桜井 義信さん

  (住所:神戸市西区 年齢性別:62才男性 職業:無職)


 しばらくごぶさたしております。 前年(平成21年)10月は胃潰瘍で緊急入院し、続く11月には大腸上行憩室炎で入院。 22年1月末に再び胃潰瘍で入院。
 簡単に言えばこういう事になるが、それまでに激痛が走り、家で一人のた打ち回った結果である。
 正に一人身での大病は悲惨極まりなく、幾度となく死の淵をさまよった。 しかし、今又こうして書く事、言う事ができる。ただ年々漢字を忘れ、ひらがなが多くなって来ている。 物忘れがひどく、感情に敏感になり、ささいな事で怒り、わめき、泣き、そして笑う。

 そんな中にあって、今少々子供相手に野球をしている。 子供のため、そして自分自身のためでもある。 以前と比べれば週に1、2回と減っているが、その時は何もかも忘れて子供と野球をしている。
 私の人生でたった一つの生きがいである我が息子とは、年に1回会う程度で、息子はどんどんたくましくなり、我が父をあてにする事なく、別れた元妻の面倒をよくみている(認知症あり)。
 長年にわたり母子家庭であり、高校まで出してもらった恩返しだろう。 父の足りない(出来ない)分、仕事中に車で病院まで連れて行っているという。 私は本当に息子にはすまない気持で一杯で、胸が熱くなる。

 私も息子も元妻も震災体験者であり、あの時我が子は小学4年生だと覚えている。 15年の歳月が流れようと、生涯忘れる事ができない震災である。
 日本に、そして世界中に色んな体験者(被災者)がいる中で、私はその内のたった一人に過ぎず、障害者となり、今また大病の中をまだ生きている。
 こうしてメッセージが残せるのであるが、いつか我が息子が読む時が来るだろう。その時息子はどんな思いをするのだろうか。 父はたった一人で淋しく、悲しく激痛の中で死んでいった。 誰にも看取られることのない孤独死はあってはならないのだが、現実は避けようがない。 病院(入院)や事故でない限り、私はたった一人で死を迎えるのであろう。
(2010年5月8日)


 後を絶たない震災。語り継がれる阪神大震災。今なおある世界の震災。いつまで続く……いや、きっと永遠にあるであろう。
 その時、人はどうする。特に貧困社会において、なすすべもないのが現状か?。

 その後ペンが止まっていたのは、私が胃潰瘍、そして9月20日上行結腸憩室炎という病魔におかされ入院。長年の腰、脇腹の痛みが激しくなり、10月20日再入院。今家にいるが、11月20日また再発。

 激痛が走り、ペンが持てない。ここまで書くのが精一杯。あとはあとは再々入院。病院で死を待つのか?。こわいこわい。
(2009年12月1日)


 明日は大腸検査である。 腰が痛いのも、脇腹が痛いのも障害のせいと思っていたが、腰、脇腹は大腸ガン(?)の疑いありとの話(主治医)。
 ガンとは? まさか、検査の結果を聞かなければならないが、ここ一ヶ月ほど異常に腰、脇腹が痛く、歩くのも困難である。 これは10年以上もの障害のせいではなく、おかしいとやっと検査を受ける勇気を出した。

 このメールが返ってくる頃には結果が分り、入院(手術の可能性大)するであろう。私は今まで何をしていたのだろう。 自分為人の為と色んなボランティアをやり、たった一人で入信もしているが、それも自分の為、人の為と。万一ガンと宣告されたら何を思うか、何を感じるか。 そして残された命。
 この先どう生きればいいのか、どうすればいいのか。 その一時前は倒れる時はグランドの上と覚悟を決めていたが、入院のベッドの上は心底つらい。病院でも家でも(孤独死は)いやである。

 グランドの上で、しかし検査の結果次第では即入院後、入退院を繰り返し、病院か家かの死である。 とうていグランドの上では無理な話。 震災を乗り越え、障害を乗り越え、やっとここまで来た。 もう62歳であるし、まだ62歳でもある。 まだ孫の顔を見ていない。
孫とキャッチボールをする夢がある。 まだ夢が残っているのである。
 何としてそれまでは生かしてくれないものか。 幸福になりたい、病気・ケガを治したい。だから入信したわけではない。 私は私、自分が心穏やかになる。 心すこやかになる。 そうすれば人との対話もスムーズに出来る。 人とのつながりも出来る。又、少年野球の子供や両親とも親しくなれる。

 人との対話はいかに大切か。そのことのために入信した。 それは孤独死を避けるため。 万一ガンであって、孤独死はたった一人で誰にも看取られず寂しく死す。 こんな悲しい事は絶対にあってはならない。 私ならずとも、日本に世界に孤独死がある。 誰か一人でもいいからそばにいて、最期を見守ってくれる人が絶対いる。 心から願っている。
 ぜひとも孤独死は避けたい思いです。
(2009年9月9日)


 兵庫、この地はなんと災害の多い事か。 思い起こせば阪神大震災、豊岡水害、そして今回の佐用町、美作の水害。 人々は「まさか自分の所がこの様な水害になろうとは。」と口々に言う。 その「まさか」がまさしく人災であると思う。
 かと言ってまさかに国土を整備すれば何百億、何千億とかかるであろう。 先ずは私たち国民一人一人がそのまさかに備えることだ。

 私はそのまさかに備えずして、生き埋め、障害者となった一人である。 あの時あんながけ下の違法建築の家をただ家賃が安いというだけで借りた。 それは後悔でなく私の運命だった様な気がする。 なぜなら今こうして子供たちと共にいるからだ。
 腰、わき腹を痛め、時にめまいがして、目までかすむ時もある。 それでも野球をするのである。 年々力が衰えているのは自分でも分るが、それでもやる。
 これが運命か宿命か分るはずもないが、腕や足が動く限りやる。 これが助けられた命の最後の使い道かもしれない。 他にも色々な事をやっているが、命をかけてやるのは野球だ。 しかし、題目なくして野球はないかも知れずと最近思うようになってきた。

 いかなる宗教にして、人を信ずる、仏を信ずる、それが人の人生。 生涯悪いはずもなく、何かをせずして向こうから幸福は来ない。 自分から積極的に自分の道を見つける。 まだまだ生きる気である。

 今回、佐用町や美作の方々は、後片付けや家の再建、いや家さがしなど大変な苦労がある。 同じ被災者として十分理解できます。 できればボランティアをと思っておりましたが、私どもにも雑用多く、そして近くて遠い兵庫。 
 自分の事、自分の幸福は一人一人が一団となり頑張れば、いつの日か「こんな事があった。 あんな事が」と語り継ぐ時が必ず来ます。 今は辛抱の時です。

 では、健康に十分気を付けられ生きて下さい。 頑張って下さい。
(2009年8月18日)


 私なりに迷いに迷い投書しました(前回)。 しかし、現在偽りの無い姿。
 友人の話では「兄弟はいるか?。」と。「います。6人もいますが、電話ができるのは長兄一人だけ。それも「8年間音信不通です。」と。「なぜ8年もの間ほうっておいたのか? すぐ電話しなさい。」との話。

 私はとりあえず電話をすると、兄の声がする。 安心と少々不安の中で「明日向かう」と電話を切る。 そして兄の家に伺い、互いの顔をみるが、兄は以前とは比べものにならないほどにやせており、左目を失明、膀胱(ぼうこう)がん、胃がん、前立腺がんと、わずかな余命いくばくと聞く。 又手術をして命を延ばせば5年。 手術をしなければ1年少々の命と聞く。 「わしは手術して5年生きる。 しかばねとなるよりも1年でも自分の人生を謳歌(おうか)して行く。 そちらを選ぶ。」と言う。
 私はどちらにするとも言えず、内心は手術して5年でも長生きしてもらいたいのだが(年は75才である)、本人に任せるしかない。 本人は笑いながら話す。 本心は心穏やかではないはずだ。 決して落ち込む様子すら見せず、話は昔話に戻る。 その間もコーヒーを入れるが手はおぼつかず、よくこぼす。 よく間違いや手違いをする。 もし右目を失明したら、自分の人生を行けず、1年でも危ない人生。兄の妻や私でさえ生きた心地がしない。

 これを誰にも頼らずにいる。医師、先生ですら手術の道がない。 しかし本人はかたくなに断り、病院に行けば手術される。 絶対にいかないところ手の施しようがない。私を含め、だからこそ何を言わんかである。
 本当に神や仏にすがるしかなし、もう最後の最後の手段である。 私の体もそうである。 いかに非難や中傷をあびようともいかんとも仕方なし「かみひこうき」さんとも長きにわたり付き合い、3分の1でも理解して頂ければ。
 又、日本に世界に難病をかかえた人間も多数いる。 世界に人類が難病や障害が少しでもなくなるような日本に世界に向かい頑張り、数少ない人生只がんばるだけ。 
(2009年5月18日)


 阪神大震災に遭って、人それぞれの体験があると思う。その中の一人、私も被災者の一人であり、家は全壊。そのガレキの下で生き埋めとなり、その後ボランティアの人により助け出された。
 6時間後に病院に行くもたらい回しにされ、電気がきておらず、検査が出来ないという理由で、やっとの思いで須磨赤十字病院が受け入れて(1週間だけ)くれ、又も吉田病院、灘昭生病院と回され、救急車を呼びに来たが、その間も生きた心地がせず、激痛が走る(後に障害名:変形性脊椎症)。
 余りの痛さに動けず、風呂もトイレも這いずり回っていくほど。その後朝日病院〜西神戸医療センターと仮設から通院。これが3年間。そして2009年3月に伊川谷佐野病院通院中。車椅子、杖の生活が6年間続く。
 もうこんな人生最後にしよう。今日死のうか、明日死のうか、ベランダから飛び降りたら…しかし痛いだろうな?。電車、海へ飛び込み自殺、毎日そればかり考え、寝ていれば糖尿、肝臓が悪化し、度々入院(救急車で)。

 ある日奈良の友人から入信を勧められ、その度断り続けるも、 奈良から年1回(計4回)来てくれる。又、住宅でもMさんの再三の勧め。それも6年間で計20回ぐらい来てくれるも断り続けた。人を信用しなかった私でさえ人の誠意、熱心さにうたれ、2002年に入信したものの、熱が入らず。
 しかし座談会で人様の話を聞くうちに、不幸なのは私だけでない、自分一人が不幸をしょっているかの様に思っていたが、何と不幸な生い立ちの多い事か。それでも皆生きている事に一所懸命、自分の為、人の為に生きている。こんな話を聞いたり見たりするうちに、私ももう一度一からやりなおそう、そう60でも70でも…そう気が付く。遅くはない遅くはないと私なりやっと信心らしきもの、又人とのふれ合い、大切にしたい人とのつながりを離婚して20年以上もたった一人で生きている。
 誰も本心から語り合う事が出来ず、語り合う友もできず、今の友は御本尊だけ、それでももう一度一からやり直す。

 又、旅行というものもした事もない。一度行ってみたい所、死ぬまで一度でいいから。それにはまず友である一人でも多く入信できれば行ける。少しの勇気をもってすればこんな私でさえ自分一人ででも出来る。生きていれば出来る。誠心誠意をもってすれば。案ずるより産むが易し。
 ともすれば監督の座から降ろされるかもしれず、おそれていては何も出来ず、一度や二度ならずも出来ず、何度も何度も足を運ぶうちに子供すら監督と呼ばなくなる。それで監督が出来なければまだ信心に甘さ人徳なさ、御本尊に祈るしかなし。

 やっと今、平成21年(2009)人並みに精神的に生まれ変わる。人の為、自分の為(地震のとき助けてくれた人に)少しでも3分の1でもすれば、又自信が出来、自分の為にもなる。そして今は時折泣く。それはかつての激痛の中でなく、テレビの「アンビリーバボ」(奇跡体験)一人で見、泣きながらそれも嗚咽しながら、泣く。
 猫が不思議そうにじっと見る。年のせいか、人の痛み(それも今になって)が分かるのか、又子供が大好きである。もちろん人様の子であるが、中には糞ジジイという子もいる。それでも子供の相手をする。そう友達とは子供ぐらい。

 地震の時、生き埋めとなった時、助けてくれたボランティアの人は、今となっては捜す事も出来ない。激痛中、目はふさがり、回りの声も耳に入らず、寒さも感じず、だれが助け、誰が毛布を持って来てくれたかも分からず、ガレージの中でうずくまっていた(それだけはかすかな記憶の中)。

 今になり、やっと助かって良かった、生きていて良かった、そう思える。震災の時は毎日助かって良かったと思える日は3年間一日もなく、毎日が死の境目、何回何十回死のうと思った事か。今はこうしてみんなの元気な顔が見れる。又、会合で会える。まだまだ信心に至らぬ私ですが、以後よろしくお願いします。
(2009年2月28日)


 高齢者とは65才を境に言うらしい。 あと3年でいよいよ高齢者。 しかし、精神年齢は小学生と同じ。 いつも小学生と接しているからか。
 人から見れば、私は若いらしい。野球をしているからだろう。 しかし、本人は、肉体はもう限界に来ている。 腰は痛く、腕、肩。又、時折めまいもする。

 これだけ体を動かしているも(週3回・一日2〜3時間)、寝られず、最近の事は思い出せず、昔の、それも遠い40年も前の夢もよく見る。 夢というよりそう思い違い、朝4〜5時ぐらいまで続く。 もう体もボロボロに近い。 
 眠らないと体を動かすことがしんどい。 それでも野球をする。 地震で人生を失ったが、第二の人生がある。 第二の人生のお陰で、色々な出会いがある。

 しかし、最後は自分一人と覚悟している。 野球などスポーツができなくなった時、私は生きているだろうか。 そして生きていたとして、後は死を待つだけの人生か。 それでも生きてさえいればと思うことが出来るだろうか。

 阪神大震災の記録は永久に続くだろうし、語り継がれるだろう。 私の子も孫も又、今の小学生も震災を全く知らない人達が語り継ぐだろう。 その中に20万人被災者(障害者数十名)死亡6400人ぐらい。 その中にたった一人ぐらい(?)こんな被災後の人生を歩いた者がいた。
 小学校交通、防犯ボランティア、野球のコーチ、小学、中学ソフト、自身の障害者野球、還暦野球、川崎重工ソフト、障害大会陸上、卓球、陸上(100m走、立ち幅跳び、砲丸投げ、ソフトボール投げ)。よくもまあこれだけ10年以上もやってきたものだ。 自分で自分をほめたい。 国体で金4個、銀1個、中央大会では金、銀、銅数知れず。 60を超えるともう無理か。 しかしまだ野球がある。 最後まで野球が。

 宗教団体に参加中(本心の心にいつわりつつも)、いかなる宗教であっても、人が平和に健康に元気にいける事が大切。 又、無宗教であっても人は皆友達だ。
(2009年1月27日)


 「衣食住。よく寝て、よく食べ、よく働く。これだけと健康であるとして何より世界が平和である」
 これはある100才を超えた方のお話である。
 私は本当にその通りだと思う。 しかし、大半はこうはいかない。 天災、人災など色々な災害があり、避けては通れない。 中でも地震は人を変える。体験すれば尚更の事である。 私は体験を生かしているだろうか。

 今も尚スポーツに励んでいる。まだ出来る。 地震で家も仕事も体の一部さえ失った。 残ったもの、得たものは何か? 言うまでも無くスポーツである。これが私を生かし、生かされている。出来る限り、生きている限りスポーツをやる事が人の為であり、又、自分の為になっている。 これが地震で得たものであるが、あわなければ多分永久にスポーツはする事が無かったと思う。
 又、人様にお礼の言葉をかけてもらう事もない(子供や両親から)。 体を動かすスポーツ全体が好きであり、中でも野球が一番合っているのだろうか。 たった一言、「いつも子供がお世話になっています」と親からあいさつがあり、私は軽く会釈している。本心はどんなに嬉しいことか。 しかし、60を超えた私は会釈することが精一杯。それだけで又、この子たちが小学校を卒業するまで頑張ろうと。

 あと三年、二年、一年と月日は経つ。 数えて14年、阪神大震災からは、あっという間の年月である。 今私が生きて野球が出来るのは、14年前は夢にも思わなかった。 長い様で、あっという間の14年。これからも振り返れば、何年間、何十年間という時が、生きていれば必ず来る。 人は生きてさえいれば、いつか必ず栄光の時が来る。
(2009年1月7日)


   ミャンマーのサイクロン、中国四川省の大地震、又、日本の阪神大震災。いずれもその渦中にあって、動物、特に犬猫の安否がどうなっているか、それどころではなく、人間の命が最優先。しかし、その佳境にあって家族以上の存在(幸福な時だけでなくペット)。 今こそ人と共に助けてやれないものか。 この大災害の中でそんな報道はまったく聞かない。
 高齢者、一人者、障害者、子供達いずれも犬や猫を飼っていたと思う。

 今、5月23日、PM7時のニュースで、とても心温まる話があった。 四川省で196時間、犬が家族と共に生き延びた。 顔をなめたり、時々ほえて、人はそれによって生命力がよみがえり、196時間ぶりに助け出された。
 こうして動物には人と共に命をたくす。 動物は人間を見捨てない。又、あるテレビ番組では、人間に虐待され、脊髄骨折で下半身が全く動かず、自ら排泄できず、保健所送りとなるのは時間の問題という中、ある女性が助かり、世話をしているうちに人に従順になり、とてもなつく(まったくほえる事も出来ない)。
 やがて「犬用車椅子」をつけ、セラピー犬として活躍するチワワは1キロにも満たない小さな体で全国各地の障害者や病人のセラピーをする。 一方では被災地(避難所)には犬猫はいない。

 人間も同じくガレキの下であろう。 もし助け出されたら、自ら出て来たら、一ヶ所に集め、誰かが動物の世話をして、復興、再建出来るまで面倒見る。 そんな計画が現実にあっていいのではないか。 動物を愛する人間に悪い人間はいないと。 特に犬や猫は人間以上に人間が好きである。

 被災して10年以上経った今、心よりこうあって欲しいと願う。 今だ中国、ミャンマーの両被災地で行方不明がある。 一人でも多くの人達が発見される事を願います。 又、動物も一頭でも多く人間の下へ帰って来る事を願います。
(2008年5月29日)


 久しく便りもなく、どうしているかと。 61才になるも今だ子供達と野球をやっている。 まだできる。 そんな自分はスポーツが生きがいに思う。
 世間では「子供達のためにやっている」と。しかし本当だろうか? いや、本心は自分のためにやっている。 

 世の中数あるボランティアの人達、本心は自分のため、それが相手のためにもなる。 お互い思い合い、お互いそれでいいと思う。 まだできる、しかし、できなくなった時、気持がなえた時、それが急にやって来てグランドで死す病気。 病院で生きるしかばねとなるより、スポーツを愛する者はそれを望む。 いつかはその時が必ず来る。

 私をこうも変えたものは、まぎれなく震災である。 あれから14年目、一日たりとて忘れる事なく、今も少しの地震でもおびえる。 突然やって来る死は怖くないが、いつ来るか又あの時のような阪神大震災が再び起きようとは、思うたび14年間、それがスポーツに走らせたのか。 だから今自分があると思う。 命があるから、命ある限りスポーツをやる。

 地震が変えたのは私だけではないだろう。 大きく変わった被災者も多数いるはず。 地震が変えた人生、最近、本当だろうかと思う。ともすれば、それは運命だったのでは。6000人以上もの命を奪った地震も運命だったのか。 運命か災難か、それは誰にも分らないと思う。 

 今もなお世界各地で災害がある。 ミャンマーのサイクロン、中国・四川省の大地震。 中でも政治の混乱の中、救助ができないという。 被災者にとって政治も何もあったものでなく、ただ助けだけを待っている。 一刻も早く中国の学校の子供達の生き埋め、世界の人達の誰でもいいのではないか。被災者に国境はない。
 日本においても特に若者達、対岸の火事と思わず、又いつふりかかるか分らない日本に(地震の)心構えが必要である。

 若い力をもて余し、道を失う者もいる中、世界に目を向けよ。 引きこもっている時ではない。 これからの日本は若い力を必要とする。 どんな小さな事でも第一歩から始まる。 さあ、立ち上がれ若者達!
(2008年5月15日)


思い起こせば13年前、震災で生き埋めとなり、その後、助け出され入院、通院。 障害者なるも今だ通院の身。 今、阪神大震災を語る者少なく、小中学生も知る由もなく、風化しつつある。そんな子供達と今、野球をやっている。高齢者の仲間となった今も、腰や足が痛くともやっている。 

