
高齢者の方の孤独死が多いと聞きますが、私達も17年前でしたが冬で寒かったのを覚えています。あちらは土地柄寒いと思います。仮設住宅の様子がテレビで映りますと思い出します。

 私も全国の皆さんから励ましていただき、今年数え年90歳を迎えました。なんとか今年も正月を迎えることができました。皆様の励ましのお陰と感謝しています。

 東北の方々も希望を持って大変でしょうけれど、前を向いてがんばって下さい。 祈っています。
(2012年1月3日)


 大変永らくご無沙汰致して居りますが、お変わりなく活躍されていますか。私もお陰様で、何とか元気で居ります。

 3月11日の東北地方の大地震があって、毎日テレビで見ていますが、大変ですね。神戸の震災の時を思い出します。16年前の事で、私もまだ72才だったし、津波も原発というものも無かったから、大変だったけれど、東北の人達の事を思うと、まだ良かった様に思います。
 高齢者の方々の姿を見ると涙が出ます。お気の毒というていいのか。自然には何とも言えないですね。政府がもっと早く何とか手をさしのべて上げて欲しいとイライラします。
 でも、各地から支援もあるでしょうし、かみひこうきの皆さんももちろん支援に駆けつけられたと思います。私もかみひこうきの方が仮設住宅に来られた時の事を昨日の事の様に思い出します。色々と励まして頂いて、今も元気で暮らしているのかと思います。改めてありがとうございました。

 神戸も街は変わりましたが、立派に立ち変わりました。まだまだ空き地は残っていますが、時々は昔住んでいた所へ行って、思い出をたどっています。
 神戸の地震は朝早く(6時前)でしたから、朝の支度(食事)で火を使っていたので、大きな火事になったのではないでしょうか。家が古かったのもあるのかも……。地震の時、下から突き上げられたから、家の下敷きになられた方も多かった様です。
 これからも東北地方の人々に元気を与えて上げて下さい。どんな心の励みになる事か。お願いします。

 遠い昔の事ですが「色々と励まして頂き、有り難うございました」
(2011年6月7日)


久しくご無沙汰致しております。いつも連絡いただくのですのに、失礼ばかりですみません。

 地震から15年も過ぎましたが、毎度申し上げるのですが、あの時の事は忘れられません。町は変わりましたが、昨日のようによみがえってきます。 人も少なくなった所もありますが、昔よく行ったところはなつかしく、よく一人で出かけます。 若い人達は山手の方面に多く移動して、高齢者が昔の街に目立ちます。

 最近世界中でいろんな事が起きていますし、今年は異常な暑さで参っています。 小高い所で風があったら涼しいのですが、あと2年ほどはがんばりたいと思います。

 いつまでもご心配していただいて、ありがとうございます。いつも皆さんのために(私共) 気に掛けていただいてありがとうございます。ご活躍がんばって下さい。感謝しております。 ありがとうございます。
(2010年8月25日)


かみひこうきのスタッフの皆々様、大変ご無沙汰致しております。いつも励ましのお手紙ありがたく感謝致しております。
 阪神大震災から14年になり、早くも感じたり今はなつかしく思う事もあります。亡くなられた方に悪いですが。
 先日静岡のほうで震度5.6の地震があったそうで、早朝だったのでさぞびっくりされたことでしょう。 神戸も6時前だったので、一瞬何が起きたのか解らなかったことを覚えています。水害やいろんな所で事故が起きて皆さん大変でしょう。

 私も田舎が三重県なので50年前くらいになりますが、伊勢湾台風で手伝いに帰った事がありました。水も早くて恐ろしいですよね。 急に来るから長く生きていると良いニュースがなくて被害にあわれた方がお気の毒でしょうがありません。御見舞い申し上げます。
 先日も西神戸の方へ出て行ったのですが、街が変わって昔の街を思い出そうとしてもわからなくなりました。 美しくなっているのですが、前の所がわからなくて、土の匂いを嗅いで帰ってきました。

 被災地の方に大変でしょうけれど、励ましてあげて下さい。力になります。私も随分元気付けられました。 今、思えば力強く思い、本当に感謝しています。ありがとうございました。
 今は毎日へ平和な暮らしをしています。 かしこ
(2009年8月18日)


 明けましておめでとうございます

 久しく御無沙汰して申し訳ございません。益々のご活躍のご様子、有難うございます。
 災害に遭った者にとって、どんなに励まされる事が嬉しいか、私も身を以て感謝して居ります。あの当時はあまり実感がなかったのですが、月日が経って(14年前)、つくづくあの時の事がなつかしく、よく頑張って来れたなと思い出して、支援下さった方々に感謝しています。有難うございました。皆様の励ましがあってこそ、今日まで来れたのだと思っています。

 最近テレビ等で東海地震のことが放送されますが、あの震災を思い出して想像すると、生きて行くのがいやになります。神戸の地震の時は朝が早かった(6時前)ので、朝食の支度とかパン屋さん、市場の中の煮物屋さんが火を使っていたところへ、家が古くて長屋が多く被害が広がったのではないかと(私は)思います。
 それに震度が大きかったので、多くの方が亡くなられたのではないでしょうか。悪条件が重なって亡くなられた方が多くなったのですね。

 神戸市も政府も、自衛隊などへの救援依頼が遅かったので、被害が大きくなったのではないでしょうか。あの教訓が生かされて、私たちの時より大分良くなって来ている様に思えます。
 もうすぐ17日が来ます。あの日の学校へ避難した時の床の冷たさが、今でも思い出されます。

 私事ですが、4年前から右足が変形性膝関節症で先を案じています。体は元気ですが。

 これからも、災害に遭われた方々に元気と励まして上げて下さい。永い間ありがとうございました。お体に気を付けられて頑張って下さい。お祈り申し上げます。
かしこ

二伸 地域のカラオケでたのしく過ごして居ります。
(2009年1月10日)


久しくご無沙汰して申し訳ありません。やっと暖かくなりましたね。今年の冬は寒くてこたえました。

 毎年1月17日が来ると慰霊祭が行われているのをテレビで見ますと、私も足が悪くなかったらローソクの1本でもお供えに行きたいと思いました。胸が熱くなって、手を重ねるにつれ、かなしくなります。
 あの時、全国の皆様やかみひこうきの皆様方に支えてもらって、元気に今年85歳を迎えることができました。生きていることがこんなに有難いのかと今つくづく感謝しております。

 子どもの頃学校で、日本は地震国だと教わりましたが、あんなに大きな地震が来るなんて考えてもいませんでした。
 何度も言いますが、あの日の事は忘れられません。朝が早かったから、市場からや食事の支度等で二重の災難になったのが悪かったのですね。

 私の住んでいる近くの西神戸も、やっとビルの工事がすみました。新しいお店がたくさんできましたが、人が少なくなったような感じです。若い人達は山手方面に行かれたようで、木造の建物が少なく、鉄筋建物が多くなって、なんだか冷たい感じがします。三宮方面に行けば、若い人達が多く、地震があったようには思えません。地震から神戸は変わりました。

 まだ元気にさせて頂いていますので、また、お便りさせて頂きたいと思います。遅くなって申し訳ありません。お元気でご活躍下さいませ。

かしこ

(2008年3月27日)


 本当に久しくご無沙汰して、申し訳ありません。永い間いつも気に掛けて頂き、有難く心より感謝して居ります。

お手紙頂いて間もなく、中越地震がありました。 3年前にも新潟地震があり、さぞ当地の方にはショックだったと思います。心よりお見舞い申し上げます。高齢者の方の姿が多く見られました。地元で生まれて、今日まで頑張ってこられたのに、これから先のことを思うと不安が一杯でしょうし、ガックリされた方が多いのではないでしょうか。私達、大正生まれや昭和初期生まれの方は、戦争も経験しており、何とか頑張って頂きたいです。

 一生の内には何があるか分りません。私も今日まで85年生きて来て、あまり良い事があった様には思えません。何とか生かしてもらっている位ですかね。
 でも人の温かさ、はげまし、やさしさに支えられて、生かしてもらっています。私達は阪神大地震の時は、朝が早かったので、火事で若い方が多く亡くなられました。
 今、無事生きておられたら、この世の中の為に活躍されているのではないかと思うと残念です。 生きてさえいれば、また楽しい事があろうかと思います。大変でしょうが頑張って下さい。

 かみひこうきの皆々様、はげまして上げて下さい。 私も皆々様のお陰で、今日まで来られました。感謝して居ります。
 暑さに向かいます。 皆様お体に気を付けて、がんばって下さい。 
 ありがとうございました。かしこ。
(2007年7月30日)


 1月17日の朝からテレビであの日のことを映していましたが、12年前のあの日のことを思い出し、涙が出ました。身内の方を亡くされた人が朝早くからローソクに火を点し、お祈りされている姿を見ると、胸がつまりました。何年たっても忘れられませんね。年を重ねると、また、違う考えで見えます。

 神戸の中心部はあんな大きな地震があったとは思えないくらい綺麗で、若い人たちでにぎわっています。私たちの住んでいた西神戸の方はまだ空き地がたくさんあり、まだまだ地震のあとが思い出されます。あの場所で住んでおられた方は今どうしておられるかと思ったり…。あの日から人生が変わってしまった方も多いでしょうね。

 いまだ復興住宅で孤独死した方は2000年から462人にもなるそうです。お気の毒ですね。自然の災害とはいえ、私たちの年代の人間は、大東亜戦争からやっと復興して、また、地震で人生がつぶれて・・・。

 あの地震は朝が早かったですから、市場の方から火が出たように思います。地震と火事で多くの人がなくなったのではないでしょうか。現在、西神戸の街の昔は賑わっていた場所は、人通りもなく、とても淋しい街になっています。人々が山手の方に移動したのではないでしょうか。
 若い人たちはマンションが多く建つ奥神戸の方へ行ってしまったのでしょう。下町は外国の人が多いと聞きました。

 世界中で色々な災害が起きていますが、これ以上、私たちが生きている限り、何も起きないように願いたいものです。

 今まで元気づけ、励まして頂いて感謝しています。私も85歳になり、先も見えてきたように思います。本当にありがとうございました。
 これからも、(あってはならないことですが)、災害地の皆様を励ましてあげて下さい。とてもうれしいです。ありがとうございました。
(2007年2月3日)


 久しくご無沙汰しております。度々お手紙を頂きながら、お返事をしなければと気になっていて、今日になってしまいました。お許し下さいませ。

 1月17日は朝からテレビであの日の映像を見ながら思い出していました。10年以上たってもなかなかあの日の事は忘れられません。よけい涙が出てきます。年を重ねると余計ですね。今日まで、よく生きてこれたと思います。皆様方の温かい励ましがあったからと思います。人間は一人では生きていけない事を痛感致しました。
 あの時お世話になった方々にお礼が言いたいです。「本当にあの時はお世話になりました」と。