 週に2,3回私が行けば、顔を見るなり、やって来る。 私も顔には出さずともうれしい気持である。 この子供達は震災のことは全く知らない。親もしかり。学校とてしかり。
 この子供達がやがて成人になり、社会へ出発した時、共々に社会で助け合い、励まし合い、やっていけるのだろうか。 地震も災害も知らない子供達が。 しかし、家に閉じこもらず、夏の暑い時も、冬の寒い時も、私と野球をやる日々。 2、3時間。それだけでも、私も子供達も心が、精神面が解放的になる。 

 地震や災害は忘れた頃にやって来る。 私達大人が、社会人が積極的になり、ましてや体験者が逃げずに伝えてゆく、話してゆく。 備えあれば憂いなし。 いつかは分ってくれる人が、人類が助け合うことの大切さや苦しい時に、悲しい時に、つらい時に助け合うことのできる成人に。野球を通じてやっている。子供達は元気である。 大人が知る事もできない事を自由に発言する。 時にびっくりする事を言う。 スポーツを通じて何かを目指して交流する。

 もうすぐ「1.17」がやって来る。 13年目の冬、思い起こせば、私はこの年までよく生きていると思う。 この先いく年あるかは計り知れずとも、あの世へ行くまで子供達と野球をやっていたい。 震災で障害者となり、年も還暦を過ぎ、今だ通院の身なれど、手、足、腰が多少なりとも動く限り、スポーツをやってゆきたい。 それが残された私の人生、あとわずかな人生、悔いのない人生。 もうこれしか残っていない。

 阪神淡路大震災の犠牲者に心からご冥福を祈ります。
(2008年1月8日)


 何とか明るい話はないか、身の回りを見ても、日々の生活にあまり変化なく、そんな中、毎日近くの公園へ行く。
 18年中頃から同じように公園に来る仲間(?)が二人いる。二人共に年は70才前後で今だ名も知らない仲である。 しかし、会えばホッとする。互いに笑顔が出る。そして何のとりとめもない話が約1時間ぐらい続く。家は二人共すぐ近く。

 人間とは不思議なもの。名前も過去も何も知らない者どうしが「10年の友」の様な気がする。それでいいかも知れない。時に顔を見ないことがある。そんな時、もしやと思うが、また会えばホッとする。そして子供と動物が大好きである。成人より子供と動物(特に子供)の友が多い。よく子供達とクイズをやる。
 私が考えたもの、又、クイズ本で覚えたもの、子供達もクイズが好きで、「クイズのオッチャン」として、野球のコーチとして子供達に人気がある。又、動物も公園でよく見る。犬は私にすぐなつく。犬も私が動物好きだと分る。 子供も動物も、ウソも裏切りもなく、分り合える。

 未だいる少々デキの悪い中学生達、男も女も公園に時々来る。私にグチを言うため、聞いたところで、どうする事もできないが、アドバイスはできるし、話し相手にはなる。お互いそれだけでいいのだが。 もちろん名前も住所もお互い知らず、それでいいと思う。
 一人の女子は短大へ、一人は就職へ。 又、男子は高校へ行ったり、就職すると言う。働く子は「学校も家も嫌い」だから働くと言う。それはいい事だ。人生の第一歩もあせらずにゆっくり進め。 又、何か一つでいいから、自分の好きな事を見つけ、それに向かって行け。進学も就職も君たちの道。 思いっきり行け。私の話はそれだけ。

 今、震災が起きれば互いに助け合う事ができる。名前も知らないどうしが、これが地域のつながりと思う。日頃付き合いのない身内より頼りになる。
 私の心の底にそんな思いがある。あってはならない大震災、だがこれも体験者の備えのひとつ。この様なつながりでいい。多くの人達と心のつながりを持ちたいものです。
(2007年2月1日)


 とうとう60才。思えば長いようで短い人生。その中で震災を抜いて語れない人生。もし震災に遭わずば、こうして「かみひこうき」にメールを出す事もなかったのだろう。
 今、決して不幸だとは思わない人から見れば不幸だろう。しかし、本人は60才を迎えたという事は、生きている、そしてこれからも後何年残っている人生か分らないが、オツリの人生である。

 地震の事であまり話し合った事がない。もし我が子が震災に、災害に遭ったら、我が身も人も救う事ができようか。せめて我が身だけでも救えようか。親心あるが、子は親心知らず、まったく話をしない。正月すら帰っても、あまりいい顔はしない。
 もう10年以上も離れて暮らし、子は心が離れたのだろうか。しかし、親は子の事を10年1日たりとて忘れた日がない。もし、私が死ねば、誰が発見するのだろうか。3ヶ月も4ヶ月も骨になるまでこの家でほったらかしか。

 もう私の所も別れた妻も、子も、兄弟も、友人も何年も来ず、よくこんな環境で病とケガとたった一人で生きていると思う。何の為にと時々思う。ただ私の精神力が人並み外れているか、だから少々変人か。多分変人であり、精神力の強さがあるから生きている。

 そして春には「還暦野球」をやろうとする。体重も落ち、60キロから、今は50キロそこそこである。歯も抜け、髪も白髪だらけで、いかにも老人である。しかし、春にはまた野球をやる。

 もうすぐ「1・17」。12年目の震災日。この私でさえ、地震の怖さは12年間1日も忘れず、少しの音やテレビの「地震速報」におびえる。又「阪神大震災」がきたら、今度は助からないだろう。「1・17」は特にそう思う。私だけだろうか、こんな思いは。
 地震体験者の友がいない、知らない私だが、60年も生きたこの命、あと少し残っているかな。春はまだかな。今一度、桜のころに、我勇姿。
(2007年1月11日)


 今の少年少女たちは、どう生きるか悩んでいると思う。戦後生まれの阪神大震災を生き抜いた者でさえ、どう生き抜くかはむずかしい。それが10代で命を早める、一体その短い命に何があったのか。しかし、その小さな胸で死を覚悟する。そうとう悩み苦しんだに違いない。

 もし災害を体験していたらどうだろう? 災害とは悪い事ばかりではなく、人生の生き抜く力を又与えてくれる。生き抜いた者に生き抜いた喜び、又、命の大切さを。
 多分命を早める者(自ら)は、災害の体験はあるはずもなく、体験しようとしてもできないもの。だから色々な災害で生き抜いた人達の話を見て、聞いて欲しい。少しは為になる。

 学校で、友達から、図書館で、又、インターネットで写真を見たり話を聞いているうちに、自身が死のうという気がなくなる。先生も親も信用できないなら、自分の力を信じてやってみる。そこに命をかけて死ぬ前に命をかけて、何でもいい。災害の話でもいい、スポーツでもいい。自分の好きな事、やりたい事が何人(誰)にもあるはず。
 投げ出す前に命をかけてやってみる。 10年、20年、30年かかろうが自分の為にやる。何かにトライする、すればいつかきっと、「あの時、死なずによかった」という日が必ず来る。

 世の中、世界の中、人は自分の為に生きる。ボランティアとか社会とか世界平和の為とか、それは大義名分であって、本心は自分の為である(ひいては人の為になる)。
  もし万一このメールが読めたら、少年少女で万一の事を考えるなら、ほんの少し待ってみたらどうかな。死ぬ勇気は生きる勇気よりむずかしい。その勇気をもって、少々待ってメール見てね。

 さて、こんな立派話を言う私でさえ生きているのだから、まだまだ生に対しやり残している事がある。もう一度「スカイマーク」のグランドに立つまで。播磨の還暦野球チーム連絡先よろしくお願いします。
(2006年11月30日)


 久しくなくもまだ生きている。最近体の調子が悪く、もしや死が近づいているのではないかと思う日々が多い。 そのぐらい体のあちこちが痛く、特に腰が痛い。

 こんなに体調が悪い中、スポーツがやりたい。ただそれだけ。他にこれといった生きがいも無く、ただ命ながらえているだけ。自身が入れる野球チームを探すが見つからず、最後に残った「還暦チーム」のみが多少の望み。
 それもパソコンが無ければ探しようも無く、西区のチームのみ。もはや絶望、後何年やれる自信も無く、今しかない。

 ボランティアも少年野球も全部やめて、最後の還暦チーム。名前(チーム名と電話)だけでも分らないものか。
 今、人の心、子の心計り知れず。震災を乗り切って今ある命、それをどう使うか話し合った事も無く、地震体験者も何も語らず。又、人知れず一体皆はどうしているのか、この団地に多数いるはず。しかし、顔も話も聞こえてこない。

 以前はボランティア(小学・少年野球)を体を投げうってやり尽くすも、ただ本人だけ気持の空回り。時々地震の話をするが、一人よがり。何だか本当に疲れた。
(2006年11月6日)


 東横インホテル、18年2月2日オープン。神戸・三ノ宮のど真ん中。
 かつて11年前、地震で倒壊した街、そこに身障者をないがしろにするホテル。客室が満室とは一体何をいわんか。ある日、「身障者は泊まれますか?」ときく。ホテル側は「泊まれる」と。しかし、「入口で車椅子を降りてきて下さい」と。歩ける人間が車椅子に乗るバスもなく、入口からはって来いと言う。

 これが三ノ宮の地震のあった所にある東横インホテルで、客室が満室。阪神大震災で身障者となった神戸の人間をバカにして見下しているのか。今の世の中はお年寄りや身障者、特に電車や横断歩道で身障者が困っている時は助けてあげて下さい。マスコミ、小学校でよく聞く話だが、社会は心底助け合っていけるだろうか。

 今、トリノオリンピック日本選手の中にあって、女子フィギィアスケート個人の金メダルを見ていると、「勝った、やっと勝った」と日本でたった一つの金メダルに思わず涙が出た。年をとると涙もろい。同じ日本人だからかな。でも親はどんなに鼻が高いか。
 夏・東京オリンピック、冬・札幌オリンピック以後全部見ている。数々の思いがある中、金メダルを見て、選手を見て泣けてきたのは多分初めてだ。最近、暗いニュースが多い中、久しぶりに感動した。

 少年少女たち、日本人であれば誰もが感動する、その気持を大切に。子供達がスポーツに又自分の生きがいに向かって大きくなれ、身も心も。太陽の空の下で運動しろ。若き日に出来なかった事が今になって、60近くなって、「なぜあの時に」と後悔の日々。今も頭をかすめる。
 子供達は勉強やスポーツをやっていれば頭も体も疲れて、よく寝てよく食べ、それで十分。大きな夢も希望も満ちあふれ、自身がやる。
(2006年2月24日)


 2006年、一年の始まり。
 早いもので我が子もこの一月に成人式を迎え二十歳となる。震災を乗り越え、社会人の仲間入り。感無量のこと思う。離れて暮らすも心は通じ合いたい。でもあまり話はしない。親を必要とすることなく、自力で頑張っている。

 今の若い世代はすごい。フィギュアスケート、プロゴルフ、テニス、卓球、ボクシング・・・アマチュアでも野球、サッカー男女、特に女性の若い子にはびっくりする。
 本当にやればできる。生きて健康であればできる。未来、将来は限りなく明るい。子供達にはそれを託す事ができる。
 しかしながら今、世間では子供の自由が無い。親が学校が奪う。あまりにも子供達に災いがふりかかるから、災いを恐れるあまり子供の自由が無い、自立心が無い、そして家に閉じこもる。親は先が不安になりそう、子供は・・・一人っ子が増える。スポーツ人口も減る。

 来月(2月)には、あれほど反対した神戸空港が開港する。初めはその珍しさで人は行くだろう。しかし、いつまでもつか。三つの空港が狭い神戸沖にも飛び、大事故がいつ起きるかも知れず、国が決めた事は何が何でも押し通す。そのしわよせは国民に来る。そして又、ニートやフリーターが増える。
 今、子供、若者の先の不安から、ひきこもり、スポーツ嫌い、ニート、フリーターが増える。親も又、将来の不安からか一人っ子が多い。いつも同じことを言うのだが、こんな事で大災害(地震)が起きたら、心を一つにして助け合う事ができるのだろうか。
 今だ震災後の孤独死がある。誰にも見取られず、たった一人で死んでいく。哀れで淋しく悲しい。

 昨年12月28日、友人が死ぬ。毎年思うが、今年こそいい年でありますように心で手を合わせる。
(2006年1月10日)


 早いもので今年も後2ヶ月少々。 震災より10年は長いようで短い月日。明けて自分は59才で、又一年もすれば60才。老人の仲間入りか。

 気ばかり若く、しかし、体は気持についていけない。こんなはずでは、もう少し出来るのではと自分に言い聞かせてはいるが、やはり体がついてこない。やっぱり俺は老人かもと思う。我が子も年明けて20才になる。もう親の出番は無い。体力、知力ともついてゆけない。それでいいのだ。
 子は親を追い越す、たくましくなる。それでいいのだ。親は置いてけぼりでも。淋しいかな我が人生。

 病をおしてボランティアをする。何の為、子供の安全の為。地域でもう少し交流がある様、出来る様。いまだに我が身さえがよければいい、そんな姿勢が見えてくる。我が校さえ無事卒業さえすれば。
 昔の言葉に「親方日の丸」というのがあるが、知っているだろうか?上が国家なら下の者は「おんぶに抱っこ」。こんな言葉すら知らない者がいる。

 子供達は、ボランティアと先生の区別がつかない。無給と有給、どちらもいい大人でしかない。特にボランティアは何のためにいるのか? 学校で本当に子供達に分るように話しているだろうか。又、子供達の両親は何を考えているのか? いまだ顔さえ知らず。ボランティア精神とは何か?

 決して見返りを願うものではない。ほんの一言「ご苦労様です」、又、子供達からは「ありがとう」それだけでいい、気持が安らぐ。
  「遠い淋しい日暮れの道で、顔で笑って心で泣いて、叱った監督の心の声を忘れるな。 我がチームにきっと春は来る。 生きてゆこう、希望に燃えて、チームの口笛高らかに、このチームの進む道」 
 今は只、この子供達だけが心の支え。 希望に燃えろ、ミラクル少年野球団。
(2005年11月11日)


 この度神戸市障害者スポーツ協会から、来年5月リハーサル会場内定。又、このリハーサルで好成績ならば、11月の「第6回全国障害者スポーツ大会(のじぎく兵庫大会)」の道が開かれる。先は長いが、またひとつ生きる道ができた。年々体力が落ちる中で、一生懸命やらねば。

   人の人生とは、あらゆる人生がある。ある日突然の地震、そして助かり、障害者となり、全く違う人生を歩む。しかしながら毎日が今日は我死番であると覚悟するならば、物事に動ずることなかれ。いつも自分に言い聞かせている。

 今、小中学校で運動会が盛んであり、私も有瀬小運動会へ招待され、今年も行く。子供達は元気で、1年生から6年生まで元気一杯、ニコニコしてよく動く。日頃のイメージと違い、明るく楽しく、一生懸命にやる。特に1年、2年生は大変かわいく、心もいやされる。子供とはこうありたいもの。

 学校、家庭、塾と子供の自由を奪っていないか。日頃見た事もない子供達の笑顔。そんな子供達を見ていると思えてならない。学校、家、塾では最近の子供は、甘やかしていると聞くが、子供の中にあって、格差がある。
 「できる子」と「そうでない子」との差が大きくそれが引きこもりや登校拒否、すぐ休む子、引っ込み思案、運動嫌い。

 貧困の差とは金銭ばかりでなく、心の貧しさ、精神面のわだかまり、親子の絆のなさ・・・子供達の自由とは心の自由ではないだろうか。
 間違いなく子供達は、日本国を支える大切な子供達である。
(2005年9月30日)


 待てど暮らせど届かず。6月の「かみひこうき」が返送もなし。不思議な事がある。

   今、我が野球部に女子2名がいる。まだ小学校5,6年生の子供である。しかし、ずいぶん教えられる事が多く、感心する。人様の子供はこれほど難しいものだったか。我において子供すら正しく導く事が出来ようか。
 今、悩み、やや切なく身をもってして、この身が果てようとも好きな野球で子供達のため、ひいては自分のためと費やしているのだが、この心境を子供達にも言えず、言ったところで分るはずもなく、弱音を吐く監督と見られるのがおちだろう。
 人から見ればたわいの無いことか、何ともささいな事か。 しかしながら、今、我が身の出来事である。

 今、国内はもとより世界において事件、災害(ハリケーン、水害など)が多く、特にアメリカの水害は、阪神大震災以上とも聞く。又、力の無い者が犠牲になり、大国アメリカと言えど復興に数年かかると思う。
 日本の台風も今年は被害が少ないとあなどるなかれ。災害は何時来るか分らぬ。他人事と思うなかれ。

 話は最初に戻るが、「親の心 子知らず」又、「子の心計り知れず」 いつ離れていくかも。小学生の間だけでも中学生になれば、チームメイトであっても離れ、親ですら話をしなくなる。
 少年期から青年・青春時代、親はますます淋しくなる。人とは幸福に暮らしていれば、近親者とのつながり少なく、いざ何か起これば、親子や近親者は一番の助けになるのである。

 我が身においても今尚、腰やわき腹(を痛め)、体重の低下など不調ながらも今も「野球をするぞ」である。グランドでこの身が果てようとも、今、我を生かす道はこれしかない。 今の一瞬だけこの道を行く、ただ一筋に・・・
(2005年9月3日)


 先日、校庭で全員で1000名ぐらいの小学生に身の回りの出来事を話す機会があった。 じっと聞いている子、よそ見をしている子・・・先生でもない者が話す。それはどんな効き目があるのだろうか。それは「おはようございます」のあいさつから、人間の絆、人のふれあい、心の通じ合いが生まれるといった内容だ。

 先生にも子供達にもどんな風にとらえる事ができたか。子供達は人に先生に言われるから、あいさつする。多分本当の意味が分っていないだろう。それを先生がどう正しく導くか、又、家庭内であっても同じ事が言える。家でどれだけの子が両親とあいさつできるか。

 父は早く出勤し、母がいてもパートに行く時間が迫る中、父母どちらでもいいから「おはようございます」が言えるだろうか。親は子があいさつすると、少々てれくさいが、嬉しい。では親から積極的に言う。日常的にそれが家庭内の和の始まりであり、色々な話がしやすくなる。

 親子の絆は家庭から生まれる。そして人が家庭を通じ、ふれあいが生まれたら、万一の災害から助け合う事ができる。もし不仲であり、あいさつもできず災害があれば、当然、友人が優先になり、いくら身近にいても不仲であれば助け合いが遠のく。
 小学生には少々きついが、人の心のふれあいとは、こうして必要であり、人や先に言われるのではなく、中、高、大学生となってもますます必要になってくる。

 自分からすすんで人をつくる、友をつくる、家庭をつくる。そうすれば先生も親も友も世界に誇れる日本になる。あらゆる事件も人と人とが助け合い、それが平和の道、人類の進歩。

 幼き頃から学べば、きっと頭に脳裏に焼き付く。子供を人をこの紙面で簡単に言うはたやすいが、いざ現実に小学生から正しく導く。
 いかに大変でも難しい事が現に子供と取り組んでいる先生や親は毎日が休まる日が無いと察する。しかし、生まれて一生80〜100才、自ら命を絶つでなく、自ら命を生かす。
(2005年6月26日)


 ボクは電車の運転手。子供達のあこがれの職業である。事故直後、名も知らぬ何の縁もゆかりもない人達が共に助け合う、一人でも多くがそう願ってカミヒコーキに言い、又、テレビの中の必死の救出活動。日本もまだまだすてたものではないと思わず、テレビの前で涙を流す。

 何と多くの若い命が・・・本当に代わってやれるものならと。しかし、その当日に助けるどころか、イベント、娯楽、飲食にうつつをぬかすJR職員。人の心を持った人間であろうか。それでも子供のあこがれの職業か。

 今(5月10日)、JR職員にいやがらせが多くあると言う。そんな事で多くの命、又、これから未然に防ぐ事故、助かった人達、生き残った人達にとって何の助けにもならない。バカなことである。

 あまりもハイテクの一分一秒を争う生活。日本はそんなに何をあせっているのか。国民も日本のドンもあせっている。老兵達はそんなにあせらなくても、急がなくてもいいと思っているはず。

 せっかくあの阪神大震災から10年、何とか立ち上がり、元の生活の尼崎周辺と被災地。今、又元の生活に戻すには何年の歳月が必要であろうか。
   日本国は、あわてず、騒がず、もう少しゆっくりとできないものか。それとも日本人特有の気質だろうか。災害や事故がある度に過去の教訓が活かされているだろうか。