 最近、耐震度が問題になっていますが、住まわれている人は、とても怖くて、夜も眠れないでしょうね。お気の毒です。あのビルを作った人に住んでもらったら、と思います。腹立たしく思います。

 私が住んでいたところは、木造で、築50年以上の所が多かったので潰れたり、朝食前で火を使っていた家から火が出たのでしょうね。電気のショートもありますし。
 仮設で一緒に生活していた方が1人、2人と亡くなられているのを聞きますと辛いです。寂しくなります。もうあんな大きな地震がこないように、神様に祈るのみです。

 皆様の幸せをお祈りします。
(2006年1月20日)


 久しくご無沙汰いたしました。再三お手紙を頂きながら遅くなってしまい申し訳ございません。
 今年の夏は家の中に居ても暑くて身の置き所がないくらい大変でした。やっとそこまで秋が来たようです。

 最近世界中、日本各地で災害を多く聞きます。テレビなど痛々しい光景が目に映りますと十年前の神戸の地震のあの時の事を思い出します。忘れることは出来ないです。その人、その人で差はあると思いますが、あの怖さは遭った人でないとわからないでしょうね。
 人間って弱いものですから、自然の猛威にはかないません。一刻も早く支援の手を差し伸べて欲しいと思います。自衛隊とかボランティアの方とか、救援隊の姿を見るだけでも元気が出ます。

 三宅島の方々も未だ家に帰れない人もいると聞きますと私達仮設で4年間過ごした時の楽しい思い出は少ないです。辛いことの方が多かったように思います。いろんな所から慰めに来てくださった事、バスで一日くらいの旅行に連れて行ってもらった事くらいでしょうか。他人事とは思えないです。
 十年前ですから私は今より気力もあったし、体力も少しは残っていたように思います。今だったらと思うと ぞっとします。子供さんや高齢者の姿を見るのが辛いです。長い人生何があるか分かりません。

 でも人のやさしさが一番だと思います。どうかこれからも大変でしょうけれども罹災に遭われた皆さんを 励ましてあげてください。きっと元気が出られると思います。いつも同じようなことばかりでごめんなさい。

 「かみひこうき」のスタッフの皆様、どうもありがとうございました。 かしこ
(2005年9月15日)


 久しくご無沙汰致しました。今年の冬はとても寒くて永く感じました。老いのせいでしょうか、お陰で風邪をひかずに過ごせそうです。
 先日はちぎり絵を頂き、毎年ながらありがとうございます。壁一杯になりました。時々寝ながら眺めさせてもらっています。その年の事を思い出しては、なつかしく皆さんの温かい気持ちに感謝しながら…。

 昨日(21日)九州地方で震度6弱の地震があり、災害に逢われた方の姿をテレビで見まして、又、神戸の地震の時を思い出しました。高齢者の方を見る度に、人ごととは思えません。ショックに堪えられないでしょうね。しばらくは余震が続き、精神的にも体にもこたえるでしょう。頑張って頂きたいです。
 でも自衛隊が早く来られて心強くなられたでしょう。神戸の時は2日後くらいに姿を見ましたが、もっと早く政府が指示を出していたら、あんなに大きな火事にもならなかったのではないかと思いました。

 近々大きな地震があると聞いています。小さい地震がある度にびくびくします。神戸の時は早朝だったし、山手の方面ではなく、海岸に近い所が強かったのと、昔から古い家が密集して軒並に倒れて被害が大きくなったのでしょうね。何かの教訓になればいいです。悲惨でした。
 10年目を迎え、あちらこちらで追悼式が行われています。あの時は自分の近くしか見えなかったのが、色々と聞いたり、写真を見ると色々あったのだな、と今更ながら神戸の地震の大きさにびっくりです。

奈良の浦島三四様
 いつも綺麗なちぎり絵をありがとうございます。たくさん増えて壁一杯に貼らせてもらっています。室が花で一杯のようです。たのしんで眺めさせてもらっています。遅くなりましたが、ありがとうございました。
(2005年3月21日)


 久しくご無沙汰致して申し訳ありません。新年には賀状を頂戴しておきながら、お返事が遅くなり申し訳ありません。あの震災からまる10年が過ぎました。

 今日(17日)は、朝からあの日の事(地震)がテレビで映し出されていました。多くの皆様方に支えられて今日までこられたのだとあらためて思います。感謝しています。
 人と人との支えがあって、絆があって生かされているのを強く思います。人間って、一人では弱いものです。いくら強がっていても、あの時は絶望したり、気が落ち込んだり、生きる力をなくしたり。今までよく生きてこられたと思います。

 学校での避難生活4ヶ月、仮設住宅生活4年。今振り返ると自分ながら、よく頑張ったと思います。今、この住宅に入居して6年。やっとこの街にも慣れてきました。好きな神戸で一生を終えることができそうです。

 地震の時は、72歳でしたが、今は少し気力も体力も弱ってきたように感じています。足が弱くなって外出もあまりできなくなり、介護の方にお世話になっています。いつまで頑張れるかわかりませんが、これから先も一生懸命生きていく覚悟です。この地震で亡くなられた方々の事を思うと、まだ幸せだと思います。

 「かみひこうき」の皆様方に励ましを受け、元気で頑張っていけます。今後ともよろしくお願い申し上げます。 かしこ
(2005年1月17日)


 久しくご無沙汰しておりました。
 約一年前の去年11月に右足の関節を痛めて以来、精神的に滅入ってしまいました。年齢的なこともあって、仕方のないこととお許し下さい。もっと早くお返事をと思いながら・・・。

 今年は格別な猛暑と水害、新潟地方の地震等悪い事が続くと地球がどうなるのかと心配です。10年前の神戸の地震は急に来て、火事や死んだ人が多くて、幸い私は生き残れましたが、若い人たちはとても無念だったと思います。
 毎日テレビを見ていますと、目に飛び込んでくるのは、罹災地の高齢者の方々の痛ましい姿。私もあの時72歳でしたから頑張れましたが、もし今だと思ったら、ゾーッとします。お気の毒です。今だに時々起こる微震が身体や精神を痛めることでしょう。

 「かみひこうき」の皆様、どうか罹災者の方々にエールを送ってなぐさめてあげて下さい。どんなに力強く思われると思います。私たちもどんなに励まされたことでしょう。感謝しました。遅くなりましたが、ありがとうございました。
 皆様のご活躍をお祈りしています。
かしこ
(2004年11月10日)


 桜の季節も終わり、新緑の候となりました。かみひこうきプロジェクトの皆々様方もお変わりなく、お忙しく毎日ご活躍の事と存じ上げます。
 十年一昔と申しますが、地震から10年になりました。この10年は今でも昨日の事の様に頭の中に残っています。

 先日(4月23日)、西神戸商店街へ行って来たのですが(地震後、皇太子様と雅子様がお見舞いに来られた所)、見違える程立派なビルが建ち、余所へ来たのかと思う程変わっていました。お店の人も地震前の所に住んでいる人や、まだ店を出していない所など色々でしたが、お客の方が少なくひっそりとしていました。町にまだ活気がありませんでした。

 ビルとビルの谷間に新しい地蔵さんがあって、思わずあそこで亡くなった人を思いだして手を合わせました。私ども高齢者はやっぱり昔の町が懐かしいのかも知れません。でもこの日を待たずに亡くなられた方が多くおられた事を思うと胸が詰まります。

 私が4年間仮設で暮らした土地も立派なマンションが建っていました。歳月の流れを感じました。若い人達が暮らす所としては静かだし、学校も近くにたくさんあるし、環境としては良い所でした。色々思い出されました。今はもう昔の事となりました。でもあの地震がなかったら、人生も変わっていた事でしょうね。今は懐かしく、色々思い出されます。

 長い間色々と励まして頂き、有り難う御座いました。
(2004年4月23日)


 ここ2、3日春の様な暖かさですが、お水取りがすむまではまだまだ寒い日が来るのでしょうね。でも春はそこまで来てる様です。

 先日、奈良県の浦嶋三四さんから、きれいな花の壁掛けを送って頂きましてありがとうございました。段々と枚数が増えて、一段と華やかになりました。毎年の様にありがとうございます。
 地震で家財道具が少なくなった所に飾らせて頂いています。遠くから見ると水彩画の様に見えてきれいです。

 とても良いご趣味だと、うらやましく存じました。ありがとうございました。これからもお元気で続けられる事をお祈り致します。お礼まで。
(2004年2月22日)


 今日は、地震から丸9年目で、早朝からテレビの映像があの日の煙が昇ってすさまじい光景が出ていました。思い出すまいと思っても自然に目が行きました。
 記憶に弱い私ですが、あの日の突き上げられて振り廻されたあの恐怖の瞬間は、死ぬまで頭にこびり付いていると思います。地震にあった方は皆一緒だと思います。亡くなった方も何があったかわからない儘亡くなったのではないでしょうか。

 地震の事は普段あまり口にしないのですが、この日が来ると色々思い出されます。あの日も寒い朝でした。学校で避難をしていた時、近くの風呂屋さんに並んで入ったことを思い出されます。お風呂の中も一杯で、芋の子を洗う程一杯で、皆が黙々と洗っていました。
 トイレで気を失った時のこと、寒くて夜も充分寝られなかった事やボランティアの方が熱いうどんを食べさせて下さった事、思い返せば、早いです。

 復興住宅で孤独死されている方が150人余りおられると聞いて、身につまされる思いです。一生懸命頑張ってきて、最後は寂しく一人で旅立つなんて・・・。
 西神戸の街もやっと建物が多く立って、人々に活気が出てきたように思います。でも人口が少なくて昔の面影はないです。近いうちに大きな地震があるとか聞きますが、なるべく被害が少なくて苦しむ人が少なくない事を願うのみです。
(2004年1月17日)


 かみひこうきの皆々様、久しくご無沙汰致しております。お変わりなくご活躍のことと存じます。私もお陰様で、今日まで生き長らえてこられたのも、皆様方の励ましのお陰と感謝しております。

 先日来、東北地方(宮城県)で震度6強の地震が三度と、まだ時々微震が続いているとテレビで知りました。さぞ不安な毎日でしょう。私も8年前のことを思い出しました。私のような高齢者の方が学校で毛布を敷いて休んで居られるのを見て、涙が出ました。恐ろしさと不安とでお体にこたえているのでは、と思いつつ、8年前の神戸の地震のことを……。あの時は1月だったので寒さとショックで放心状態だったと思います。

 今にして思えば、国が自衛隊がもっと早く現場に駆けつけてくれていれば、私達罹災者も安心出来たのにと思いました。この度の宮城県の地震では自衛隊の姿が見えましたし、幾分か心強く感じられたのではないでしょうか。幸いにして死者がなかったのが救いですね。

 神戸の時は早朝だったこともあって、3日位火事で煙が空高く黒く、戦争中の時を思い出したりして余計に不安でした。でも、あの地震で平成9年10月11日付の朝日新聞で「見えない被災者」として1面上に載せてもらったり、東京の参議院会館に支援金のことで議員さんの事務所へお願いに行って話を聞いてもらっているうちに泣けてしまったり、今から思えば懐かしい思い出になりました。