 教育もゆとり教育どころか今日の子供達は塾通いで忙しい。地域で事故の教訓、災害の教訓が話題にのぼらず、未だ「対岸の火事」である。これが地域周辺の現実であり、今一度我が身に起きる前に、107名様永遠にやすらかに。
(2005年5月25日)


<教訓>
1.弟や妹をよくめんどう見る事。
2.道具を大切にする事。
3.チームメイトは助け合う。 仲良くする事。
4.ボールは見つかるまでさがす事。
5.だらだらしない事。 やる気を出せ。
6.両親の言う事をよく聞く事。
7.監督の言う事をよく聞き、話がある時は素直に言う事。
8.冷茶を必ず持って来る事。
9.早寝(夜10時までに)、早起き(朝6時)を必ず守る事。
10.自分の健康(病気やけがなどに)は自分で気をつける事。
11.練習の時、必ず朝ごはんを食べて来る事。
12.宿題を必ずする事。
13.ボールを取ってもらう時、必ず「ありがとう」を言う事。
14.家でも「おはよう」、「おやすみ」を言う事。
15.練習の時、人に会えば、「おはようございます」、「こんにちは」を必ず言う事。
16.監督の話は絶対守る事。
17.「教訓」や「きまりごと」を守れない者は野球(スポーツ)をやる資格なし。いつやめてもいい。

 このような決まり事は、野球をやっている時だけであり、家や学校ではどこまで出来るのか不安であり、心配でもある。
 今又、世の中には何かの大事変か真にその時。九州での地震、兵庫県での列車衝突の大事故。あの阪神大震災を上回る大音響という。そして、地響き。

 仕事、スポーツ、その他色々な思いを乗せている列車、それが一変して地獄の列車となり、人生を、家族を何もかも奪ってしまう。ただ一つの救いは、同乗者がけが人を助け合うといった人間同士の思いができたこと。何も知らない者同士が助け合う。いかなる時もこうあって欲しい。 テレビではけが人や死者の数がどんどん増え、心当たりの知人、家族、会社その他もしやもしやといても立ってもいられないと察する。

 どうか最善の努力、救出を行い、助かる命あらば一時でも早くと今はJR西日本にかけるしかない。一命でも多く。
(2005年4月25日)


 友達ができず、家にひきこもる。そこには何か理由がある。好きな事ができない、勉強ができない、スポーツができない……それが何年と積み重なり、子供(少年)の何らかの事件が起きる。子供も人間であり、子供の身になって考えよう。

 今、野球(私が担当するチーム)で何らかの事情がある子が7,8人いる。中には女の子もいる。週に2回、共に野球をするが、その時の子供達は活き活きしている。家も学校も知る由も無いが、本当に楽しそうである。中にはバットもグローブも持たない子がおり、他の子から借りている。
 その子は親一人子一人で、決して裕福ではない。しかし、本当に野球が好きで、一生懸命やっている。元気であり、それでいいと思う。健康で五体満足、それ以上の宝は無いと、障害者であるからこそ、本心より思う。

 家庭が裕福で両親がいる子は、塾にも行き、野球もやる。野球用具は一式持ち、車で送迎してもらっている。これが大半である。勉強もそこそこ出来、何の不自由もない。 「うちの子に限って」は事ある毎に聞く話である。
 震災時に生まれ、地震を知らず、親も大きな被害を受けた経験が無い(神戸市西区では)。子供も大人も物質的な不自由なく、精神的にも不自由していないだろうか。もしあれば、子供は学校も家も、又、相談する友も無く、孤立しないだろうか。

 3月〜4月は、卒業式に入学式と悲喜こもごもである。特に入学式は楽しみで、どんな子供達が入って来るのか、親でなくとも嬉しい。その前に卒業式、思えばこの6年生は幼き頃(1年生)からの顔見知りで、さみしい気もするが、元気一杯に天高くはばたく。 そしてピカピカの1年生、中には入学前からの顔見知りもいる。この子供達とも命ある限り共に行こう、卒業まで。
 3月24日 卒業式  4月11日 入学式  神戸市西区・有瀬小学校。
(2005年3月16日)


 ふるからず小学校に縁があり、大人より子供の友達が多い。卒業式や入学式、その他色々なイベントに出る。 幸いにして神戸に小学校犯罪は聞かないが、楽観できず、いつも神経が休まらない。
 そんな中でも登下校ボランティアをしている。又、子供達もこの度防犯ベルを神戸市の子供が全員持っている。時の流れとはいえ、むなしい気もする。

 その昔は、味噌、しょうゆ、砂糖などが足りなくなった時、ごく当たり前の様に隣近所での貸し借りがあった。 子供も来て隣のご飯。隣も又家に来る。
 今はどうだろうか? 物の貸し借りをし、子供も大人もなく、その家でご飯を食べる。都会においては交流がなく、むしろ避けて通り、顔すら合わない様にするぐらいである。

 これが子供達に暗い影を落とす。親の勝手で子供が犠牲になる。それがうちの子に限って親の話。防災も防犯もうわべのキレイ事だけで、一部の人のみ集まり、あとの者は知らぬ顔。

 神戸が、日本が、いや世界が「心一つ」になる日はいつだろうか。時々むなしい気がする。個人の力では限界がある。いつもながら災害があってから地域のコミュニケーションとか、譲り合いとかである。これが昭和20〜50年代頃は近隣の親しき付き合いがあった。特に下町ではそうであった。

 平成に入り、「隣はどんな家族だろう?」多分そんな事は思わず、自己中心の家になり、それが災害や子供達への犯罪がある。世の中は欲求不満になっている。そのはけ口として、弱者(子供、女性、老人)が犠牲になる。防犯も防災も、人は全く違うと考えているのではないか。「共に助け合って、防ぐ」これが人の心のつながりと感じる。いつも同じ事を言わざるをえない。

 又、家にこもる子供が多い。年々スポーツをする子供が減り、野球もメンバーが足りず、チームが出来ない状態になる。子供を親の勝手にするな。子供に好きなスポーツをやらせろ。健康であればいい。
(2005年3月4日)


 10年やっと過ぎ、若くも年寄りでもない半端な命。後は少々のオツリの人生。今、こうして振り返ることができ、未来のない人生も見える。
 震災後、また前とよく夢を見る。思い出すこともできる。多くの人が人生観が変わったと思う。いい方にもそうでない方にもである。

 神戸には雪がない。しかし、豊岡や新潟は豪雪。特に新潟は19年振りの豪雪と言う。仮設の中、雪との戦いもある。想像をはるかに絶すると感じる。助かった者、命あった者は、亡くなった人の分まで生きてゆかねば。災害に遭い、被災者となり残った人の宿命。

 生きてゆきさえすれば、いつの日か命あってよかった、今日まで生きてきた。そう思える日が阪神淡路大震災の様に10年もかかるかも知れず、必ず来る。そう願ってやまない。
 スマトラ沖地震・津波では、今も尚死者が増え、身元確認もできないまま埋葬するとか。では残った者は永久に捜し求めなければ・・・

 今も尚、世界中で災害があり、人と人とのつながりがあって、再建・復興の道がある。日頃どれだけつながりが大切か。今、都会に災害あれば、人はどれだけ助け合うことができるか。不安一杯の中、いかなるいさかいがあろうと家族のため自分のため、助け合わなくてはならない。
 これがどの行政機関よりも早くでき、又、必要である。地域の大切さを分っていて日頃の付き合いが少ない社会。特に高齢者は一人で苦しみ、その命さえ自ら絶つ者もいる。妻なく、子なく、職もないとすれば、災害もまぎらすことができず、人は自分もすてる。 たった一人でこのような人生になると、ヤケを起こす。

 人々は、行政はこんな状態の中、災害あらば助け合うことができるのか。助け合うことができる根本からの人間の付き合いが大事である。いかなる人であれ最終手段は「助け合い」。オツリの人生を何とか生きまいか。
(2005年2月9日)


 日本国ですら、地震列島。2004年も、もう何(災害)もないと、そんな中、スマトラ沖大地震・津波。一日ごとに死者の数が増す。
 ただ一点の光は、日本が世界で一番早く支援、救助活動隊が出動。ただ自衛隊はどうしただろうか? イラクへ行き、日本が、世界が、ボランティア、軍隊を必要とする。日本において、世界の誰より地震と津波の恐ろしさを知る国民ですら、このスマトラ大津波は想像を絶する。

 阪神大震災の傷、心の傷は11年目で、やっと心から新年を迎えようとする中、大災害をテレビの中でしか知る由もないが、日ごとに死者数が増えるのには身震いする。災害とは万全の備えある所ですら、一度起きれば甚大な被害がある。まして何の防災、備えの無い所ならば大惨事である。それが特に子供においては大多数の犠牲。

 我が身においては手助けも出来ず、歯がゆい思い。災害の体験者は少なからず哀しさが増す。だからもう体験したくない。
 今回の体験者は今から復興、いや救助活動などの生活。何も考え付かずに呆然としてしまう。だからこそ周りの人、ボランティアら、人の心の支えが絶対に必要である。事はそれからだ。

 新潟中越地震、京都府・兵庫県(水害)の被災地では、正月どころではないだろう。 しかし、せめて子供達だけでも正月らしくあって欲しいもの。又、戦争とはいかなるものも破壊する。人の心でさえもである。スマトラ方面の被災地でさえ、国内の紛争があると聞く。被災地でさえも戦争する世界、「世界人類の平和」とは先進国の遠吠えか。

 1・17阪神大震災、新潟県、兵庫県、京都府・・・本来は災害記念日などあるべきではない。しかし、本心から戦争を上回る惨事がある事を肝に銘じて、子供達に日本の将来を託す。か弱き者に救いの手を願ってやまない。
(2005年1月6日)


 「おはよう」、「おはようございます」誰でも言える一言、この一言がどれだけ大切か、大人も子供も心の底から分って欲しい。小、中、高、大学、社会、そして避難所生活の中、一日の始まりが全てこの「おはようございます」。特に避難生活の中は、お互いの心の交流が一番。この一言で一日が始まる。
 交流があって復興の道がある。個人が交流がなくて復興が始まらず。被災以前より仲間意識が強くなったと感じる。

 連日、避難生活の様子がテレビから流れている。この現状を今、子供達はどのように感じ、又、防災とは何かを学校で教え、親や行政は知っているのだろうか。少なくとも被災した子供達は十分分っている。だから避難生活の中、子供も大人も「おはようございます」から始まり、心が通じるのである。

 被災地以外で「おはようございます週間」がある学校や社会もあり、その時だけ、指導者も子供も「おはようございます」と何度か言っている。しかし、その期間が過ぎれば、言える子供も大人も少なくなり、指導者とて何も言わなくなってしまう。親も指導者も子供に遠慮している。
 もっと人間同士として、心の底から助け合うべきである。行政も指導者も親も地域と一体になることが必要である。
 国民みんなが生活がかかっている中、(災害が)いつ来るとも分らず防災と「おはようございます」の一言が学業に仕事にスポーツに・・・

 災害(地震、台風等)や事故は来ないにこしたことはない。しかし、誰にも分らない。 地震国日本は、ぜひ必要な防災を今一度見直すことが必要。被災してからではなく、「おはようございます」の日頃の交流が、万一の時に助け合う力となるのである。
 文明の利器が発達した世の中ではあるが、それを活用するのは人である。間違いなく、正しく活用すれば、防災も予知も文化交流の発展につながるのではないか。
(2004年11月23日)


 台風と地震、よもや大地震が起きようとは…台風は来ると分かっていながら大災害。しかし地震はいつ、どこで起きるか誰も分からず、突然来る。そして地震国日本列島はどこであろうとも不思議ではないのだ。

 地域とのコミュニケーション、何回質した事がうまく出来ただろうか。そんな中、今回行政の手回し手順は早く、余震続く中、懸命の作業が行われた。崖崩れの中、母子三名の救出。地震を体験するも、同じ思いは二度と体験したくないもの。とはいえ、いつどこで起きるやも分からず、心してゆかねばならない。

 今、何が出来るであろうか、自問自答する。小学校のボランティア(交通・防犯)しているとはいえ、こんな事するぐらいなら、豊岡や新潟で助けに何とか行けないものか。無理である。通院とボランティアをストップしては体がついてゆけない。今一度、10年前の地震の時助けてもらい、病院まで連れて行ってもらったそのボランティアの人に心から感謝する。

 どこの誰とも分からず、激痛で目が開けられず、生死の中をさまよっていた。今でも誰とも分からず終い。しかしその人は覚えていると思う。万が一目に留まれば、かみひこうきで本名を出しているこのメールが届いたら、心からありがとう、感謝いたします。

 今、豊岡や新潟にこのかみひこうきが目に留まるとは思わずとも、いつの日か誰か必ず見る事がある。そんな時、体験者としてただ一言、がんばれなんて言いません。がんばれといえば、出来ない時に非情に聞こえる。出来ない時、人は人に言われると余計落ち込む。ただ一つ生き抜く事だけすれば、必ずやいつの日か生きていて良かったという日が必ず来る。そして今が大切。
(2004年10月27日)


 今夕、台風の傷さめやらぬ中、南の海上はるかかなたに23号が発生。それる事を祈るばかりである。 地震、雷、火事、台風。 中でも地震は一番怖い。

 今年もあと2ヶ月少々、そして年明けて「1・17」が来る。多分各地で「記念会(?)」の様なものが開かれると思う。その行事に参加する人はたとえ被災者であっても、今は生活も精神的にも少しは楽になった。少しでも元に近い形になったからこそ参加できるし、自分もそうである。中には「10年も経って何を言う」そんな人もいる。 被災者でなければ他人事のようである。

 地域のつながり、コミニュケーションは出来ている所と出来ていない所がある。独り者(特に高齢者、障害者、病人など)は孤立している所もあり、もはや「世捨て人」となりつつあり、何ともわびしい。それでも懸命に生きようとする。そんな中、来た台風。上陸すると分っていながらも甚大なる被害がある。何故だろうか。

 「裏山が崩れる恐れがある」と行政に連絡するも、その行政は「今のところ大丈夫」と言う。住民に危機感があるにもかかわらず、住民でない行政が「大丈夫である」と。 結果は、家は全壊し、裏山は崩れ、死者、行方不明者が出た。
 時を同じくして豊岡市(兵庫県)は円山川、舞鶴市(京都府)では由良川が決壊した。ともすれば地震以上の被害である。
 今、全国からのボランティアと懸命に復興中で、一日も早い復興と子供達の健康を祈る。

 他に動物好きの人にとって少々気になるのは、各地ともペットの安否、生存がどうなっているのか何の報道もない。人間が生きていくのに(水、食料の確保に)精一杯、それどころではないと。しかし動物も命あるもので、家族同様にしてきたはずである。
 色々な問題が発生する。それでも一生懸命生きていくしかない。
(2004年10月17〜23日)


 相次ぐ地震、今尚ドキッとするし、あわてる。団地の隣近所は知らぬ顔。怖くないのだろうか。又、エレベーターが止まり、中に人がとじこめられていないだろうかと思い、見に行く。私だけである。自治会の役員は、会長はじめ10数名誰一人として(エレベーターに)見に行かない。又、病人、高齢者、一人暮らしの者の安否を気遣っていない。

 あの大地震以上で全壊、倒壊で多数のけが人が出た場合、どの様に助け合う事が出来るのだろうか。10年(地震から)の年月がこうしたのだろうか。地震に限らず災害はいつやって来るのか、備えはあるのか。物だけでなく、人と物のつながりが大事ではないか。

 この度の台風18号は、一週間も前から分っていて、甚大な被害があった。学者でさえも分らぬ地震、何とも頼りない。答弁を聞いていると、不安な顔、笑っている顔・・・
 そんな態度で「南海地震とは関係ない!」と言っている。自然災害に断言は出来るはずがない。来るとか来ないとか国民はいかなる公共機関であれ、頼らざるをえない。 時が経てば元の木阿弥か。被災者は生活を立て直すのに懸命である。

 95年以来、心のより所は「オリックス」であった。まだイチローがいた頃だ。あのオリックスはどこに行ったか? ファンと一体になっていたオリックスは強く、我々も心強かった。あのオリックス(「がんばろう神戸」を合言葉に)は今、大変な中にある。時の流れに勝てない。

 もうすぐ小学校の運動会がある。日頃の練習の成果を精一杯に発揮し、頑張って欲しい。 運動会は楽しみである。もう台風はごめん、当日の晴天をただ祈るのみである。
 ただ少々気になる事がある。それは子供達がよく風邪をひいたりケガをする事だ。又、肥満の子も多い。スポーツに勝つ事より、自分の体に勝ち、自分に勝つ事が大事だ。がんばれ神戸っ子。
(2004年9月17日)


 地震国、そして台風。特に台風は分っていても甚大なる被害がある。今年は特に台風の当たり年か。後で聞く話は私だけはならないと思うも、まさか私達が被災者とは。

 台風に限らず、地震、水害、水難、事故・・・そこに防災は有ったのだろうか。完全なる防災はない。一人が、十人が、そして何千、何万の人が防災に対する認識を必要とする。それには地域、市、県、国が一体となること、又、一つ一つの情報が大切。最も早く伝わることが必要。
 いつも思うが、連絡が少ない。災害が起きてからあわてる。又、石油と共に国内の野菜の価格が値上がりする。

 そんな中にあってオリンピックの激闘。国の威信とか名誉と言うが、そうだろうか? 一番勝ちたい当事者である選手がいて、周囲が成り立っている。勝つと思っていた選手が負け、あまり期待しない選手が勝ったりする。それが勝負の世界である。
 勝てば「金(一位)」だが次は守るだけ。しかし、負ければ次に「金(一位)」がある。勝った時より闘争心がわく。常に追う方がいい。

 一個人としての考え方だが、被災者にとってオリンピックどころではない。生活を立て直すのに一日一日精一杯である。そこにスポーツの入る余地はないのだろうか。スポーツを通して心を一体化すれば、親近感がわく。防災も助け合う事ができる。もちろん被災者も助け合う。何にでも通じ合う心が必要。これが無ければ防災も難しい。

 防災だけに片寄れば、我関せずもあるかも。スポーツとは何か?それは心のよりどころ。これを通じ、防災と一体化するオリンピック。スポーツと防災はきっとうまくいく。一市民もスポーツで体を鍛える。何かにつけきっといい事がある。
(2004年9月1日)


 暑い、エアコンの無い我が家は特に暑い。猫も暑さにまいっている。その中にあって子供達は元気一杯。特にスポーツをする子供達はそうである。
 人間は何かを、特にスポーツをしていれば、いい友達も出来、体も出来、自分に勝つことも出来る。

 いつも言っている事だが、スポーツをする子供が年々少なくなっている。その昔はチームに入れない子供がいるほど盛況であったが、今はメンバーが足りず、小学校は6年、5、4、3…と3チームが原則だが、6年と5年が足りず、上級生チームができない現実になっている。

 親は先生は勉強に力を入れる。それが塾通い。果たしてそれだけが子供の未来か?将来限りなく夢有る無限の力ある子供達にもっと無限の力を伸ばしてやりたい。それがスポーツの道であってもいい。
 子供達を自由にしてあげたい。自由とは子供だけではなく、我々大人達にも言える。自分の殻に、自分だけの世界にいては、それが知らず知らずの間に子供の自由を奪っている。

 多分どの家も両親も「私の子供は自由にしている」と子供のいいなり、親のいいなり。本当の自由とは、自分だけの世界にしてしまわないことである。人間は地に天に太陽になじむ。本来そうあるべき人とのつながり。
 あらゆる境遇において前向きに生きていて人間をやっていて、本当に良かったと子供にも教えたい。話だけではなく、それはスポーツが一番の近道。

 還暦も近く、障害と病だらけの人生。又一からやり直そう、又一からやり直そう。震災後のように、いや、地震は数年経ってからであった。今は一からやり直そうと思っている今日。
(2004年7月11日)


 先日、胃潰瘍(いかいよう)なるものを初めて患った。以前から激痛が数回あり、辛抱の末ようやく病院に行った次第である。男とは痛い目をせねば病院に行かず、厄介なものだ。
 5月14日に入院、その後5月23日に退院。まだ全快とはいかず、それでも退院後すぐ、野球をやる。我ながら呆れる。