 どうかこれから先、色んな所で地震や災害で苦しんで居られる方々を元気付け、励まして上げて下さい。私はとても感謝しています。元気づけられます。

 皆様方の心温まる御支援が忘れられず、お便り致しました。本当に感謝致して居ります。
 皆様方のご健康を神戸の空よりお祈り致して居ります。かしこ
(2003年7月30日)


 立春が過ぎて半月余り、一雨一雨暖かくなっていく様な感じですが、未だ未だ朝晩は寒く感じます。
 先日、浦嶋様から綺麗なちぎり絵を頂きまして、大変嬉しく思いました。被災してから8年が過ぎましたが、こんなに永く私達の事を励まし、慰め続けて下さるなんて、もったいなく、幸せを感じました。
 地震の1月17日の記念日にテレビを見てますと、私よりももっとお気の毒な人が沢山居られる事を思うと、もったいなく思います。有り難うございます。

 浦嶋様、とても綺麗なちぎり絵を度々有り難うございます。家の中に家具が余りないので、壁に貼らして頂いております。人が来られた時は、華やかさに誉めて下さいます。1回目は朝顔、2回目は椿、3回目は馬、4回目は花の絵のちぎり絵ととても華やかです。有り難うございます。お礼申し上げます。
(2003年2月18日)


 新年にご挨拶状を頂きながら遅くなってしまいました。お許し下さいませ。
 久しくご無沙汰致しております。新しい年を迎えて今年も何かとお世話になる事と思いますが宜しくお願い致します。

 地震からまもなく8年になりますが、又、あの日の朝の恐ろしい事が思い出されます。先日、「人と防災未来センター」へ行って参りましたが、入館して、まず、あの地震の時の映像が飛び込んで参りました。20分足らずだったと思いますが、音も迫力もあって気分が悪くなる様な思いをしました。あの時、あんな映像が取れるとは思わないのですが?

 センターには地方の団体さんが沢山来ておられました。近い将来、南海地震がかならず来ると大学の先生が断言しておられましたが、自然のする事ですから防ぎ様がないでしょうが、人災だけは少なくすむ様に祈ります。学校で避難生活4ヶ月、仮設生活4年、ここに来て今年4月で4年目です。今、やっとこの土地、生活にも馴れて落ちついた様に自分で思います。

 皆様のやさしさと、励ましのお蔭と感謝しております。私の人生で一番強い思い出です。テレビ出演の件ですが、どんな事を話せば良いのかと思っていたのですが、アナウンサーの方が、「地震の時は机の下に入ったらいいと聞いてますが」と聞かれたので、「そんなやさしい事ではない」と話をしたのですが、取り上げられなかったのは私の話が迫力がなかったからと思っています。あとで写真を送りますと言っておられました。これも思い出になりました。テレビに出るなんて初めてです。

 あまり、全国の皆様にお伝えする事もないのですが、日本の政府がもっと早く何とか緊急に処置が出来とれば、あんなに多くの方が犠牲者にならなかった様に思います。今になって色々聞くのですが、どれも信じられません。
 いつも気にかけて頂いて有難うございます。感謝いたしています。 かしこ
(2003年1月11日)


 いつも気に掛けて頂いて、とても嬉しいです。私のような者が何のお役に立てるのかと、自分でも恥ずかしく思っています。先日テレビ局の記者の方が見えられて、生まれて初めてテレビに出させて頂き、一生の良い思い出となりました。
 地震からもう8年が来ようとしています。段々と記憶も薄くなって、地震の朝のこと、それからの生活のこと、何をしゃべったのか、頭が舞い上がっていてわかりません。記者の方は1時間少し居られました。

 平成9年10月の朝日新聞一面に「見えない被災者」として取り上げて頂き、あれから色々な方にお逢い出来たように思います。週末ボランティアの東條さんにもお逢い出来て、被災者への公的支援を実現させる為、東京の参議院会館へ行ったこともあります。日帰りでしたが、仮設の代表として20人位で行きました。今は良い思い出となっています。
 代議士さんは居られなかったので、秘書の方と話をしているうちに涙が出てきたことが思い出されます。会館の食堂で食事をしたことも昨日のことのように……。

 平成13年5月8日に阪神・淡路大震災資料館が出来たようで(神戸市中央区脇浜海岸通)、資料提供者ということで招待券を送って頂きましたので、涼しくなったら写真機を持って一度行ってみたいと思っています。
 色々思い出すこともあると思いますが、死ぬまであの日のことを忘れないように、又あの日亡くなられた多くの方々の為にも……。

 暑さが厳しいですが、御身御自愛下さいませ。
(2002年8月15日)


 今年は例年より早く暖かくなるような気がしてホッとしています。この土地は山が多くて風のある日はとても老いの身にはこたえます。一階ということもあって地下からの底冷えがこたえます。

 先日奈良県の浦島様からご丁寧なお返事ありがとうございました。私の生まれは三重県で奈良県との県境で懐かしく思いました。地震があって七年も経っているのにこのようにいつまでも温かく見守っていて下さる方がこの世にいらっしゃることを心強くうれしく感動しています。今でもこうしてお便りさせていただくことが嬉しいです。仮設住宅に居たときも色々なところから色々な人がこれらて励ましていただきましたが今はもう段々遠のいてきました。

 今日は別紙共産党の新聞ですが、何か参考になればと送ります。神戸の地場産業であるケミカルシューズが地震からすっかり外国の方に生産をとられ事業主も従業員の人達もすくなって悲痛な叫びを聞いてあげてください。こんな職場が多くなっています。
 まずはお礼まで。
(2002年3月25日)


 新年おめでとうございます。いつも気にかけて頂き、有難く存じます。
 私も80才を迎え、大きな病気もせず静かな正月を迎えることが出来ました。学校で避難生活4ヵ月、仮設で4年とよくここまで頑張ってきたなと思い出され、これも皆々様の励ましがあったお陰と一重に感謝しています。
 地震から7年が経ちました。まもなくあの17日の朝のすごかった揺れが思い出されます。数分にして皆の平和な生活が一変したのですから、頭の中の整理がつかず放心状態だったことが昨日のように思い出されます。

 今、私の住んでいる地域は神戸の北部の方で、平成2年に建てた住宅ですが外観からは地震のことなど思い浮かびません。人々も地震のことはあまり話題にしません。
 前に住んでいた所に行くとまだまだビルの建設中だったり、空き地が多くあったり、町の隅にはまだ仮設があったりします。昔私達が行っていた市場などは「未だ2〜3年は仮設生活だ」と言っていました。人々も少なくなって、なかなか思うように商売が出来ないとこぼしていました。あの時皇太子様と雅子様がお見舞に見えた所なのですのにね。お気の毒です。がんばってほしいと思います。

 去年は世界中がいろいろ怖いいやなニュースが聞かれましたが、今年は平和な年であって欲しいと思います。リストラなど男の方も仕事など不安なことが多いようです。何とか良くなって欲しいと思います。私も5年くらいはゆっくりのんびり余生を過ごしたいと考えています。
 ありがとうございました。皆様のご健康とご活躍をお祈りいたしております。
(2002年1月10日)


 残暑お見舞い申し上げます。久しくご無沙汰致しております。おかげさまで元気に過ごさせて頂いております。いつも気にかけて頂いて嬉しく思っています。今年はいつになく猛暑続きで、スタッフの皆様お変わりなくお過ごしでしょうか?。

 あれから6年余り過ぎましたが、早いといえば早かったように思えます。苦しい事、つらい事、絶望したりもしました。でもあの日の事は今でもはっきりと思い出されます。死ぬまで忘れないと思います。「あの恐ろしさ」は……。でも今、こうして静かに生活を送れるのは皆様方の励ましのおかげかと感謝しております。

 三宅島の方々の生活をテレビで拝見しますと、私達のあの時の姿を見ているようで、何とも言えない胸が締めつけられる思いで涙が出ます。それに家が荒らされ物が無くなっていると聞きます。神戸の時も朝早くから若者が2、3人バイクでうろついていたのを思い出します。未だ寒い時期だったので、何をしているのかと不思議に思ったのですが、家の物が無くなっていると言っていた人もいました。人の弱みにつけこんで悪事をする者は許せません。周囲に誰もいないから自由にできますからね。悪質です。

 参議院選挙の立候補者の人達の「お願いします」の声を聞く度に、地震の時は何一つ励ましの言葉もなしに身勝手に白々しく言えるなあと、いやな気持ちになります。共産党の方は色々な催しもしてくれました。人の心が弱っている時こそ、やさしくして下さった時が今でもなつかしく思い出されます。忘れません。
 この度兵庫県の知事さん、神戸市長さんが引退されますが、私はご苦労様とは思えないのです。もっと早く 何らかの処置を取れなかったのか(国に対して応援を頼むとか)と今でも思います。悔やまれます。

 私が住んでいる所は神戸でも裏の方で私達のように家を無くした人が少ないので「地震でここに来ました」と話しても、あまり好感はないようです。だんだんと昔の事になっていくのでしょうか?。
 いつも愚痴っぽいことばかりでご免なさい。いつもかわいい団扇をありがとうございます。大事にみな取ってあります。うれしいです。大事にします。    かしこ
(2001年8月8日)


 地震から早や6年が経ちました。段々と記憶も薄れつつありますが、嬉しかった事、苦しかった事、悲しかった事など思い出されます中で、あの地震の怖さだけは、一生死ぬまで忘れられないと思います。多くの人から優しくして頂いた事は 強く頭に残っています。

 苦しかった事や悲しかった事も色々ありました。上杉さんのお手紙の中で、女子トイレの事を書かれていました。長田区には一部、常識では考えられなかった地域があると聞いていますが、地震の直後は誰もがショック大きすぎて、何をする気力もなく、放心状態だったのでは、と思うのですが……。三日、四日となるにつれ、私のいた学校では誰となく(若い女の人達)、掃除をしてくれた様に思います。便所の数が少なくない上に、人数が多すぎて、私が昼間トイレで倒れ、意識がなくなった時、側にいた女の方が、医療所へと運んでくれました。ありがたかったです。今でもその方にお逢い出来れば、充分にお礼が言いたいと思っています。

 地震の時の救助の事ですが、私の家の横に文化住宅が5軒ほどありまして、建物が古かったので、上の階が下に落ちて家がくずれ、下に住んでいた人が下敷きになり、働き盛りのご主人とご長男(28歳位)が生き埋めで亡くなりました。その救助に警察の方が3人ほどこられて(大阪方面からの応援?)、自分の足場がくずれるのでとても助け出せず、「だんだん脈拍がうすれて行く」と言って引き上げて帰られました。どうにか出来なかったのかと、今思い出しても気の毒でした。あんな時、もっと早く自衛隊でも沢山おられたら、何とか助けられたのではと、人の命のはかなさを感じました。