 この30日、「神戸市大会」で、立ち幅跳び、ソフトボール遠投に出場する。本当の「スポーツバカ」である。
 退院後一週間で依然体調すぐれず、気分もめいる。身の回りの要は外見からは何ら変わらないように見える。よかれと思ってやる事は、ボランティア(各部門)だが、やや頭打ち。

 いよいよ30日、大会へ。そして結果は第一位。ソフト投げは前年より5メートル短く、それでも33メートル30センチで優勝。又、立ち幅跳びは2メートル9センチで、これも優勝。さほど練習も出来ない中、まっ、これぐらいが取り柄か。確かに年々体力は落ちている。あと何年やれるか先の事は考えたくないが、確かに老いている。

 最近、子供達がよく手足や肩の骨を折る。いとも簡単に。野球、サッカー、又は遊びの中で……親はびっくりしてスポーツをやめさせる。やるからには多少のケガはつきものと言っているが、骨まで折れとは言えない。両親に任せるしかない。
 しかし、本人(子供)がやめるならいたしかたないが、本人の声を無視して親がやめさす事は、本人(子供)にとってかわいそうであり、それが上級生になっても何らかの障害になりはしないか。

 日本社会の中、特に小中学校に問題がある。もしバスケットボールをしていたら、スポーツをしていたら、そう思わざるをえない。無念である。
(2004年6月7日)


 日本はいい国。本当に日本に生まれ、日本人であることを誇りに思う。又、それも人それぞれ、人としての道があり、それを忠実に生きてこそと感じる。
 60近くなってもいまだ勉強の道、特に幼き児童に教えられる事が度々ある。子供とは思った事をすぐに発言することがあり、我々もびっくりする。

 もう10年を数える震災1.17。我が周りにおいて日々人生をまっとうする少年野球のコーチや小学校防犯。それに自身のスポーツ、通院もある中で子供達といれば暗い過去はない。 今だから言える、今だから話せる。
 たった一人でよくぞ今日まで、しかし、まだ先はある。時として途絶える時もある中、またやり直そう、もう一度やろう。もう一年やろう、そう思って10年になる。

 あの地震から共に暮らした猫が平成14年11月死亡。以後、友人に子猫をお願いし、ようやく翌年4月2日に待望の子猫(名前・チビタ)が来る。精神的に和らぐ。しかし、何とも手間のかかる子猫、またそれもいい。小さな命、共に暮らそう。 

 この5月30日、神戸市障害者大会がある。 そのため少々ハードなトレーニングをし、やや体調不良。出場する各場の遅れを取り戻すべきこの4月と5月である。やり過ぎで食も入らなくなるほどでも、出場の覚悟。
 出るからには必ず勝つ。 この次に晴れて「勝ちました」と報告したい(チビがじゃまをする)。
(2004年5月20日)


 卒業、入学、春。真夜中、我、身も心も晴れやかに。一年が始まる。  又、子供達(一年生)とうまくやってゆくのは大変な事。まして担任から校長に至るまで、苦労もありなしと。

 西区は神戸で最大の街(人口24万人)、はたして子供達は何人ぐらいだろうか。その大半が兵庫区、長田区の子供である。新一年生は震災後に生まれた子供達である。両親、若い人達は震災を乗り越えて、我が子が入学する。感無量だと思う。行く末万事なし遂げるであろう。せめて日本国内安全都市でありたいものだ。

 時を同じくして、イラクでは3名の人命取引。以前にも増して政治の事は分からないが、命の事は分かる。自衛隊は軍隊ではない。人助けのためのイラク駐留なら、もちろん日本人(人質)の救出もいる。たった3名を何故できない。本当に国民のための自衛隊か!(このメールが着く頃、3名は救出されているかも)。
 依然不透明で、国民はもとより、その家族はいてもたってもいられない気持であろう。今こそ日本のあるべき姿、姿勢をはっきりすべきである。

 又、国内では、オリンピックの時、万全を配してあたるべきである。この時、この瞬間を日本が世界が待っている。
 イラクでの3名救出と共にオリンピック、震災行事の無事成功を祈っている。
(2004年4月15日)


 鳥インフルエンザ、兵庫県の職員が笑いながら対応。又、その夜、坂口厚生労働大臣が「牛やら鳥やら、モーケッコー」と話し、記者から笑いが・・・何とおそまつな。これがあの震災の神戸か?嘆かわしい。兵庫県民、いや全国民を馬鹿にするなと言いたい。その一方で兵庫県の会長(養鶏協会の)が自殺。これほど事が大きくなるとは、何事も深刻化してから行政があわてふためいている。
 もう対岸の火事ではすまされない。おそらく兵庫からの卵、鶏肉は坂口大臣のシャレではすまされない。これが震災ならどう対応するのか?

 今の時期、明るい話題は少ない。依然被災者との交流もない健常者、障害者の集いはこの春から各地で行われる。なぜ被災者は表に出ないのだろう。隠すわけではないが、自分から言う人はいない。「今頃、今更何を言っているのだろう」これはある行政の声である。そのような事言われるなら、話さない、忘れたいというのが本音か。

 今、手紙を書く人が一体どの位日本にいるだろうか。時々友人に手紙を書くが、返事は電話である。若者はEメールである。日本人は手紙を書くことが出来ないし、国や行政も奨励しない。全て携帯電話で事足りる。その先端はインターネット。老兵は消え行くのみ。なんと情の薄いことか。

 まぁともかく卒業・入学シーズンで和気あいあい、少々うれしいような淋しいような、あの子もこの子も中学へ。しかし又ピカピカの一年生が来るのは楽しみである。たくさんの孫である。手なずけるのに手を焼くが、又それがいい。淋しがっているヒマはない。老い先短いが、これぐらいが生き甲斐かな?

 文句不平不満を言わず、我が人生を全うする。20万人被災者の中にこんな不思議な人間もまだ生きている。これからも精一杯生きる。
(2004年3月11日)


 今、懸命に生きる事の難しさ。小学生の登下校の安全確認ボランティア、中学生へのソフトボールコーチのボランティア、公園での少年野球のコーチ……老い先短い命を懸けてやっている。子供のため、自分のため。

 生かされた命をどうやるかである。震災後助かった命を。助かった者でさえ、生きることの難しさを感じる。本当に自分のやっている事が役に立っているのかと。見返りなど求めないが、一言のお礼もない。それなのに、何のため中学へ出入りしたり、子供に野球を教えるのか。
 周りの大人は黙って見ているだけ。又、子供は不思議そうに見るだけ。しかし、ほんの一握りの子供達からは、「明日も来てね」の声。大人にも頭を下げる人がいる。そんな時は「ああ、やっていて良かった」と思うのである。できれば数人の子、大人達が今、自分達が出来る少しのことでいいから「世の中にこんな人もいる」という認識を持って欲しい。

 この西区で震災や災害に無関心の多い中、いつの世に神戸にこんな大地震があり、その子供達が今の神戸を作り、日本の大都会にしたことがわかるのか。震災を乗り越えて懸命に生きている子供達がなしえた自分の人生に、自分の子に誇りと勇気を持って、生きていく事の大切さを、神戸の震災後10年、20年経っても話していけるか、西区に限らず日本が世界に示す勇気である。
 今までもこれからも「かみひこうき」で大人が、いや子供達も少年達も歴史の一ページをいつまでも教訓とし、後世に伝えゆくだろうか。そう願いたいものである。「かみひこうき」から知り合い、今、良き友、良き理解者と月一回の手紙のやり取りをし、お互い手や指が動く限り続けたい。

 多分人生最後の夢、オリンピック発祥の地ギリシャ・アテネよもや出場??? 命果てるとも夢叶うなら。まああまり考えず、運を天に任せるようになる。人生成せば成る、何事にもストレスを貯めずに……。
(2004年2月17日)


 この1.17。限りなく少ない数字の中に人生のドラマ、人それぞれの想いがある。 9年〜10年目になる。
 その中の一人、今こうしてペンを執る、書ける、生きている。明日も来年も、先の事は分からない。しかし、今こうして生きている。あの1.17を乗り越えて。
 亡くなった者、助かった者、そこにどれだけの違いがあるか。助かった者は日頃災害に備えていたか、又、亡くなった人達は備えが十分ではなかったのか。

 いずれにしても災害を他人事とはとらえない。人との和、つながりが最も必要とされる。ありとあらゆる生活物資の中、日本から先進国人類の人の和、主義主張の違いから人の和は薄れゆく。その時世界のどこかで災害(地震)がある。そして当事国はあわてふためく。この時人類の和があれば、あわてふためく事なく手を取り合うことができる。人類を超えて。
 しかし、現状はどうだろう。高齢者が目立ち、若者の姿がない。あの1.17当時の小学3,4年生が、今は17,8才で今春卒業し、就職、或いは大学などへ進む。多くの若者がいるはずである。災害(地震)あらばこれら若者が中心となり、又、その体験を生かし、活躍して欲しいものである。

 震災後遺症の中で最も厄介なのが、大人の社会復帰の拒否、会社、病院、人と会うこと、又は生きることへの拒否ではないか。人生の半ばを過ぎ、老人でも若者でもない者、震災に限らず手の付けようがない(精神的な)大人のその多くが酒におぼれ、中には自ら命を絶つ者もある。言うまでもなく一人身であり、救いようがない人達と本人が何事も避ける時、周りの人達はどうしようもない。これが現状である。
 まして震災、戦争、病、無関心の中、もう一度生きている限り、今自分は何を目的とし、自分のため人のため何をすべきか考える。それがいつかいい結果を生む。人間として最後の務めをしなければならない。それが先に亡くなった人達への供養にもなるはずである。
 今一度、若者も高齢者も日本の国民が自分のため、人のため立ち上がれ。
(2004年2月23日)


 「慟哭」つらく悲しい言葉である。人はたかが猫と言う。しかし、震災後共に8年過ごした友人である。

 11月26日午前11時過ぎ、我が手の中より最後のささやき。猫の耳元で「頑張れ、苦しいか」俺にはさすってやることしか出来ず、早く楽になれと。4日前、動物病院で注射と点滴をして、やや持ち直した気がしたが、やはり無理であった。私の最後のささやきの中で、僅かに首を上げ、私の方に顔を向ける。その悲しそうな顔生涯、忘れる事はない。
 あれだけ私のそばを離れずベタベタしていた猫は、最期の時、人から離れ、奥の部屋で一匹だけになり、人も寄せ付けなくなる。それでも一昼夜そばにいて、最期を看取る。風邪をこじらせ、肺炎で死。動物も人も病死はつらく悲しいもの。

 又、災害、戦争、事故。災害は人類に与えられた最大の試練である。日本が、世界が災いの中にあれば、いついかなる時も試練を与えるかも知れず、いつの世もかよわき者にふりかかる。
 1・17は誰もが忘れてはならない時である。しかし、何千何万の人が関心があり、その家族や家畜はどうなったのか当事者でさえ風化しつつある中、社会の人達の心の中にあるのだろうか。
 特に国のトップの者は被災者とは何か、どのような者か、真剣に考えているのか。先のイラン大地震では35000人以上が亡くなり、23ヶ国が救援隊を送った。中でもフランスは一番先に到着、日本は一週遅れ。それが隣のイラクへは自衛隊が行くことを早々に決定。

 このことを日本人以外の22ヶ国の救援隊の人達は、日本は一体何を考え、何をしようとしているのかと思うだろう。政治とは何か。国民が何事にも無関心になりつつある我が国は「夢遊病者」である。
(2004年1月7日)


 一国民が叫んでも声は届くだろうか、知らないだけで、社会は防災連絡網は出来ていると。しかしこの8年(震災後の)、一回の防災訓練もしたことがない。又、自治会からの連絡もない。私もこの団地で一回も見たことがない。全国のどこかでやっているが、現実には少ない。

 あるテレビ局のクイズ番組で「雲仙・普賢岳は何県にあるか?」という問題があったが、タレントは全く分からず、私は愕然とした。雲仙(長崎)、奥尻島、阪神大震災と続く日本の歴史の中の災害である。日本国民で成人であれば、誰もが知っていて当然のことと思っていたが、10年以上の歳月で風化するのか。

 又、その中にあって犬、猫などの動物はどうなったのか。人間様も大事であるが、犬、猫を飼っている人達は想像以上大切に飼っているのである。血のつながりこそないが、家族、自分自身以上に大切に育てている者もいる。

 我が家にも猫がいる。震災後に飼い始めて、もう8才になる。人間なら40〜50才だろうか。今、風邪をこじらせて20日間えさも食べず、寝たきりの状態で、今日明日の命である。
 思えばこの8年間、共に生活し、いつも私の腕枕で寝ていた。家を出る時はいつも見送り、帰ると「ニャー」と入口まで迎えてくれるたった一匹の友であり、分身とも思っていた。その猫がもう虫の息、見ているのも哀れで、安らかに天国へ行って欲しいものです。

 私も天国へ行きたいが、人間であるが故そうもいかず、これは私ばかりか動物を飼っている者はこんな思いだろう。震災でこの様な運命になったと思わず、人にも動物にもやがて来る運命と思っている。人も動物も限り有る命を大事に一日一日を精一杯生きたい!!
(2003年11月26日)


 久しく便りなしと、我が人生も震災・地震を避けて通ることが出来ず、心に重く残るも1・17が近づくと、一人で多くの人達に防災を意識すると、人生こうも変わる。身の回りの事、体の事、生活面などあらゆる事に関心が集まるものだ。自分だけでなく、他人の事もである。

 一人でも多くが防災、防犯、生活面に少しの気配りがあれば、地震も生活面も人と人とのつながりが出来る。それはまだまだ見られず、特に都会ではそうだ。そんな面が多く見られる下町では、隣同士のコミュニケーションがあるのだ。醤油、砂糖、米等がないと、隣に借りたものだ。そんなささいな事から心が通じるのだ。
 都会の中にいれば、何十年過ぎても、朝の「おはよう」の一言もない。こんな都会で大地震が起これば、人は助け合うことが出来るのだろうか?地中の中から助け出された私は心底思う。阪神大震災以後も全国で、世界で地震が起きている。

 防災の意識を高めようと、防災訓練が各地で行われているが、その中で人と人とが助け合う訓練がなく、最新の科学をもっての訓練である。日頃、人と人とが助け合い、コミュニケーションをとり、それが子や孫の代まで、いや、いつまでも続く人々のつながり、思いやり、それがなくて本当の防災は出来ない。
 確かに不況と生活の不安のある中、人のことどころではないと我が家、我が家族が大切というのが都会の現実である。しかし、こうして警鐘を鳴らす1・17が永遠にある限り、話していかねばならず、人は石垣、人は城。防災とは人と人とが手を取合って、なり得るものと信じる。
(2003年10月21日)


 毎日が何の変化もない生活。医・衣・食・住に不便なく、これ以上何の望みがある。しかし人の主義主張の違いは恐ろしいものがある。震災の時には並んで水・食料の配給をもらい、共に避難生活をし、仮設から住宅へ、一喜一憂したもの。

 これがイラク難民に今起こりつつある。しかし大きな違いは地震と戦争、又文化・考えの違い。米英、イラクと一歩も譲ることなく果てしなく続く泥沼の戦い。それが連日マスコミで放送されるその中、日本のテレビ番組では不景気はどこへやら?高額な賞金・商品が提供されている。中でも一番目を引いたのは料理番組。

 日本人は気がついているか?よくあれだけ毎日朝から深夜まで家庭料理からグルメ料理が…どこのチャンネル回してもやってない局はない。有名タレントを使い、賞金まで出してのグルメ番組。いやそれだけでない。高級ブランドに高級車も…。
 他国のことはよく知らない。しかし少なくとも日本社会は、大半の国民がそれを不思議に思わない。中には生活に追われる家も会社もあろうが、ほんの一部である。食だけでなく、娯楽にしても本当に不景気なのか!!人は懸命に働き、その見返りに人々の生活や娯楽趣味がある。

 戦争にどちらの善悪もない。かつて昔日本が戦国時代には奔走していた。個人が3人4人殺めれば死刑。しかし軍隊が何万何千殺めれば英雄になり、一国の主となる。それが今も米英・イラクにある。が、もはや日本はその道を行くまい。悪の歴史は繰り返してはならぬ。

 今の少年青年はしっかり大地を踏みしめ行かねばならない。自分の意志をしっかり持って。非行などやっているヒマはない。まして自殺や道連れ自殺など、たかが20年や30年生きて自ら死を選ぶ。その本人にとっても死を持っての精算なのだろう。
 生まれて生きる喜び、又生まれて生きて行く苦しさ、つらさそれもこれも生きているからこそできる体験。これからも幾多の艱難辛苦が待っている。地震も戦争も人は、人々は乗り越えて行かねばならない。命ある限り…。
(2003年3月30日)


 石油とはそれほど重要なものであろうか。人はかつて地下水とローソク、薪、炭で暮らし、今もそんな国がある中、先進国がゆえ、石油が国家、国民の繁栄と重要な物であろう。しかし、人殺しをしてまで必要か。
 戦争は理由も分らず反対でない世界で、唯一の被爆国日本であればこそ反対であり、いつの世も子供や女性の弱き者の悲鳴が聞こえる。

 又、過去にソ連(ロシア)のアフガン侵攻、湾岸戦争があった。特に20年程前のソ連によるアフガン侵攻により、オリンピックは日本をはじめ多数の西側諸国が不参加になり、ソ連とその同意国のみでの開催となったことを思い出す。オリンピックに向けて、ただひたすら練習に励んできた選手達の落胆ぶりは、今もはっきり覚えている。
 今回はヨーロッパで行われるスポーツ大会のほとんどが中止となっている。特にアメリカ、日本、韓国と中東でのスポーツはない。メジャー開幕も日本での試合は中止が決定。これからも中止となるスポーツがあるだろうが、来年のアテネ(ギリシャ)オリンピックまで引きずらなければいいのだが。

 日本はいつになったら一人歩きできるのか。「寄らば大樹の陰」悪く言えば、「金魚の糞」。確かに偉大な国アメリカ、しかし国同志の事は、国民はどうする事もできない。 阪神大震災クラスの地震がアメリカ、中国、韓国、北朝鮮、イラクと起きたら、多分戦争どころではない。
 大地震よ、神よ、こんな事か。そう思うのは国民の中にいるはず。特に水食もないその日暮らし、精一杯の中、愚作の行為とほくそえむのは、北朝鮮か?我が国日本もしっかり足元を確かめなければ。そう思えばこそアメリカをまだまだ必要とする大変な時の首相である。

 話は変わるが、桜もまだまだの中、有瀬小学校の卒業式(3・24)がある。ボランティアをやり、早2回目の卒業式である。野球も入部する者、卒業して行った者、悲喜こもごもである。
 スポーツに子供達に戦争はどこ吹く風。 今日も元気に学校で公団で子供達の大きな声がする。スポーツに戦争はあってはならない。
(2003年3月20日)


 相変わらず国内外を通じ、大変な出来事(事件、事故、人災等)が多い。 その中にあって国会中継を見ていると危機感が無い国家のトップが不安な顔をして発言する訳ではないが、それにも増して、テレビに映る笑い顔、居眠り顔・・・。本当に大丈夫だろうか。
 国民はいかなる事があれど仕事や毎日の生活に追われている。政治的な事は国家のトップに任せるしかないし、国民は国家の言いなりである。

 最近、国民一人一人が、どの国においても同じか、災害対策も国家、都道府県の方針で決まる。災害支援対策が何か一つとして被災者の声を聞いて出来たか。中でも家賃の減額(5年間)も今は無く、元の家賃になり、払えないため強制退去させられた者が、県営、市営、公団の入居者に必ず居る。そして変死、自殺、孤独死もある。これらは圧倒的に高齢の一人暮らしに多い。

 仮設に住んでいた時には、毎日同じメンバーが「ふれあいセンター」で色々な事を話し合った。それがどうにもならずとも心のストレス解消になったものだ。今はその仲間(同じ被災者)が懐かしい。 皆どこでどう暮らしているのか。そして県営、市営、公団に移り、交流があるのだろうか。
 「鉄の箱(家)」に入ると外からは全く分らない。一人暮らしの難病者など通院の時以外は人と接する機会が無い。孤立無縁の中、一週間、十日と誰とも話したことが無いことも有りうる。

 声は聞けずとも、この「かみひこうき」、そして今も奈良の浦島さんとは手紙のやりとりが続き、心が休まる。以前は日本のどこからか郵便が来たものの、長くて半年か、中には一回きりのこともあった。
 しかし浦島さんとは年齢差こそあれど毎日楽しく手紙のやりとりをし、直接話すこともあります。生きていれば母の様であり、又、良き理解者でもあります。 春にはもう一度奈良まで行きます。 元気な姿を共に喜び合うことの出来る、たった一人の友であります。
(2003年2月27日)


 災害とは自然が人類にもたらす最大の試練ではないか。 永久に無くなる事はない。しかし、戦争はなくす事ができる。しかし、過去の教訓にもあったのか、国家のトップが争えば、子供とか力の無い者が一番先に犠牲になる。それを押して事に及ぶは、国同志の関係が恐ろしいほど悪感情になる。

 国家のトップが自分に都合のいい政治思想を強引に植えているが、どこか宗教的なものさえ感じる。「イワシの頭も信心から」と言うが、アジア、アメリカ、ヨーロッパ・・・その中に日本がある。
 まさか日本が憲法第9条を破り、国民を見捨てて、戦争支援。近隣諸国はますます悪感情を抱くだろう。又、日本の立場も難しい。いずれにせよ犠牲になるのは弱い者ばかりで、どの国においても今、もし国が壊滅する様な大災害が起きれば、国同志が手を取り合って、助けることが出来るか。

 コロンビアの事故、中近東の人達は神の怒りだと?これほどまで人間の心が冷たくなっている。亡くなった人達に何の罪がある。いつ戦争が起きても不思議でない。それが人類最大の過ちでも。ましてや災害で助け合う事は不可能が、戦になればあのニューヨークのテロ時も同じような事を言った様に思う。

 今も尚、大災害が世界である。それさえもどうなったかと思う。スポーツに国境はない。しかしそれさえも国家権力で参加できない時もある。スポーツにかける選手は国境も主義主張の違いもない。あるのは参加、出場するという事だけ。日頃の鍛練の成果を存分に発揮する。
 いかなる国においても戦争の無い、災害時に助け合う国に人類がならん事を願ってやまず。
(2003年2月12日)


 あの1.17がまたやってくる。9年目である。震災に遭ってなかったら、もし生き埋めになっていなかったら、もしこの神戸に平成4年6月に来なければ……“もし”という言葉はいつも浮かぶ。忘れることはできない。

 私にも夢があった。もし健常者であったら、あの果てしなき大空、果てしなき大地、北海道に住み、永久に子供と動物が大好きな私にとって、いや家族にも人間として健やかな人生があった。都会生まれの都会育ち、殺伐とした都会の人間社会から解放され、どんなに心豊かであろう。

 そう人には誰にも夢がある。夢があってこそ人生。しかし人は皆が夢叶わずとも懸命に生きる人が人の心を知り、愛と希望の中、自分の人生に向かう。何人たりとも人の人生は変わりうることなく、人間として道を誤ってはならず、人間らしくありたい。私は法の番人でない。しかし人間の社会のルールは守りたい。これがいかなる人間にであれ、万人に等しく正義の道がある。もちろんこの中に被災者は言うまでもなく、何人にも平等であれと。しかしいつの世も守る者も、また破る者もいる。

 震災記念日でなく震災の日とし、いかなる被災者であれ、心一つにして忘れてはならず心してかかるべし。年一回の震災の日でなく、災害はいつどこで世界の中起きるやもしれず、備えあれば憂いなし。今の子供達は神戸に地震があったことすら知らない。いや大人すら知らない人がいる。本当の地震の怖さを知らない。幸か不幸か知らない方がいいかも知れない!。
 しかし、日本は元より世界中で災害がある。幾多の事件、事故、難病、災害、それにニューヨークのテロ。亡くなっていった人達いずれもなぜどうしてこんな目に!。

 神戸1.17、数十万の中の被災者で助かった者として心よりご冥福を祈り、後数年命ある限り、かみひこうきを通じ日本に世界に震災、地震の怖さ、恐ろしさを分かっていただければとペンを取る。「いつまで震災とか被災者とか障害者か」と言う人がいる。それは本当の怖さを知らない。
 最後に重ねて震災で亡くなられた6000名余の人達に対し、心よりご冥福を祈ります。
(2003年1月17日)


 年が明ければあの1.17がやって来る。 いつまでも深き思いは私だけか? いや、そうでないはずだ。何万、何十万も震災が辛い人がいる。

 思えば47才で地震に遭い、来年でもう56才になる。男にとって一番大切な時であった。 今、この8年間が本当に生きて助かって良かったか。今も尚自問自答している。しかしながら各国の情勢を見ていると、ああ、日本に生まれて良かった、本当に良かったと心から思う。

 その中、自分のいる県住で連続放火があり、それも私の部屋の隣のエレベーター前でミニバイクが放火された。しかし、犯人は12月4日、パトロール中の警官に現行犯逮捕された。同じ県住に住む26才の無職の男で、動機は「人が騒ぐのが面白くてやった」とのことである。たとえそれが動機であっても、もっと根に何かあるいはず。ただそれだけの動機でだろうか。26才にもなってそれだけの理由か?その人間の本当の動機を探し出せるならば、又、同じ人間なのか?でなければ良いが。
 しかし、人々の無関心にはびっくりする。 自治会や県住の人でさえ、放火の事も犯人の事も我関せず、隣の人も廊下ですれ違っても挨拶もない。ましてや中近東、アメリカ、北朝鮮、いやアジアの事などどこ吹く風で、自分の生活だけで精一杯と思う。国が、国家が政治的に問題があろうと、ただ見ているだけ。

 もうすぐクリスマス、正月。喜ぶのは子供達だけか。私にも盆も正月もない時にこの文章が役に立っているのだろうか。月一回ぐらいのメールでもう何年にもなるが、時々向こう(相手)の事を思うと、日本に、世界に、体にも心にも障害がある人から見て、私の メールが無駄でないと願いたい。
 そしていつも私の文章に差し障りがないか何回も読み返した上で投函する。しかし、人から見れば活字に出来ない所があるかも知れず、その時は悪しからず。

 いつもの事ながら、来年こそはいい年であります様にと言わずにはおれない。私も年毎に体力も落ち、せめて気力だけでもと自分に言いつつ・・・。
(2002年12月7日)


 私は今、混迷の中にある。冬になれば腰が悪化し、精神的にも参る。また朝、余りの痛さに起きれない時もある。いつまで続くこの難病、ケガ……。

 こうした中、災害・事件は変わらず、日本にも世界にもある。私如きはさしたる事でない。拉致問題では政治と人間と秤に掛けられ、その渦中にある人達。またバリ島、ロシア人質、アメリカでの殺人10数名があり、日本も幾多の事件はある。
 テロについて、その本来の意味は私は知らない。この日本にあってはならないが、万一日本でテロに遭えば詳しく報道され、慌てる。日本はそれほどテロに恐怖感を抱いていない。

 しかし外国に比べ、日本人はおとなしい。そう、内弁慶である。そしてそれは外国から見た日本である。まだまだ日本に幾多の災難があるやも知れず、国家も油断大敵である。もしこの様な中で大災害があれば、各国は手を取り合うことが出来るか?。

 いずれの事であれ、被害被災者は国民である。私は案じてならない。そして人は一人で生きることは健常者であれ、病人、老人、障害者であれ、どれほど辛く悲しく淋しい事か。その精神的負担は一人身以外では計り知れない。

 私はもう55歳、まだ55歳。一番人生の中で苦しい時である。どのようなスポーツ、ボランティアへの取り組みも精神的な面で、ややもすれば薄れがちになる。いかなる難病も今の医学で何とかなる。しかしこの精神的なものはいかなる名医も手の着けようがない。その人の程度によるが、これが人によって事件や事故、難病につながると言って過言でない。この私でさえ、そんな時が、特に冬はある。それは冬は活動が制限されるからだ。

 話は元に戻るが、政治に子供が使われている。大人達の道具だ。一体子供に何の関係がある。私はどの国であれ、親と子共に歩む。それが最善の道。それが政治思惑の中で誰が一番辛いか、間違いなく子供達である。災害も災難もいずれの国もか弱き者達は国家の主義主張の違いがあり、おそらく交わる事がない。何時の日か世界が手を取り合う日が……それは夢物語だろうか?。世界の子に平和と愛を。
(2002年11月1日)


 私は生きていて良かった。そして戦後っ子でもある。日本は米国も不景気の中、平和の国である。災害がなければもっと平和な国であろう。
 しかし先は分からない。今の子供達が成人になる頃、国による有事法制や行政による国民への税金の負担も出てくるだろう。そして子供さえ銃を持っている国もある中、宗教の違いによる果てしなき戦いがあるかもしれないが、たぶん聖戦なんてあり得ない。

 日本も拉致問題があり、24年間もかかって生ある者また亡くなっていた者がわかった。第二次大戦の怨恨か、何ゆえの拉致だろう。しかし11名の人達にとって戦争も政治思想も全く関係ない。日本とは国家とは……国民にとって一体何を信頼してゆけば良いのか。
 また6名死亡、1名不明、4名生存とは本当か。顔も声も何もない中、何を信ずるべきか。これから先、顔も声も確認できるが、それが生きている内に可能だろうか。

 いくら日本や米国が不景気でも、他国から見れば金持ち大国。ありとあらゆる物資がある。世界は見ている。そして全世界には被災者、被害者、子供達、病人、老人、障害者そして健常者もいる。一国のトップにいかなる国であれ、国民は頼らざるを得ない。

 今回私事でありますが、神戸ポートピア自転車ロード16.8キロに出場し、第3位になった。これは今までのいかなるスポーツより価値がある。障害別も年齢別もなく、皆が(障害者同士が)同じレベルで走る。その中で3位。自転車一本に賭けていた人達に申し訳ないような気がする。

 でも私は夏の猛暑の中、毎日2時間練習し、余りのきつさの中、もう止めようと何度か思いつつ、やはりやる。そしていつも思う。私は160cm、55kgしかない。年齢も一番上。いかなる大会でも一番のチビ、そして年寄りでもある。
 死ぬまで現役。これが私のモットー。また他の選手は170〜180cm、80kgはある。いずれの大会もだから審判と間違えられる。私の同じクラスのライバルを待っている。
(2002年9月24日)


 防災の日いったい何人の人が知っているのか。あの1.17.さえ、その日がこなければ語り出せない。まして9月1日が防災の日(関東大震災)とは、私でさえマスコミが取り上げなければ知らない日。それほど人々の中で薄れゆく震災。

 備え有れば憂いなし。震災に限らず防災。防ぐ災害と読む。今もなお事件が全国である中、日本で、いや、ヨーロッパで大洪水があり、我が国においてもいつあるやも知れず。過去の教訓は本当に生かされているか。災害など誰が体験したいものか。しかしながら体験者のみならず、なんびとも、備え、心構えが必要と思う。

 本当に、人は、人類はそんな思いがあるのであろうか。終戦記念日、防災の日……若い人たちに一体どれだけの関心があるのだろう。まして、日本で、世界でそんな感情があれば震災も戦争(テロ)も少なくなる。世界にも防災の日があると思う。ましてや第二次世界大戦があり、世界で唯一の原爆の被災国日本であり、阪神大震災で5600人以上の被災国である日本人でも薄れゆく中、世界でどれほどの関心があるのか。

 今一度、家族のため、日本のため、身を正そう。私はいつでも言っているが、いかなる被害者も被災者と同じではないか?。自然と人間は違うが、被爆者もいる中、私は同じと思う。
 災害も戦争(テロ)も防げる。それは日本が、世界が手を取り、ともに助け合う事。主義主張が人それぞれ違う中、大変難しい問題。しかし、誰かが(国が)やらなければ災害は防げない。ましてや人類自らおろかな事(日本,世界を含め)しているようでは、先が思いやられる。

 防災、終戦、記念日……もういらない。3つもあれば十分である。この9.1.防災の日に限らず、幾多の犠牲者の名に掛け、9.1.がある。大人も子供の生涯語り継ぎ、それを肝に銘じ、次なる災害に市が、県が、国が、そして国民一人一人が人事と思わず万全を尽くし、備えあれ。この人事と思うなかれ、これが一番大切かと感じる。また、人の痛みを知る事の大切さ、それが9.1.防災の日と信ずる。
(2002年8月15日)


 私は夏が大好き。特に暑い方がいい。なぜかと言うと、腰や肩、それに首が少し和らぐからである。昨年秋から今年の4月頃まで腰、肩、首、更に左足まで痛くて痙攣もあった。
 できれば赤道直下の国へ行きたいぐらいだ。そこで好きなスポーツを生涯続けたい。地位も金もいらない。一日2食食べていけたら十分である。しかし、現実はそうはいかず、今の生活が死ぬまで続くのか。

 時々私は「あと何年生き、何年スポーツが出来るのか」と不安になる時がある。そんな時は子供達と野球をする。私も小学校の防犯、少年野球、そして自分の野球とこの4年間忙しく、西区で、いや神戸市でもちょっとした有名人になった。それはスポーツのおかげ、国体も然り。新聞にも取り上げられた。人から見れば、障害の陰など無く、まして被災者であることも知らないのではないか。

 市街地の震災など、この西区では夢物語であり、私が震災の話をすると白い目で見られ、悲しくなることもある。だからスポーツの話をしたり、自分からスポーツをしたりするのだ。震災後8年目となり、私の知人(被災者ではない)ではスポーツをする健常者が80%で、残り20%が年数回大会で会う知人だ。
 バリアフリーとは名ばかりなのか、被災も障害も一生続く通院も誰が好きでなったものか。誰を恨む事なかれこの運命。神の怒り、いたずら、自分は自分の道を行こうと思う。

 今、日本は腐敗しきっている。それは世界にも言える事だが、また神の怒り(大災害が起きなければいいが)があるのか?。しかし、人は痛い目に遭わなければ分らない事もあるのだ。また神の怒りがあって然り。その理由はバス、地下鉄、校長が想像を絶する事件、警備するガードマンが金庫破り……。
 いつもながら数え出したらきりがない。しかし多数の者は懸命に働き、頑張っている。学校(中学校)に対して不満を持っている子供達もいる。少数であってもその不満が時として犯罪への道に進む。「うちの子に限って・・・」と親は言う。子供の行動を何も知らない親は、もっと現実を見ろ! たった一人のボランティア(小学校防犯)の私には力の限界があり、最近は意気消沈である。
(2002年8月9日)


 スポーツとは何だろう? 「参加する事に意義がある?」ではない。「勝つ為に参加する」これは全選手、全世界がそうである。今一瞬の間、震災も、いかなる出来事も忘れるのである。

 ワールドカップ(サッカー)一色で、各スポーツとも練習の時、サッカーの点差を気にするあまり、練習にならないこともある。この時、この瞬間、障害者も被災者も子供から老人まで、野球のファンも、サッカーファンである私も「スポーツする人間(鉄人)」として、テロも戦争さえも忘れてしまう。
 この様に世界が一緒になってスポーツできる事はいい事だ。ではなぜテロや戦争が起こるのか? スポーツマンシップがあれば、人は戦争する事もなく、いかなる災害が起きても世界が手を取り、助け合うこともできるはず。

 この度意外な所から文書が届き、少々びっくりしております。それは「都市安全研究センター」という所で、以前、「かみひこうき」さんの前に「阪神大震災を記録し続ける会」に2回、佳作・特別賞と少しのページながら本にも載り、その会からの紹介です。
 文書の内容は被災者の聞き語り調査会で、見れば神戸大学の住所、FAX、ホームページ、又、教授2名の名前もあった。本物と信用し、私の出生から震災、そして現在の生活が、「かみひこうき」さんに全てありますよと紹介しました。何かの連絡が?
 又、私の所に調査に来る時も、只今の時期に何か不思議な気が致します。8年目も4ヶ月を過ぎ、先程の話のようにサッカー一色の中、もう3年も「記録し続ける会」には連絡をしておらず、前方の方からも何の話もない中である。確かに神戸大学都市安全センター、神戸大学教授2名とあります。

 私の辞書には「出来ない」という文字はなく、やれば出来ると信ずるのである。支障があってはという事で、氏名は後日。話は私事でありますが、息子はどんどん遠ざかり、寂しい限りである。
 その中で、他の子供達と野球をやり、教え、私のしている事は正しいのだろうか?いつも自問自答する。又、この度9月(予定)にある「全国大会神戸ポートピアスポーツランド」の自転車競技スプリント(ハロン)、1000mトライアル(TT)、個人追い抜きに出場するつもり(もちろん障害者の部)である。これは年齢には関係なく、いかなる年であっても対戦しなければならない。その為毎日2時間の猛練習をする。しかし、未だ競技会からの連絡が無い不安の中、今日も練習を続けるのである。
(2002年6月18日)


 私はこの度神戸市障害者スポーツ大会において100m走、走り幅跳びを第一位だった。痛みの中をよくもまあやるもんだ。ある人は、そこに山があるから登ると言い、世界七大最高峰登山を世界最年少で成し遂げたと聞いた。私は「世界最年長」のスポーツ選手でも目指そうか?

 人は何か夢を持って、そこに生きがいがある。ある小学生の男子は、先天性股関節脱臼という重度の障害を持ち、10分以上立つ事ができない。しかし、少しは自力で歩き、運動もできるし、野球が大好きと聞く。 私は彼が野球かキャッチボールが出来る様、少しの援助をと考えている。私は彼の母に「彼が持つ95%の力に私が5%の力を注ぐ形の援助をしたいが、私でよければ相談にのります」と話した。
 若い母が子供の為を思って私に相談することは、随分勇気や抵抗があると思う。しかし、本当に子供の為を思っている母なら、いつか私に話があると信じている。その時は我が子と思い、人生最後のはなむけと姿勢、厳しき道、険しき道をその子と共に歩んで行きたい。 我が息子にも決して人の道を外さず、人生を歩んで欲しいと願っている。

 ところで、昨今の国会答弁は、いや答弁にはなっていないが、何とも歯切れが悪くつかみ所がない。よくまああれだけすり抜けられるものだ。自分に鉾先が来たら、まずメモ帳を見て、答弁する。つまり質問する側もされる側も初めから話が決められているのである。馴れ合いの答弁の後、最後は総理が勝つ。これが何十年、何百年と続いた日本政府と 日本の政治家である。いかにも話し合いが全員で何事も決定しようとする。
 私が一番怖いと思う「有事」とは、富国強兵、大日本帝国(徴兵制度)を思い起こし、まさか50数年前の日本に戻るのではと心配である。いかなる問題も我慢できるが、この有事決定だけは避けねばならぬ。私の憶測が間違いであって欲しいものだ。
(2002年6月2日)


 今私は神戸市の障害者スポーツ大会へ向け、練習中である。しかし、たまに何のため練習しているのかという思いが頭をよぎる事がある。自己満足のためにやっているのだろうか?。いや、私は難病と障害とこの年齢で頑張っている事、人はやる気になればいかなる事も可能になると、そう我が子に伝えたい。そう思う気持ちがまた練習へと駆り立てる。

 5月19日ユニバー記念競技場で大会がある。昨年「また来年会いましょう」と言った仲間が全員来るだろうか不安もある。ライバルなくして進歩なし。またこの度、神戸市障害者スポーツ協会から開会式の旗手を依頼され、身に余る光栄と快く引き受けた。これも宮城国体の神戸代表を務めたゆえの事である(少々当日の天気が気になるが)。
 私はライバルを待っています。同じ障害者・被災者・年齢で、また難病や独り身であって、私に勝るとも劣らないライバルを。そして共に夢に向かってパラリンピックアテネ大会出場を人生最後のはなむけとして……。いやたぶん夢であろう。しかし夢であってもいいではないか。

 私にとって、今度出場する100m走と走り幅跳びは無謀ともいえる競技である。しかし挑戦する。あの砲丸投げで金が取れ、一位になれた。やってできない事はない。今も腰と両足が痛み、特に太股に激痛が、痙攣が走る。それでも練習する。真に命懸けである。心拍数も上がる。朝余りの痛さに立てない。それでもやる。本当のスポーツ馬鹿である。
 この事は新聞もそしてかみひこうきさんも知っている。しかし私の回りは誰も知らない。私も言わない。もし分かれば話すつもりです。これは自分のためか子のためか、何のためにやるのか。それは被災者として障害者として、難病もこの年齢をもってして、命有る限り、人は夢に希望に人生に家庭にあらゆる事に前進していく。そして一日一日に感謝し、毎日が勉強、死ぬまで勉強。

 人にそれほどの上下はない。総理大臣であってもホームレスであっても生まれた時は裸。一人で生まれ、死ぬ時も一人。同じ人間同じ人類何の上下の隔てがあろうものか。差別も偏見もない社会を願う。
(2002年5月18日)