 平成9年6月3日 参議院議員に被災者への公的支援を実現する決起集会に参加しました。私は一部損壊の為、参加するだけでしたが、被災者の皆さんが喜んで下さればと、朝6時43分発の新幹線で、新神戸から東京に行った事も思い出されます。議員さんは皆、事務所にはおられなくて、事務員の方にお願いに行ったのですが、話をしている時に感無量で、涙が出て仕方なかったです。年を取ると涙もろくなります。
(2001年3月15日)


 明けましておめでとうございます
 皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。ご無沙汰しております。いつもご声援と励ましを頂き、有り難うございます。皆々様方の暖かいお力添えで、今年も新しい2001年を無事迎える事が出来ました。

 正月が来る度に嬉しさもあるのですが、あの時の悪夢のような地震の朝を思い出して、何とも云えない気持ちになります。「どこへ行くともなく、まだ夜が明けてない薄暗い国道を、幾人かの人とぞろぞろ歩いていた」時の事を、昨日のように思い出されます。放心状態だったと思います。
 あれから6年が過ぎました。子供の頃から日本は地震国とは聞かされていましたが、あの時は横揺れ位ではなく、上下揺さぶり、強く振り回されたような気がしました。起きる少し前で、何が起きたのか一瞬わからなかったのです。私達の年代は戦争も体験しているし、強く生きてきたつもりでしたが、人生の終わりになって、年齢のせいでしょうか…怖かったです。

 震災以来、鳥取、三宅島、北海道の有珠山、長崎の普賢岳で罹災された方々の姿をテレビで見る度、身がつまされます。あの地震で書類上(証明書)で一部損壊といわれて行政の冷たさを知り、人々との人間模様を見、いい人生勉強になりました。
 小学校の教室で20人位の人と4ヶ月、仮設住宅では4年間の避難生活…今振り返ると、よく頑張れたなと思います。当時は失望、落胆、生きていく希望を失いかけていましたが、東灘の方で大学生の方がアパートの下敷きになり、大勢亡くなったと聞いて、さぞ無念だったろうと思うと、命があっただけでも頑張らなくてはと思い、今まで来れました。

 今は新しい住宅に変わってから1年余り、花を作ったり住宅の人々と仲良くして頂き、やっと落ち着いたように思います。神戸の街も高いビルが次々と建って、どんどん変わっていきます。もうあと10年もすると、すっかり大都会に変わることでしょう。それまで、元気でいたいなと思います。ありがとうございました。
(2001年1月5日)


 残暑お見舞申し上げます 皆様ご無沙汰致しております。
 度々お便りいただきながら、お返事出来なくて申し訳ございません(気にかかりながら)

 ここに来てから1年4ヶ月がたちました。早いものです。仮設に居りました時に矢萩様がお越しになってお話させて頂いた事が昨日のようにも思い出されます。日中は熱くて家の中におれない程でした。冬は寒くて冷えた事を一番に思い出します。今になって思えば、4年間よく頑張ったなと自分ながら感心しています。
 神戸の街も徐々には立ち直っていますが、未だ未だ空き地も多く、前に私が住んでいた所では人が少なく昔の面影はありません。あの近くに行くと色々な思い出が蘇ってきます。高層ビルばかりが多く目立ちます。神戸も何年かすると大きく変貌するでしょうね。

 私も今では高血圧が落ち着いて大きな病気もせず、元気で過ごさせて頂いています。幸い住まいが1階なので裏の空地で仮設から持ってきた菊やコスモス、向日葵の花など植えて楽しんでいます。道行く人も声をかけてくださったり、お友達も出来て朝夕の水やりが日課となっています。少しでもボケがこないようにと草むしりしたりで、時間を過ごしています。

 三宅島の方々の様子をテレビで拝見しますと、お年寄りの方々がお気の毒です。人ごととは思えません。早く収まってほしいですよね。先日は朝顔の画の色紙を頂き、又この度はうちわを送って頂き、ありがとうございました。大事に飾らせて頂きます。
 皆様身体に気をつけられて「かみひこうき」がんばって下さい。かしこ
(2000年8月8日)


 ご無沙汰致して居ります。仮設からのここに引っ越して10ヶ月になりますが、今頃やっと落ち 付いた気持ちです。年をとると環境になれなくて落ちつかず、ちょっとした事でも悩んだり、 気が弱くなってなさけなくなったり、からすが鳴くと涙が出てきたりしてしまいました。今や っと生活もマイペースで毎日元気にやってます。

 人から聞いた事ですが、新しい住宅に変わってから病気や亡くなった人があると聞きました。 私も前から高血圧の病気があったのですが6月15日夜テレビを見ていて急に目が回りだしてとま らず、一人住まいですし夜中になって心細くなり、救急車で病院へはこんでもらいました。 近所でも知らない人ばかりだし、血圧が190ありました。半月ほど入院しましたが、無事退院 できて良かったです。血管が切れていれば半身不随になれば不自由な体になり先が真っ暗です。 でも何事もなく喜んでいます。

 地震から5年目になりテレビの画像であの日の光景が映し出されますと思い出して身が震えます。 亡くなった人が気の毒で人事でない様な思いです。もうあんな事はいやです。今まで皆さんにささ えられてきました。ありがとうございました。スタッフの方々にもよろしくお伝えくださいま せ。かしこ
(2000年1月16日)