 私はある中学の女子ソフトボール部のサポートを申し出、「一日コーチ」をやりました。その内容の悪さにびっくり、驚きもとまどいも隠せなかった。と言うのは、少年野球は学校と関係なく、厳しく教え、それが私生活の中に生かされるはずであり、人にしっかりあいさつができる子にするには、徹底的に野球を教え、時には悪い言葉も出る。けがもある。親も野球をやるからには当たり前のことと思っているからである。
 しかし、中学部活は、楽しく、安全第一で、勝負など関係なく、毎日登校してくれる事を願っている官公庁、親方日の丸、今だそんな考えのある学校もある。 中には部活に真剣に取り組んでいる所も僅かだがある。もちろん部活に力を入れている所は強く、安全第一の所は弱い。

 中学生のお母さんに私が「あまりにもひどい野球内容だ」と話すと、「どうして人にしっかりあいさつができる子にならないのか。何のために厳しくしているのか」と言われる。
 この話を先生方は知っているのだろうか。ほとんど何の経験もない先生が部活を受け持っている。それが家庭訪問の時には良き先生を演じている。これがことなかれ主義であり日本人の一番悪いところではないか。子におびえる学校では生徒になめられても当たり前、そして私の申し出を断る。多分私が厳しく、先生より野球ができる子供達が私になつく。それが気に入らないらしい。たった一日接しただけで、生徒は分らない事を私にきいてくる。先生達は今まで何を教えてきたのだろうかと不思議に思うのである。

 真剣に教える私の姿が気に入らない先生。生徒達に聞けば、これまで一度も勝った事がないそうだ。これでは一生懸命やっている生徒がかわいそうだ。今だにこんな学校があるとは。ことなかれ主義、我関せずでは日本の将来も危ないものだ。
 少年少女達よ、自分をしっかりと見詰めて一歩一歩進んで欲しい。君たちの時代は嵐の中と思うが、頑張れ!
(2002年5月4日)


 私の話は震災をぬきにしては語れません。 震災なればこそ不幸を幸いと今生きているから。そして40年ぶりにした野球、その他のスポーツ。震災がなければ、今の生活模様はない。

 体験者(被災者)でありながら、不幸を幸いとする人が、果たして何人いるのだろうか。そして今、スポーツの原点に帰り、「スポーツとは何だろう?」と考えるのである。 人と人とが、又、個人が競い合い、互いに体と精神を傷つけ合うことなのだろうか。 スポーツマンシップとは、今深く考えている。大会関係者全員による公平かつ厳粛な判定は、オリンピックはもとより、全ての大会に不可欠である。 その中からスポーツマンシップが生まれるのではないか。
 健常者であれ、障害者であれ、スポーツが出来るという事は、最高の喜びと思う。

 話はやや飛躍するが、今、官公庁にあって、国家は何をどうしようとしているのか。 国民あっての国家で、民なくして繁栄はない!。確かに警察も政治家も医者も必要であり、だれかがならねばならない。しかし、その「人材」が今はない。特に政治家に至っては罪のなすり合いで、叩けばほこりが出る大臣ばかりで、もういいかげんにしたらどうだ!。
 やる事はいっぱいある。 第一に「防災対策」、それに「防犯(小学校への警戒など)」、ボランティアに対して、交通費ぐらいの支給をするとか、スポーツへの助成金、母子家庭への対策、一人暮らしの高齢者の安否確認などである。空港も必要だろうが、必要最小限に留めるべきで、ダム、高速道路などもそうである。

 今は確かに不況である。それは国民が金を使わないからである。昔は不景気の時は、ギャンブルをする人が増えたが、今は人々が慎重になり、お金を使わない。しかし、時には一度にパーッと使うこともある。
 今度の「ワールドカップサッカー」は、国民のストレス発散の場であろう。今尚、大企業の倒産がある中にあって、国内はスポーツの花盛りである。そして、その選手の年俸は庶民の100倍。プロは不況知らずなのか?。いや、一流のプロであるがゆえに人の10倍、20倍と練習し、その下には何百、何千、何万の二流の人がいる。決して不況知らずではない。
(2002年4月20日)


 やっと春が来た今、桜も満開となった。私も春(5月)の神戸市身障者スポーツ大会に参加するつもりだ。何のためと言われれば、登山はなぜする。そこに山があるからというのは同じように、私もそこに大会があるから。それしか言いようがない。
 これから本番。12〜2月は全く活動できない。思い起こせばこの7年間、子供と何回キャッチボールができたか。小学生の時は私が全くできなくて、やっと中学で数回。今は高校でバイトもあり、キャッチボールその他の親子のふれ合いが少ない。
 そこに大会があるからか、いや、過去において自分が子とスポーツしたり、少年野球を見てやれず、キャッチボールすらできなかった思いが、今、野球にスポーツに私一人であっても駆り立てられる。

 少年野球監督、コーチはほとんどがそのチームに自分の子供がおり、私のように自分の子もおらずコーチや又学校の防犯をする事は、やはり自分の子に出来なかった思いが強いで、それが今のボランティア活動につながっている。おそらく他人にも我が子においても私のやっている事が理解できず……いや自分でも理解できずにいる。
 まして自分以外に私の事が理解できるかな?。しかし人は人の道を干渉してならず、又自分の物差しで測る事もしてはならず、健常者であれ被災者であれ、自分の道は自分でゆく。少々強引かも知れず、そのぐらいの覚悟なくて今生まれた命いつまであるやも知れず……恐れず我が人生を全うしたい。

 確かに災害は忘れた頃にやってくる。今回またも台湾の地震があり、科学者達は地震予知を研究している中、やはり地震予知はできないと発表があった。いったい何のための地震科学者で、何のための防災訓練か。私共被災にあった人はもとより、被災者でなくても大震災は何十年後あるやも知れず、(日本の世界の)人々は阪神大震災を忘れてはならない。
 何百何千の人が私のような感性あるかは疑問だが、もしこのメールが届いたらぜひ参考に。このかみひこうきに我が生涯、人生あり。
(2002年4月8日)


 春よ来いと言いつつも、この手紙が着く頃には春本番だろう。しかし、今だ体調がすぐれず、5月の「神戸市障害者スポーツ大会」への出場も不安がある。
 今年の国体には参加できるのだろうか?万一参加できたとて、我が人生最後のスポーツなのだろうか。やはり神戸の大会で勝たないと2004年のギリシャのアテネが不可能となって来る私は、次の大会で「100m走」と「走り幅跳び」をエントリーする。健常者でさえ、55才で「100m走」と「走り幅跳び」は大変であろう。まして障害と病がある中で本当に出来るのであろうか?
 息子はまた「やめとけ、死んでしまう」と言う。しかし、私は出場するつもりで練習している。

 思い起こせば昨年も国体出場が決定した時は、悩んでいた。今年は決定するまでもなく無理かもしれない。
 防犯と野球のコーチ(全くのボランティアにもかかわらず)それに通院とかなり無理 している。野球のコーチをやめ、末永く防犯だけにするか、自分のスポーツをやめるか。しかし、やめたら悔いが残る事は確かで、死ぬまで後悔するだろう。多分今年が最後のチャンスと思うからだ。
 しかし、命を縮める事もないのかもしれない。何か一つに絞る必要があるだろう。それは防犯、スポーツ以外のものであったとしても。 学歴も職もない私にスポーツ以外に何があるのか。もちろん子供達を守るボランティアとかあるが、自分の子はどうなのか。

 人はそれぞれ人種を問わず悩み苦しみがある。その中で自分の生き方を見つけなければならない。日本に、そして世界中に、あらゆる障害を乗り越えて、その中に一瞬の喜び、楽しみ、生きがいもある。
 しかし、それ以上に幾多の障害や難関も乗り越えねばならず、時には神や仏にすがりたくなる事もある。しかし、最後は自分自身の力、精神力と信ずる。今の青少年いや、実年においても、先の見通しが立たない人がいる。  職が決まっても、不安で、時々私に相談に来る大学生もいるが、ストレスが日本人全体にある。それが暴力、犯罪へとつながり、あり余る若さと健康がありながら、道を外す事は、将来のある人生を考えると実に残念だ。うちの息子もしかり。親の心子知らずで、また子の心も親が理解出来ずにいる。
 将来のある我が国の少年少女、青年達よ、決して人の道を外す事なく、このメールが少しでも役に立つ事を願ってやみません。
(2002年3月23日)


 私が小学校の防犯をしている校舎南門の所にある県住の横、又その隣に有瀬交番がある。なんと子供達や学校、私の住居の近くでこのような事がおきようとは。駐車の車が原因らしいが、鬼畜にも劣る殺人行為。亡くなった人はもちろん、両親の気持ちを察するに心中余りある。断腸の思い。

 主犯格、まだ逃げている犯人に告ぐ、この世に神も仏もないと思うなかれ。きっと、いや必ず天罰が下る。たとえ逮捕され、十数名が?裁判で死刑になるとは思えず。しかし、天罰なら……きっと死の天罰が下る。万一数人が生き残ったとしても、一生苦しむがよい。もし人間として心があるなら。だが鬼畜にも劣る事をしでかした者にそのような心があるはずもなく、心から死の天罰が下る事を願う。

 神戸商船大学とは超エリートコース、夢も希望もこれからの……。こうして書く手もふるえ、漢字さえも出ない。そして、警察、警官の……いったい何の為の警察か。一市民が警察を頼りにしなくて、誰を頼る。私は残念でならない。

 すぐ近くで私の所から歩いても5分位の現場。又、遺体が放置されていた川は伊川。伊川谷とは伊川の事である。奇しくも私が3年前風景写真を撮った所でもある。それほどきれいな川でである。そのような所に。警察はもとより犯人に必ずや死の天罰がある。

 犯人関係者は鬼畜にも劣り生きている価値もなく、裁判や刑務所、そんな甘いものでない。ご両親、親族になりかわり、又、友人多数いる中、きっと私と同じ気持ち、いや言葉ではいいあらわせない心境と察します。
(2002年3月3日)


 今まで長田の震災行事で近所の者と井戸端会議というようなものに参加しておりました。しかし、先だって神戸市から出席のお誘いがあり、どのようなものかと半信半疑で、ハーバーランドの神戸市大公堂に行きました。そこは20階もあろうかという大きなビルにある会議場(大ホール)でした。

 内容は、5,6名の体験談発表、20名ぐらいの表彰(何の?)などであり、これが一体亡くなった人への慰霊祭かと思い、次は県や市ではなく、やはり長田で行われるものに参加したい。一分間の黙祷から始まる長田のものは、ネクタイも背広も不要。ジャンパーでも十分心は通じるのである。

 私はこの「かみひこうき」を心の便りとしています。それがいつまであるやも?今年の冬は例年になく寒く感じます。腰がしびれたりして、座って書くのもつらいぐらいだが、何のその。春がやってくれば、又、私はスポーツに全力を出したいと考えております。私の体が動く限り向って行き、新たなスポーツも目指します。

 今、社会の中、国民の中に大きな問題が山とある。今もこれからも全部国民に降りかかってくるのである。子供達、青年達の将来がどうなるのか気がかりである。
 そんな中にあって、テレビでは「大食・早食い大会」や「グルメ食」などの番組があるが、これが食文化と言えるのか!! ある国では500万人という難民が水と食に貧しているというのに、こんな事がいかんと思うのは私だけではない筈だ。

 国民が本当に危機感を持っているのか知る由もないが、国民は政治家任せでしかない。私は神でも仏でもない只普通の人間であり、8年間の闘病生活と一人身であり、ややもすれば落ち込む時もある。そんな時、この「かみひこうき」を書く。誰にも話せない事を。
 子供には弱い父の部分は見せたくない。辛抱、我慢、忍耐が途切れてしまいそうになることもあるが、自分で自分に言い聞かせて精神を安定させているのである。

 春よ来い、早く来い。災害は忘れた頃にやってくる。そんな事はあってはならないが、備えあれば憂いなし。私の言う災害とは、いかなる災難も災害と思うべし。ああ、春よ早く来い。
(2002年2月18日)


 車を運転している者で、事故を想定する運転者はいない。「自分は事故を起こさない。運転がうまい」と思うのがおそらく大半である。でなければ車など運転できない。これは災害でも全く同じで、自分は大丈夫とそう思うのが人間だろう。私は車が嫌いで、災害にも神経が敏感である。それでもやむを得ず車にも乗るが、本音は疲れる。

 この度、地域シンポジウムに行き、その中で被災者の体験談や震災時のビデオには私も少なからず共鳴したところもあった。しかしながら杖、車椅子の人、障害者の中で特に聴覚障害者は大会本部に聞いたところ、いないとの事。見れば500人はゆうに超えていた中で全くいない。だから手話などない。

 私には聴覚障害で全く聞こえない20歳の友人がいる。震災時は少し聞こえ、話もできたらしいが、この7年の間は全くの言葉も音もない世界にいる被災者である。両親も聴覚障害者。今は大手メーカーのエンジニアとして活躍し、朝6時から働き、夜10時に帰宅して12時までランニングの練習をする。彼は中距離ランナーで、これまで神戸市、兵庫県、全国で50個以上の金メダルをこの7年間に獲得しており、私など足元にも及ばない。

 その彼が各地の慰霊祭に出ているだろうか。そして手話が付いていてくれるのだろうか。神戸の地域シンポジウムでは10人前後が何らかの表彰をされ、立派な金メダルを受け取っていた。見れば50〜70歳くらいの行政の偉い人ばかりで、いったい何の功績なのか。本当に今も障害者は社会の片隅でひっそりと生きねばならないのか。
 この会でトップの人に相談してみた。次は障害者もそしてぜひ手話もまた視覚障害者もお願いしますと。しかし「予算はないのですが検討します」との答え(表彰式の金メダル・賞状は私がもらった3倍の大きさ)。

 障害者のためにボランティアする人もいます。やる気があればできます。このいつも言っている私のやる気、もっと広く大きく目を向けて欲しい。テレビで見たある所では、障害者も健常者も皆が心から集い、やっている所がいくつかある。予算は?。全員が心からやる。こうやってやる事ができる所もある。
(2002年1月20日)


 私もあけましておめでとうございますと、心から言えるようになった。たったこれだけの言葉、それが言えるまで5〜7年の歳月を要し、今は新年だけでなく、色々なめでたい事に素直におめでとうと言える。以前は、たとえば誰かに子供が産まれた時「おめでとう。男ですか女の子ですか」と、人が簡単に言える事が私には言えなかった。それは震災とケガと病気と通院、それに独り身でもあり、人様の事に対し素直に喜べずにいた。
 しかし、他人が私のこのメールをどのようにとらえているか知る由もないが、今は何事にも対し素直になれ、独りよがりはつまらんとおもいつつも……今日も通院。

 今年も寒い。腰がいつもの年よりももっと痛く、朝立ち上がれない時もしばしばある。プロスポーツの選手ですら40を過ぎると引退し、その後各種のイベントに出るようになる。それでも50歳前後。
 私はもう55歳で障害もあり、未だいや一生通院である。その中で野球、卓球その上テニスまでやろうとしている。しかし、さすがに砲丸投げはもう無理だろう。ましてテニスは、息子が絶対できるはずがないと言う。
 私もテニスは全く経験がない。未知なる世界で、無謀な挑戦とも言える。このような事をする気が出てくるのは、障害があり、今も腰が痛いからである。震災による障害であるが、自分でもなぜこんな無理をしてそこまでやるのかわからない。それは多分、健常者の時にいつでもできると、元気な体であればできる事を何もやらなかったせいだろう。

 人は何もできなくなった時、無性に何かをやりたいと思う。食する者は、今は何でも手に入る、だからそれが手に入れらなくなった時、必死で追いかける。私もそれが無理と自分で決めたくない。できるかどうか、どこまでやれるか、何かに死ぬまで挑戦する。それが私の歩む道と信じ、強い信念だけがある。立ち上がれ。手をつなごう。被災者であり、障害と病と……たとえ独り身であっても!!
(2002年1月6日)


 前回は、7年目と書きましたが、8年になった震災日。毎年振り返る、「よく生きてきた、生きてこれた、これからも生きてゆく、命ある限り」。
 この文章が皆さんに読まれる頃は、もう年が明けているやも知れぬ。災い転じて福となる。真に私がそうである。自分の人生も人様もきっとそうであろう。今、命があるのだから。この8年の歳月を、「かみひこうき」を通じ、一歩一歩確実に今日まで歩いてきた。

 災い転じて福となる、福にする。それには、人の持つ強靭な精神力が必要不可欠である。私は震災だけの話をしていればいいのだろうか。私の話し言葉、身に起きる出来事……。私は、震災を乗り越えてきた確かな生き証人と思っている。
 また「来年こそいい年でありますように」と、誰もが神社参りする時、この「いい年」とは、人それぞれ色々な面が含まれている。
 私も子と、毎年長田神社に行く。西区にいても、兵庫県どこにいても長田神社。長田神社は、全国数ある中、一番被災地に近く、社が倒れた光景は今でも忘れられない。神社が立ち直り、私もおまいりできる喜びを神に、またお願いする。

 しかし、子は一体何を願っているのか……。私も聞かず、子も言わない。それはそれでいいのだろう。子は今バイトをしている。我が家はバイトせざるを得ない生活環境。その分、子の学力は落ちている。私は無事卒業できればいいと思っているが、バイトで帰りは遅く、11時を過ぎる。晩5時からのバイトでは、疲れて学力が落ちるのは無理はなく、さりとてバイトをやめ、学校だけでは経済的に苦しく、バイトと学校の両立も難しい。
 どちらもやめる事なく、無事あと2年がんばってほしい。私はもう子の人生は子にまかす。本人の意思で何とかなる。子もここまでがんばってきた被災の子だから。

 最後に、スタッフの皆様、一年間ありがとうございました。また来年よろしくお願いします。
(2001年12月17日)


 私は手紙を書く事が好きである。今の時代、古い事かもしれず、特に若者にいたっては随分嫌がる。このIT時代の中では、当然だが。しかし私は1日1通はどこかに書く。

 もう早いもので7年目の震災の日、2002年1月17日が来る。今日までよくぞ来れたものだとつくづく感じる。
 私が撮っていた震災時の写真がもし入選すれば(震災時の写真特集)、私の話も聞きたいと神戸市からお願いがあるやもしれず(入選すればの事です)、その時はこのかみひこうきで震災における我が人生をくまなく話すつもりです。そして万一災害があれば、どのように対処していくかを。いかに防災訓練をしていても体験者に勝るものなし。どれだけ耳を傾けてくれるか。

 確かに今は不況という嵐が吹いているが、今こそこの逆境に打ち勝つ時である。強い信念と努力、辛抱そして健康な体。これだけあれば何とかなる。人は誰も助けてくれない。自分の事、家族の事、自分が本人がやらねば誰がやる。

 今年一年も随分色々な出来事があった。日本国内はもとより、世界の国々で人と人の争い、年が変わろうとしてもまだ続いているやもしれぬ。そんな中、暗い話ばかりではなく、イチローや新庄選手の海外での素晴らしい活躍があった。特にイチローにいたっては今更話す必要もなく、日本人の鏡である。我が有瀬少年野球団にも未来の若きイチローがいる。先の見えない日本にあって、頼もしい限り。そんな子供達と一緒に野球が出来る。

 しかしながら、人間の主義主張とは子供達の中にもある。ボクは投手がしたい、ボクは4番が打ちたい……そうはいかない。コーチ、監督が決める。もちろん不満がある。そしてその親も不満があり、まして監督、コーチの子であるならなおさらの事。人間の主義主張とは実に怖いものである。子供達の中から大きな事へ発展する。それを乗り越えてこそ親も子も甲子園の道、プロの道が開かれる。

 今華やかなイチローや新庄も艱難辛苦の道を親共々乗り越えて今日がある。そんな苦労話を今の子供に聞かせてやりたい。マスコミはいい事だけ報じるが、もっとそんな話があるはず。楽して明日はない。
(2001年11月27日)


 今米国、中近東いや我が国でさえ危機感を覚える中、全国の身体・知的障害者が集う第1回のスポーツ大会が宮城県で開かれた。開会式は天皇陛下ご列席の中、3万人強が参加して華々しく開催され、私のみならず若者から年輩者まで感動の涙でした。国内バラリンクピックでもこれほどではないと思う。

 スポーツとは勝つだけではなく、参加の意義もある。しかし全選手の勝つ事への執念は恐ろしいほど伝わり、勝って泣く者、負けて泣く者、またその中にも両者の間で笑いと励ましがある。障害者のスポーツと侮るなかれ、各都道府県の選手は必死の練習をしている。他県の人と知り合い、交流したその話の中から、私はこんな素晴らしい人達はなく、障害者でよかったと(身体が不自由になったからでなく)その精神や気持ちにつくづく感じる。

 またその陰で地元のボランティアチームが各都道府県5〜6名付き、選手の世話をする。もちろん各都道府県の団長、会長、役員も試合、レースがある度、付きっ切りです。応援はものすごく、ぜひ健常者の人達にも見せてやりたいものです。ビデオがあれば撮っておけたものと、後悔し残念に思っています。

 そこで私事ですが、身障者2級1種桜井義信54歳は砲丸投げ、ソフトボール投げ(自己新記録)とも堂々の金メダル。よもや2種目だけで、その2つが金とは、これ以上の宝物は私にはなく、人間はやれば、努力すればできると思いました。
 スポーツに限らず、何事においてもあきらめる事なく全力でやる。その精神が気持ちが大切である。そして私は少々変人である。好かれる人とそうでない人と極端に分かれる。アインシュタインもエジソンもまたノーベル賞を取る人もそうであり…というのは少したとえがオーバーかな。それゆえ優勝が金が取れる。

 そして何より感動したのは閉会式。今思う度涙が出る。あんな素晴らしい閉会式は……。地元の若者のボランティアチームである人は泣き崩れ、私に抱きつき離さない。私の人生の中でも泣いて抱き合った経験はなく、今書いている時も頭がよぎり、思わず涙が出る。
 そしてその3名(内1名女子)が「神戸に行きたい。私の所に泊まりたい」と言ったので、「ぜひ来て下さい。私が神戸を案内し、各地へ連れていきます」と話したので、来てくれれば実行致します。これは私の話した神戸のすばらしさに感動したものと思っている。

 またこのかみひこうきの内容ももちろん話してあり、ぜひこのメールが仙台、宮城県の皆さんに届く事を願って止みません。最後に地元の全盲の女子が点字を使わず10分以上の別れの言葉を話しました。10分以上の話を覚えることは健常者でさえ難しく、それを涙の中、閉会式1万人強の前でできる。全選手が涙の中、本当に日本人であった事に喜びを感じる。
(2001年11月2日)


 今、阪神大震災クラスの地震が世界各地で起こり、地球全土が崩壊すれば、人類は又一からやり直さねばならない。ともすれば神の与える試練が、どこで起きようとも不思議ではない。しかし人々は、そんないつどこで起きるかわからない事にはほとんど無関心だ。
 それよりは今、現実に起きている戦争だ。どこに正義も悪もない。ただあるのは世界崩壊なのか。また我が国にもその一員となりうる。他国から見れば決して戦争放棄した国と思えず、ある国の標的とならねばよいが。

 大国アメリカも先の見えない中、ハワイ沖でえひめ丸の引き上げに成功し、遺体を収容している。全員を引き上げるのは1ヶ月を要するという。アメリカの国内外において色々な事件があり、戦争のさなか、えひめ丸引き上げとは大した国だ。

 今、神戸の街はあの大震災の面影はない。わずか6年で新しい街がある。そして足りないながらも法的被災者の優遇は今もある。確かに不況には違いない。それは高度成長期に比べて不況なのか。決して終戦後のような事はない。ある国の難民は被災者ではないだろうか。女・子供が飢えで水も食料もない中、その国が戦争している。またその家族は子供にも銃の撃ち方を教え、戦って死ぬ事を誇りと教え、教える方も戦って死ぬ事を望んでいる。

 私に宗教の事はわからないが、人と人が戦う事はスポーツですら怖い。ましてや命を懸けてやるとなればなおさらの事。もし私が今の戦争当事国にいれば、やはり行くだろう。ただ立場が違うからこう言えるのだろう。ああ日本に生まれてよかった。生きていてよかった。心より今そう思う。私のみならず日本人がそう願って止まない。

 これよりは私事でありますが、10月26日宮城の全国大会へ行きます。帽子からユニフォーム、靴、飛行機代、ホテル代、新幹線代は福祉団体が費用を出してくれます。日本も大した国です。障害者が全国から3750名、付き添い1000名以上が集まり、グランディ21国体会場でやります。日本も大変な中、こんな事ができる。このような大会ができる国はそう多くはない。私はその中の神戸市のたった一人の砲丸投げの選手である。

 次の返信にはソフトボール投げを含め3位までに入賞できましたと書きたいものです。よもや国内でテロに遭遇しなければ。取り越し苦労ならばいいが、国内といえどもジェット機は怖い。
(2001年10月20日)


 たった一人で震災を乗り越えてきたが、その後残された命で何ができるかと自分なりに探し、防犯、少年野球のコーチ、また自分の障害スポーツをやって来た。しかし一人では痛切に力の限界を感じる。スポーツ関係はもう何年もできないだろう。今こそ一日一日が大切と思っている。

 我が息子には無理な事を余りするなと言っている。私自身が一番良く知っているものの、やはり我が息子、共に震災を乗り越えてきたのだから。3年前まで歩く事すらできなかった私も、今は野球や砲丸投げができる。子はそんな事に驚く事なく、私の身を案じる。我が息子なればこそと思う。又子の人生も私が思うほどの事もなく、私以上にしっかりした人生観を持っている。とはいえまだ15歳で私もあと5年は頑張りたい。ほんのささやかな望みである。これがごく普通の家で家族である。

 今、人類がいがみあう。動物社会において何万種の動物がいる。しかし人間は白人と黒人、黄色人種しかない。たった3種類だが主義主張の違いは戦争にもなりかねない。又宗教の違いも怖い。仏教、キリスト教、イスラム教、この世界三大宗教の違う考え方、主義主張を、ともすれば人間はこれを越える事はできないかもしれない(この主義主張の壁が破れる時は、世界最終戦争に至る。そしていつもその陰で犠牲になるのが力のない女性、子供達。ただある国では、女性も子供も戦争も辞さないと…恐ろしい時代である)。

 我が日本国において憲法第9条戦争放棄はあるが、スイスのように永世中立国にはできないだろうか。私は政治の事はわからない。しかし、人と人が命のやり取りをする。もし私に火の粉が降ってきたら私はどうするだろう。やはりきれい事は言っておれないか。私や息子に危険があれば、やはり命を張って助け、危険人物に対し目には目をという事にもなりかねない。

 米国(ニューヨーク)に対しては、心よりお悔やみ申し上げます。これも人災、災害と思う。我が国は、もっと世界に災害に障害に福祉に、120,000,000人もいるのだから、もっと目を向けて欲しい。そしてできる限り、自分のため人のため、そこに様々な障害があるやもしれませんが、恐れずボランティア活動にぜひ参加して欲しいものです。
(2001年9月17日)


 明石の歩道橋事故で兵庫県人として恥ずかしい限りなのは、県警と明石市の罪のなすり合いです。最初8人の幼い命が奪われましたが、なぜもう一人が意識不明で危篤状態にありながら、マスコミも県警も明石市もその事に触れず、亡くなってから報道されるのか。

 今は震災の事を話す人すらなく、大蔵海岸の人災も耳にしない。私の住む団地もイベントの広告ばかり。犠牲者への冥福の言葉も、話もない。眼下に広がる明石海峡、その下で9名の命が失われた。団地からは車でわずか10分の所ですが、話も出ず、まるで避けているかのようです。自治会費の集金に来ても、私がとりつく島もなくすぐ帰る。
 まだ暑い夏が続きます。子供達は自分で自分の命が守れません。周りの大人がしっかりしなければ、私の言う人災はいつどこでも起きるやもしれません。

 暗い話ばかりではなく、この度私は決心いたしました。生涯に只一度となるかもしれません。障害者全国大会に出場いたします。神戸市からユニフォームや靴のサイズ合わせ、結団式その他の色々な連絡があり、何と私は神戸市で只一人砲丸投げ(ソフトボール投げも)の選手となり、しかも男子では一番の年長者。こんな名誉な事はそうないかもしれません。全力を出して戦います。このかみひこうきに「勝ちました。優勝しました」と伝える事ができればと思います。

 しかし自分で言うのも何ですが、私がこれほどの者とは、自分でびっくりしています。以前結団式の時初めて会った人と、大会に共に出場できたら勝とう、頑張ろうと互いに励まし合った。その人が帰りの交通事故で亡くなったと聞き、人の運命はいつどこでどうなるかわからないと思いました。その話を聞いてより一層出場の意志が固まり、名前すらわからないその人の分まで私はやる、絶対に勝とうと思っています。

 私のやっている事、話す事、考え方は少々変わっていて、変人と思われるかもしれませんが、だからこそ今まで生きてきて、スポーツやその他の事で人に負けない努力をしてきました。多分人から見たら少々の事ではないと思うが、おそらく二度と出てこないような人間でしょう。今までの体験、今やっている事できている事が自分でもよくわかりません。自信はあります。

 しかし本当に砲丸投げで、私のような小さい体で勝てるだろうか。人は言う。「本当に砲丸投げですか?」と……。無理もない。こんな小さな細い体で、砲丸投げと信じられないのも。だからこそ腰の痛みをこらえて練習する。腰に激痛が走り寝られない時もある。
 「なぜそこまでしてやるのか?」と息子も人も言う。でも止めない。私はやる。未だ全国では不幸が後を絶たない。善悪を為す前に人が人を、人という字をもう一度思い浮かべるべきでしょう。私も上には上がある事を決して忘れずに、自分に言い聞かせていますが……試行錯誤です。
(2001年8月10日)


 有瀬小学校の子供達は幸い、あの大蔵海岸で事故に遭わず少し安心しましたが、しかし同じ幼い子が犠牲になったことに変わりなく、ご両親や学校関係者、多くの友達の心中察するに余りあります。大人2名、子供9名が犠牲になりました。

 2001年カウントダウンの時にも事故の危険性があったと聞いています。警察に警備の要請をしたが動かず、救急車も待機せず、怒るべくして起きた事故ではないかと思います。思えばさぞ苦しかった、辛かった、痛かったことでしょう。こうして書いている私もこみ上げてくる。

 いつも学校で野球で児童館で子供達に接している私は、本当に胸が痛い。いつも事が起きてから騒ぐ。なぜ事前に徹底した警備体制ができなかったか、これを怠った明石市、明石警察に厳正なる処分を求めます。またいつも通り「再発防止に努めます」との決まり文句が……。事が起きてからでは遅い。兵庫県でこの夏驚くほどイベントがあります。今一度徹底的に防止策を練り、少しでも危険性がある所は中止すべきです。

 話は変わりますが、日本は600兆円の借金があるとのこと。国が国に借金では、誰がどうやって返すのでしょう。また国が国に取り立てに来るのでしょうか。一般社会人が借金すれば担保を……払えなければ差し押さえ、矢のような催促、そして裁判になります。

 鉄道や空港よりもっと自国の足元をしっかり見て、土台作りから必要かと思います。それは安全管理、失業対策、事件・事故の災害対策、病気・難病対策、児童・老人福祉……数え上げればきりがない。いくらでもやる事があります。空港作りよりも国と県と市が市民一人一人が目を向けてほしい。我が身に降りかからなければとそんな気持ちではなく……。

 内閣総理大臣様へ。子は国の宝、まず第一歩は徹底した安全管理をお願いします。
 神戸市長様へ。地下鉄海岸線は間違いなく赤字になります。なぜもっと社会人、子供達の話、意見を聴かないのか、私はそう思う。子供達は利用しません。なぜなら不便で料金が高いから。
 最後に亡くなった8名の子供達へ。もっとやりたい事がいっぱいあったでしょう。私ごときが差し出がましいですが、どうか天国で好きな事をいっぱいやって下さい。どこにどんな言葉を探してもこれが精一杯でごめんね。ともすれば色んなクラブ活動で、野球他のスポーツで会っていたかもわかりません。

 これがもし私の子だったら、ペンを持つどころではなかったでしょう。今一度、ご両親の気持ち、深く察するに余りあります。
(2001年7月28日)


 またもや兵庫県で大惨事。やっとあの大震災から立ち直りつつある中、幼い命が……私はすぐ学校および野球部の子供達がどうなっているか不安がよぎり、電話で確認を取ろうとしましたが、連絡がつかず、朝まで待ちました。一度現場に行きましたが、私の所から車で10分かかりました。警察も警備も……そして救急車が行き来し、どこの病院へ行くのか、誰がどこの人か全く見当も付かず、パニック状態の中でした。

 思えば震災の時もこうだったと思います。明石といっても大蔵海岸は垂水・西区に一番近く、私が通院する佐野伊川谷病院には13名が入院しました。22日朝一番に病院へ行き、有瀬小学校の児童がいないか、各部屋を見ましたが知っている子は誰もいませんでした。今ペンを持っても文字が震え、痙攣がきてこれ以上書けません。

 今先進国サミットが開かれており、日本も出席しています。以前にも増して、今一度この国の実態は本当に先進国だろうかと疑問に思います。今もなお自分の身に降りかからなければ知らぬ顔。こんな中にあって、またいつどんな惨事があるやもわからず、全国民一人一人、国、自治体に徹底した危機管理体制が必要であると思います。
(2001年7月23日)


 私は今、有瀬小学校で登下校の防犯係をやっている。誰に頼まれた理由もなく、また自分の子が登校しているのでもなく何の縁もない。ただ有瀬にいるというだけ。しかし、私はこの伊川谷町有瀬が死に場所と思っております。

 子供達は私の事を不思議がり、今もはっきり何の為私がやっているかわからないようです。先生方から子供達に「桜井さんは頼まれた事もなく、自分の子供がいるわけでもないが、君たちの安全の為やってくれています」と話があったそうですが、それでもなかなか子供は理解できないらしい。

 本当に色々な性格の子供がいる。そしてびっくりするのはカギっ子の多い事。胸からカギをぶら下げているその多くは児童館で親の帰りを待つ。ある日100人ぐらいお母さんとお父さんどちらが怖いと聞くと、全員がお母さんが怖いと言い、またどちらが好きと聞くと、やはり母親と答える。何という父の威厳のなさ。昔の頑固親父はどこへ行った。

 また父と子が遊び、話し合う事も少ないという。そして父親としてしつけがなってない子供の多い事など、私は本当にびっくりする事ばかり。自分の人生と今の時代をはかりにかけてはいけないが……。

 自分が歩いてきた道は、震災後180℃変わった。人生を決して無駄にしたくない思い、障害と震災と難病と今も戦い続けながらも、この世に確かに桜井孝至の父、桜井義信がいるというその思いで、子供の為自分の為にやっている。先生方がこのメールを見れば、少しはわかってくれるかな?。

 思い起こせば6年前地震により生き埋めとなり、その後入退院を繰り返し、通院の身でありながら、全く一歩も歩けず車椅子の生活を送り、仮設では這いずり回っていた。ここまで生きて歩けるようになり、そしてスポーツまでできるようになるとは、自分自身夢にも思わなかった。

 今度は全国障害者スポーツ大会推薦状が神戸市から届いたが、まだ出場するかどうか迷っている。旅費もユニフォームも神戸市が出してくれるが、宿泊代は自分持ち。2泊3日の大会で、あの宿敵神戸コスモスの選手は一人もいない。砲丸投げ、ソフトボール投げ、走り幅跳びと3種目にエントリーして、出場は2種目。大会は13年10月27〜29日にある。我が人生に悔いなし。
(2001年7月12日)


 今回の大阪府池田市の小学生殺傷事件は「もし私の子供だったら……」と子を持つ親は皆そう思うだろう。最近は余り事件、事故には触れなかったが、今回の事は余りにも悲しく怒りが収まらない。人が人を殺める、それも何の抵抗もできない児童を。

 私は今も公園で野球を子供達に教えている。そして私の顔を見ると飛んで来る。他人の子でさえ一番かわいい時、私はそれがうれしく、夏も冬も共に日が暮れるまでやる。ずいぶん子供の友達ができ、またその両親にも大変喜ばれている。全くのボランティアで、食事も電車代も自分持ち。それでも子供が、その両親が喜んでくれる。本当に生きているとはいいものだ。

 伊丹といえば、阪神大震災の被災地でもあり、やっと立ち直りかけた時なのに。これが外国の犯罪であれば先ず第一級殺人罪で死刑、それも早期に決定するだろう。小泉総理大臣が法の改正を急ぐというが、それより二度とこのような事が絶対あってはならない。このメールは亡くなった子供達、そのご両親には多分届かないだろうが、私は天国まで届いて欲しいと思う。このかみひこうきに乗って。

 小学2年といえば、ちょうど少年野球の一番下のクラスで、私の教えている子供達と同じ学年と思えば背筋が凍り付く。犯人については触れない。もう人間として人間でない。そして日本には変な法律がある。精神異常者は人間でない、人でない。全部がそうでなく、今までの事件の中の精神異常者は法律の厚い壁によって守られている。こんな馬鹿な話はない。殺された者にとってはたまったものではない。また残されたその家族は悔やんでも悔やみきれない。

 またこの先真似をするような人間がいないとも限らない。命とは何だろう。自分も人も生きているありがたさ、健常者であるありがたさを本当に人類は分かっているだろうか。二度とこのような事件がない事を、心から祈ります。

 また今日も子供達と野球をする。たまに大学生ともやるが、ほとんどが子供達中心の野球です。その子供達もいろいろな性格がある。おとなしい子、すぐ怒る子、文句ばかり言う子、素直な子、礼儀正しい子……。それも小学2〜4年ぐらいまでで、小学5,6年生は塾が多く、ほとんど試合以外来ない。一番手間のかかる子供達、またその母親父親ともずいぶん知り合い、「うちの子の面倒を見てくれありがとう」と言われ心よりうれしく、またその色々な子供達と友になる。ほとんどの子は父親とキャッチボールさえできない。その手間のかかる子供達が大好きである。

 息子がこれを聞けば、きっと嫉妬心を抱くだろう。だから息子とはまた別に付き合う。通院と野球とこのかみひこうき。その中から色んな出会いがあり、子供より私が子供のようである。あと何年できるかしらないが、多分倒れるまでやるだろう。いつも手間をかけます。私はこれぐらいしか言えない。私のメールが最大の言葉と思っています。
(2001年6月12日)

 平成13年5月20日、神戸ユニバー記念競技場にて、第40回身体障害者競技大会。これは年齢・障害別に実にうまく分けてあり、何十種以上の区分となっている。もし障害者野球もそうならと、私ならずともそう思う人もいるはず。

 それはともかく、私は砲丸とやり投げに出場し、砲丸は優勝し金メダル、やり投げは2位銀メダルでした。しかし思うように砲丸の記録は伸びず、来年までに今以上の記録(12m余)出さないと、次は負けるかもしれません。また、その前に宮城県仙台市で開かれる全国大会で記録の良い選手が本当の参考基準となり、上位の者がパラリンピックへの道が開かれる。私は仙台で記録を出さないと、パラリンピックへの道はない。

 なぜそうまでしてスポーツにこだわるか。では、私からスポーツとこのかみひこうきを取ったら何がある、何が残る、何のために生きている。子供のため、自分のため、また今までお世話になった人に何らかのお礼がしたい、それができない今、震災復興住宅にいる。
 しかし名前ばかりで、この西区はほとんど震災の面影はなく、復興住宅に入居している人も地元の人が多く、元仮設の人もいない。私の住宅は築26年以上建つ県営住宅で、ほとんどの入居者は被災者でなく、近所付き合いもない。

 死ぬまで通院とスポーツはやる。それしかできないから。車の運転は医師から止められている。万一この手紙が先生の目に触れたら、スポーツはともかく車の事で大変しかられると思う。しかし、買い物、通院、試合、子供の所へ行くのに、バスや電車よりも安いため、やむを得ず車に乗っている。
 もう20年以上無事故無違反で、ゴールド免許であり、運転には細心の注意を心掛け、いつも事故がないようにと祈っています。そんな私ですら車は怖いです。そして車は嫌いですが、どうしても必要上やむを得ません。

 競技会の帰り、「来年また会いましょう」とお互い声をかけ、心の中では本当にこのメンバーで一人も欠けず会えるだろうかと思っています。そして知人にこのかみひこうきの事を話し、インターネットができる人は数人ですが、「桜井さん本当の話だったんですね。私は見ました。最初から全部読みました」と公園で言われました。