 今は一人暮で3つの部屋がある所に入れてもらってゆっくりした生活をさしてもらってます。  ご無沙汰しております。お陰様でやっと4月1日に公営住宅に入居することができました。地震から丸4年、とても永かったです。

 仮設で死ぬのではと思ったことも、一時はこのまま生きていてもしようがないと失望したこともありましたが、やっと人間らしい生活が出来ることがうれしいです。元の所へは帰ることは出来なかったのですが、近い所(同じ区内)へ来ることが出来たので満足しています。私は一部損壊という被災区分なので二度も仮当選していながら書類上で跳ねられてしまい自分はどこまで運が悪いのかと情けなかったです。私は被災者であっても書類上は被災者ではないのだそうです。行政は冷たいと思いました。地震当時は自分で区役所の受付に申請すれば、全壊も半壊もそのまま通ったのですから。
 私の場合は避難所(学校)で風邪をひいて少し遅れて申請に行ったのです。すると私の家は区役所からすでに調べに来ていたのです。不運はこの時からです。義援金も支援金も何もないのですから。

 でも元気でおれることがありがたいと思っています。4年間いろんなボランティアの 方にもお世話になり良い思い出になります。何度か「かみひこうき」にも手紙を載せ ていただきありがとうございました。残りの人生を一生懸命がんばります。皆様あり がとうございました。
(1999年4月11日)


 新年あけましておめでとうございます。
 御無沙汰致しています。地震から4年、精神的にも肉体的にも大変でした。でもやっとこの3月頃には新しい土地に移れそうです。2回も仮当選したのに書類上で(一部損壊)外され、一時は失望した事もありましたが、やっと希望が出来ました。仮設では絶対死にたくない(私があまりにも哀れ)と頑張りつづけました。仮設での対人関係などコミュニケーションを取るのに悩んだ時もありましたが、でも一方でボランティアの方々、皆々様の励ましで今日までこれました。有難うございました。
 こんなに永く仮設で居るなんて考えていなかったです。色々と人生の経験もさせてもらいました。私達70歳代は戦争に逢い、終戦から立ち上がり、一生懸命がんばりつづけました(働きました)。やっと人生の終わりになって、一瞬にして人生が変わるなんて思いもしませんでした。でもこれから5年、10年のんびりと暮らすつもりです(元気でおれば?)。ありがとう、皆々様。

 追伸 この地震で得をした人、私の様に馬鹿正直で苦しんだ者、色々です。一部損壊でも住む家のない者には半壊としてほしいと思います。行政はもっと私達にやさしくしてほしいと思います。仮設住宅も3月31日で撤廃するそうです。だから早く出したい意向です。
(1999年1月2日)


 いつも励ましのお便りありがとうございます。

 仮設生活に入って3年余り、早いようでもあり遅いようでもあります。仮設の人も半分くらいになり、寂しくなりました。行き先が決まっていても、まだ建物が出来ていなくて、来年くらいまでかかる人もいるようです。
 私は第5次募集に仮当選したのですが、書類審査で落ちました。一部損壊ということで、いつもはねられます。被災者ではないようです。毎回申し込むのですが駄目でした。半壊と一部損壊とは紙一重だと思います。でも行政は通してくれず、義援金もなく、この度の自立支援金ももらえません。同じ地震に遭いながら、この差別はどういうことなのか。
 この自信で得をした人、正直すぎて損をし、馬鹿を見る者…様々です。いまだに仮設にいる人は力のない弱者ばかりです。私と同じ様な家の壊れ方をした人でも半壊の証明をもらっている人もいます。大きな差です。
 もうこんな地震はあってはならないのですが、もし再度あるとしたら、私のようなことがないように、国も県も考えて欲しいと思います。震災では人に情の厚い人、自分本位の人、色々な人の姿を見ました。人生の終わりになって良い勉強になりました。
(1998年8月12日)


 地震があって3年が過ぎました。いろんな事がありました。いろんな人達に励まされました。ありがたいと思っています。
 でも政府のすることには腹が立ちます。住専とか銀行、証券会社等の倒産には援助する一方で、私達被災者にはまだまだ住宅に入れず、沢山の高齢者の方が亡くなっています。自殺者も出ています。明石海峡大橋とか神戸空港とかを作る前に、早く被災者を安心させてもらいたいのです。政府の方、県や市の偉い人は何を考えているのか私達は不安です。
 兵庫県知事が3月、テレビで「9月一杯で仮設を撤回する」と言っていました。私達が仮設に居なくなって言う言葉と違いますか。マスコミとか世間のメンツの手前言っているとしか思えません。私達をホームレスと思っているのとちがいますか。

 この頃、いらだちと焦りが交互にやってきます。夜中眠れない時は、死を以って抗議したくなる時があります。だんだんと世間からは忘れられて行きます。
 私は「一部損壊」となって一般の所へは申し込めず、西区か北区のあまり人の行か ない所にしか応募できないのです。買い物にも通院にも困ります。それでも行政はそれを通そうとします。弱い年寄には生きる望みもなくなります。

 もっと情のある政治をして欲しい。この仮設で死にたくはないのです。
(1998年4月5日)






清澤 徳子さんへ届いた『かみひこうき』



1.浦嶋三四さん

 ご丁寧にお手紙ありがとうございました。ちぎり絵可愛いと言って頂き喜んでいます。年を重ね思うように貼れませんが、眺めて下さっているようで貼りがいがあります。どうぞ御身大切に御自愛下さい。寒さもやわらぎ暖かくなってきたら、心も和みますね。かしこ
(2002年3月12日)

 


清澤さんへ『かみひこうき』を送る

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