 公園には色々な人、小・中・大学生、社会人、老人と様々な出会いがあり、全部私から話しかけ、野球の練習や学校の話し、世間話をします。
 その人達が私の練習を見ていると、とても障害や被災、まして通院、入院をしていた事、それ以上に重度2級障害者とは信用しない。それほど私は他から見ると元気というか、少々変わり者だろう。しかしインターネットを見た人だけは信用する。それは私が自分の事を隠さず話し、またこのかみひこうきで紛れもない本名を出した事に大いに意味がある。ありがとうございました。
(2001年5月21日)

 早速はやる気持ちで書きました。4月28日の練習試合は5回までで2対1,私が先発、後は抑えのピッチャーで勝ち。晴れの全国大会は、残念ながら他のピッチャーで、2回戦はあのコスモスと当たる事なく敗退し、私の登板はなく、悔しい思いが今も残ります。相手は名古屋ビクトリーで10対9で敗れ、そのビクトリーですら知っての通りコスモスには歯が立たず、コスモスの93連勝。日本いや世界でも障害者野球のチャンピオンです。たかが障害者野球されど障害者野球……。

 もう私の出番などないと思い、辞めようと監督さんに……気持ち・気力が落ち込んだと話をすると、「辞める事は許さん。ピッチングの練習だけしろ」とそれだけで後は何も言わず……。ここで私が引けば私の人生はない。何のため震災を乗り越え生きてきたか、まだ私を必要とする人がいてくれる。そんな思いでまた練習に参加する。

 今思えばよくぞ踏みとどまった。またやる、生死を賭けて。そして今もなお、毎日2時間練習をする。時たま何のため、勝つ事に何の意味がある……そんな思いが頭をかすめるが、やはり通院の帰り練習する。私の座右の銘は「何事も生死を賭けてやる」。少し大げさかもしれない。しかしこの年齢とこの重度の障害を乗り越えるには、生死を賭け向かっていかなければ……。

 この障害者野球は、1級の人も4級の人も同じレベルで戦う。ほとんどのスポーツは年齢と障害別に分かれている。だからこそパラリンピックで障害者野球はない。いやオリンピックですら、野球の歴史はない。もし障害別であれば、私は一番であると思うが、敗戦の将何を語るで、そんな事は言っておれない。

 5月20日ユニバー記念競技場で陸上大会がある。この大会は障害別と年齢別に分けてあり、だからこそ砲丸投げ、ソフトボール遠投と2連覇3連覇出来る。砲丸投げはパラリンピックの種目にあり、もし勝てば2004年のパラリンピックへの道が開ける。それまで今年を入れ、4連覇しなければアテネへは行けない。その時58歳になる。でも私はアテネへパラリンピックへ行くつもりです。何が何でも4連覇しなければ。

 もしこの手紙を見た人は、なぜそこまでしてやるのかと思うだろう。私は震災で一度死んだつもりで、震災前と全く別の人生を歩いている。だからこそ、何事も死んだつもりでやる。皆さんはTBSのガチンコファイトクラブを知っていると思う。あの若者の中で体や心に何らかの障害がある人、また健常者ですら何らかの悩みはあると思う。その時この手紙が届いたら、死んだつもりでやれと言いたい。少し過激な表現かもしれないが、生死を賭けてやれば何でも出来る。私はそう信じ、今生きている事を神に感謝します。
(2001年5月10日)

 第9回全国身体障害者野球大会組み合わせが4月14日決まり、あのコスモスとは別ゾーンで、うまくいけば決勝で当たるかもしれません。しかし、その前に4月28日練習試合があり、その結果次第で私の先発が決まります。昨年は近畿大会でもあり、コスモス以外は余り実力の差がなく、決勝まで行けたが、今度は全国大会…果たして私の出番があるだろうか?もう冬の寒い北風の中、リハビリを兼ね一人ピッチングを一生懸命やってきた。あとは練習試合でどれだけ出来るか。やはり不安はある。息子のように練習すればするほど強くなる。私は現状を保つのが精一杯。

 若い人を相手にでも、いつも後はない、後は振り向かないと言い聞かせ、奮い立ってきた。運を天に任せるだけ。地震と私とスポーツは、切って切れない仲。あと何年出来るか分からないが、病院では死にたくない。出来うる事ならグラウンドで…そんな事あらば他人に迷惑がかかり、申し訳ありませんが、それほどスポーツに想いを寄せています。ああこれが健常者の時に、なぜ気が付かなかったか。何回も何回も言ってきた話してきた。それでも今も後悔している。

 今もなお、群発地震が続く日本では、どこで起きても不思議でないが、もう二度とあんな阪神大震災のような事は、日本でも世界のどこにおいてもあってはならない。今年も3月頃、芸予地震の余波がこの神戸でもあり、震度3で蛍光灯が揺れ、猫が一番早くタンスの裏に隠れ、私はどうする事も出来ず、ただじっと座っていた。必要最小限の物と金と時計とラジオは枕元にあり、いつでも持ち出せる状態にしてある。もちろん薬も1ヶ月分の用意をしてある。体験者以外でこれぐらい買う人は少ないでしょう。こんな事を言えば怒られますが、人は痛い目に遭わないと分からないのです。これは災害に限った事でなく、あらゆる事件・事故・犯罪また病もそうである。

 私は4月14日生まれ。つもこの頃は関西で桜はほとんどなく、パッと咲いてパッと散る。名前もそうだが、私のようであり、そうありたいもの。私はいつも同じ事を言っている。このかみひこうきの便りを、本当に心から待ち遠しく思っております。スタッフの皆様方のご苦労も大変と感じ、心より感謝しております。

 寺崎さんはどうしておられましょう。お元気ならば、それに越した喜びはございません。またよろしく。もしこの私のメールが届いたら、過去まで見てもらいたい。見てもらうだけ、読んでもらうだけ、それだけでも十分気持ちは伝わると思います。私のようなこんな人間もいるのだから、生きているのだから……。
(2001年4月16日)


 いつもながら浦嶋さんには、心より感謝しております。
 入院もわずか4日で無理に退院しました。春の全国軟式野球大会があり、宿敵コスモスに勝つまで何が何でもやるしかない。コスモスは万全で、全国に敵はいないというその慢心を何とかできないか。でも無理だろう。しかし中には私のように執念も意地に向かっていく者がいる事も、コスモスは知ってもらいたい。5月6,7,8日、場所は神戸グリーンスタジアムで、多分私が先発投手。最大の栄光である。

 話は変わりますが、上杉さんの若さあふれる様子がメールからうかがわれます。しかし、上杉さんは余りにも私のケガ、難病を知らないようです。他人は知る事のできない、この障害名と病名、震災後合併した難病の証明を入れます。
 私は先生が退院を止めるにも関わらず、自分の生きる証に大会に出場します。この先何年生きていられるか、何もしないで生きながらえても何の意味もないから。何か失えば何かを得られる。何事も失う事なくして、得る事もない。また自分の心に対した敵は、手のつけようがない精神面である。しかしその精神面で生きているようなもの。

 もう台湾やトルコ、インドの地震への、人々の関心は薄れており、まして阪神大震災など、人はいつまで言っているのか……。そう思う人もいる。今は家もあり、元気で働いている人もいる。しかし、私のような人間がいる。また、亡くなった人達さえ忘れられている。そして事件・事故・災害がある度に、人はパニックになる。人は体験しなければ、何も言う資格がない。何事も。なぜなら、自分の身に降りかからなければ、他人事のように思う。悲しい事である。体験してからでは遅い。それは私のいつもの言葉である。人々よ。もう少し自分に、人に思いやりと愛情、そして勇気を持って欲しい……。 被災者ではありますが、生きる事に全力を、今ある限りの命を。

 ぜひ寺崎さん、お便り下さい。ご迷惑でなければ。いつもながらかみひこうきさんには、お世話になり、うれしく思っております。
 退院後、ペンを持つ事が少ししかできなかったが、今は大丈夫。毎日バッティング、ピッチングを一人でやっています。約1時間ぐらい…それが精一杯です。ピッチングは近くの公園で、壁に当てる練習で、打者にどこまで通用するか、それは一球入魂で全力を尽くして。私の血糖値は300はあります。とても退院できる体ではありません。しかし、今やらねば先はないと思っております。今回のお便り、ありがたく思っております。
(2001年3 月13日)

寺崎千鶴さんへ
 6年目でも60年でも巡り会えたことは、本当に心より嬉しく思います。体が弱く、自信がないと書かれていますが、そんな事はありません。あなたは立派に生きています。今はどこに住んでおられるのか、察する事は出来ませんが、世界の中にあなたがいる。ボランティア活動をしたいが出来ない。その気持ちだけで十分です。無理に自分を責めないで。人はその気持ちがあれば、きっと何かに役立つ時がきます。ただ、私は精神的に強く、そうでなければ今日まで生きて来れません。あなたのメールが何よりの力になります。今までも色んなメールが来ましたが、若い人は続かず、今は同じ大阪の障害者と奈良の病弱な人だけです。もし気が向いたら手紙を下さい。

 私は今も腰が痛い。痛いというより疼く。また肩、手足がしびれ、時々痙攣も起こします。目の方もこうしてペンを持つのがやっと、ほとんどかすんでいます。大変書きづらい中、死ぬまでペンを持つ事で、私は書き続けます。その中にあって、この寒風の中、ピッチング、投球練習をしてます。点滴を受け、痛み止めを注射し、リハビリをして走る事は無理ですが、軽く駆け足は3〜4歳位の子と同じかな。投げる力は十分あります。春の障害者体育大会、野球大会に向け、同じ障害者より練習をしなければ…年齢も54歳ですから。体にはコルセットを着けてやります。 それでも、人はその人の才能、天分というのがありますよね。

 話は変わりますが、あなたはサンタクロースを信じますか?いると思いますか?。変ですね。54歳にもなって、こんな話をする人間は、まずいないでしょう。子供達にも同じ質問をすると、年齢にもよりますが、ほとんどの子はいないと言います。悲しいですね。
 夢がない。人は夢を持たなければ…夢は夢であっていいのです。わたしの口癖ですが、人は何かに向かって、前向きに生きていたい。それは何でもいい。その人に合うもの、できるもの。無理をせず、背伸びせず、すごく自然に。

 今回、かみひこうきさんを通じ、お便りありがとう。わたしは文章が話が、書いている内に次から次へと湧いてきます。その時ペンを持ちます。
 あなたは病弱ながらも、今は確かに生きている。こうしてかみひこうきにメールを出す事ができた。そして返事が来た。生きる証に。病に勝って下さいとは言わない。わたしが一番よく知っています。病と仲良くなって生きて下さいね。またお手紙下さい。
(2001年1月28日)

寺崎千鶴さんへ
 6年目でも60年でも巡り会えたことは、本当に心より嬉しく思います。体が弱く、自信がないと書かれていますが、そんな事はありません。あなたは立派に生きています。今はどこに住んでおられるのか、察する事は出来ませんが、世界の中にあなたがいる。ボランティア活動をしたいが出来ない。その気持ちだけで十分です。無理に自分を責めないで。人はその気持ちがあれば、きっと何かに役立つ時がきます。ただ、私は精神的に強く、そうでなければ今日まで生きて来れません。あなたのメールが何よりの力になります。今までも色んなメールが来ましたが、若い人は続かず、今は同じ大阪の障害者と奈良の病弱な人だけです。もし気が向いたら手紙を下さい。

 私は今も腰が痛い。痛いというより疼く。また肩、手足がしびれ、時々痙攣も起こします。目の方もこうしてペンを持つのがやっと、ほとんどかすんでいます。大変書きづらい中、死ぬまでペンを持つ事で、私は書き続けます。その中にあって、この寒風の中、ピッチング、投球練習をしてます。点滴を受け、痛み止めを注射し、リハビリをして走る事は無理ですが、軽く駆け足は3〜4歳位の子と同じかな。投げる力は十分あります。春の障害者体育大会、野球大会に向け、同じ障害者より練習をしなければ…年齢も54歳ですから。体にはコルセットを着けてやります。 それでも、人はその人の才能、天分というのがありますよね。

 話は変わりますが、あなたはサンタクロースを信じますか?いると思いますか?。変ですね。54歳にもなって、こんな話をする人間は、まずいないでしょう。子供達にも同じ質問をすると、年齢にもよりますが、ほとんどの子はいないと言います。悲しいですね。
 夢がない。人は夢を持たなければ…夢は夢であっていいのです。わたしの口癖ですが、人は何かに向かって、前向きに生きていたい。それは何でもいい。その人に合うもの、できるもの。無理をせず、背伸びせず、すごく自然に。

 今回、かみひこうきさんを通じ、お便りありがとう。わたしは文章が話が、書いている内に次から次へと湧いてきます。その時ペンを持ちます。
 あなたは病弱ながらも、今は確かに生きている。こうしてかみひこうきにメールを出す事ができた。そして返事が来た。生きる証に。病に勝って下さいとは言わない。わたしが一番よく知っています。病と仲良くなって生きて下さいね。またお手紙下さい。
(2001年1月28日)

 風吹かれて空見上げれば、月が見えます。ふるさとの私や一人ぽっちぐらしの。流れ流れの伊川谷、2001年もこれからも、死ぬまで多分一人ぽっち暮らし。

 息子はどんどん大きくなる。もう私より15cmも高い。しかし腕相撲はまだ負けない。多分同年代健常者でも、私に勝てない。上半身だけが力がある。だから砲丸投げも投手もできる。スポーツは30%の天分と30%の運と40%の練習がうまくかみ合ってできる。それでも3日練習しなければ、ただの人になるとは、あるプロ選手の話。学力も同じ事がいえる。

 息子は2001年3月に公立高校を受ける。本人は自信があると言う。私は不安一杯の中、それでも勉強しろとは言わない。ただ「自分の人生は自分で決めろ。どうしても判断がつかない時、父に相談しろ」と、それだけ言う。だが先生の話では、同年代で塾に行っている子よりできるらしい。でも私は合格発表があるまで、安心はしない。

 この30%の運というのが、人生の体験の中でいかに大事であったか、私はそれは偶然のものではない。その人その人の運と運命というものが、確かにある。短命の人もあれば、90〜100歳まで無事生きる人もいる。どちらが幸か不幸か、それはわからん。震災で障害と難病になった私は、運が悪いとは思っていない。むしろ今日までよく生きて来れたものだと思う。平成7年1月17日は明日の事もわからず、一日一日が生き地獄の毎日だった。 今日があるとは、夢のようである。ましてや息子が高校受験。息子に運があるか?。学力があるか?。もう息子は自分で一歩一歩切り開いていく。  

 今もなお、伊豆諸島の子供達は避難生活と聞く。中には進学する子もいる。震災に負けず、自分なりに強くたくましく生きて欲しい。その中で進学への道が開かれてくれる事を願う。  また次のアテネ、次の大阪(?)オリンピックを目指し、一生懸命スポーツをしている少年少女達の明日の道がある。

 健康な体があれば、人間はやる。やればできる。何事にも。今もなお子供達に不幸な出来事が多い。私は震災に関しての話が多いが、震災もいかなる出来事も、人災だと思う。 人災は防げる。人々がいかように対処していくか 。他人事と我関せずと自分の身に降りかからなければ、そんな気持ちが体験者ですらあり、ましてや何等の経験もない人では……。不幸な体験はない方がいいが、苦労は勝手でもしろと昔の人は言う。苦あれば楽ありと、色々な事につながる。
 私はいつも思う。この手紙は何人の子供達、障害者、被災者、難病のある人、また健常者の目にどのように映っているのか?。見て欲しい。ぜひ。 
(2001年1月9日)

 11月5日の試合、1回戦は和歌山チームが相手で、8対5でフェニックスの勝利。私が先発投手でしたが3回5失点で交代、それでも何とか勝ちました。2回戦は何とあの神戸コスモスで、私はベンチで応援しましたが、19対0で負けました。打席は1回戦の一度だけで、それは内野安打でした。1塁まで一生懸命走りセーフ。

 あとは代打で出るチャンスもなかったのですが、気分は爽快で、すがすがしい秋空の下、どのチームも一生懸命でした。中には五体満足の人も試合に出、重度障害も等級の軽い人も同じにやっていました。私のチームは一番高齢者が多く、10人中50代以上が6人。コスモスは何と60名近くで、それも若く障害の軽い人が多く、勝負に徹しているチームでした。私が入っても、たぶん試合には出られないでしょう。

 試合当日、コスモスの監督さんに会い、「桜井さんは、よほど野球がしたかったのですね」と声をかけられ、私は心の中で「そうです。もう後には引けない。今しか、どうしても野球がやりたかった」と叫びたかったが、笑顔で礼をし、最後の挨拶をしました。来年、また対戦したいものです。その時はコスモスといい勝負、いい試合が…できればと思います。

 今年もあとわずかですが、どうにか正月を迎えられそうです。今、警察、医療、プロスポーツ、芸能界、学校、保育に政治さえも混乱の渦の中にあります。幸いにも、障害者はその中にいない。障害者は健常者に追い付くため懸命の努力をします。生きてゆくのが精一杯です。
 国民があって国家がある。国民なくて、何の国家か。職を失い、あるいは被災し、また何らかの被害者になる時、その時こそ国が助けなくて、何のための国であろう。

 一人一人が思いやりの心と感謝の心、今五体満足で働ける、それは全人類が平和と進歩の道へとつながる。あってはならない事より、誰でもができる事。それは自分で見つける。果報は寝て待て。そんな事はない。寝て待っていたのでは…向こうから絶対幸せもいい事も来ない。しかし、どうしても自分で見つけられない時がある。自分はどう生きていけばいいのかという時は、誰にでも必ず一度や二度は来る。そんな時、慌てず騒がず、時に身を任せ、なるようになると開き直る。だが、最後は自分自身がなるようになる。何でもいい、死ぬ気でやる事…それが私の人生観。

 今またこれからも浦嶋さんと仮設の時来てくれた伊藤さんと電話、手紙の交流が続けていきます。ご両人とも二度も私に会いに来てくれ、今なお友情は続いております。互いに病と障害のある身、伊藤さんはボランティアの一員でなく心の友。ありがたい事に、この正月にも来てくれるそうです。春にはご両人の家にも伺いたいものです。
 2001年が良き年でありますよう、また1月17日だけでなく、全国民が備えあれば憂いなしの心構えが必要と存じます。
(2000年12月1日)

 都はるみさんの歌で、幸せはあの坂の向こうにあると、あの坂を越えたなら幸せが待っていると…しかし長年歌っていて、ある日、幸せは坂を越えても待っていないと気がついた。自分がつかみに行かなければ…自分でしなければ誰がする。

 私は神戸コスモスをあきらめ、同じ神戸の障害者や野球チーム、ミナクルフェニックスにやっとめぐり合いました。監督さんの話を聞くとあまり強くないらしいが、そんな事よりやっとチャンスにめぐり合った今年、あの暑い中練習した成果を見せる時が来た。いきなり近畿大会に出るコスモスは毎週練習しているが、フェニックスは全くしていないという。私は少し不安になるが、補欠かも…何もかもわからない。しかし、試合では練習してきた事がどこまで出せるか、生涯最後の賭けをする。それが11月5日午前9時、兵庫県明石第一球場で始まる。

 生きていれば、こうやって野球が出来る。震災後、病院で生死の間をさまよい、その後障害者となり、点滴・痛み止めの注射を打ち、難病の中でも試合に出られる。レギュラーか補欠かわからないが、間違いなく出られる。チームの監督さん、会長さんからは、試合の日に会えるのを楽しみしていますとの連絡がありました。これを11月4日午後9時に書いていますが、小学生の頃、明日遠足があると天気が気になって、そして胸がワクワクして寝られなかった時の事を思い出します。

 私の幸せは、子供の成長を願っている事、スポーツができる事、そして今確かに生きている事…それ以外は何もいらない。この3つが、私の最大の願いです。もちろんお金も健康な体も、再婚もいろいろありますが、それはできない相談です。

 畑中和さんは、マラソン車椅子レースで残念ながらトラック勝負で2位となりました。しかし本人はさわやかにインタビューに答えていました。
 畑中さんの顔は、毎年神戸で開かれる障害者スポーツ大会にいつも出ているので、以前から知っています。しかし、向こうさんは私の顔は知りません。彼女はうら若き乙女で、年は私の半分くらいかな?。来年はサインをもらおうと思っています。少し恥ずかしいが、そう決めています。

 目に見えない向こうの友に…生きてさえいれば幸せは何とかなる。努力すれば少しの運と少しの才能があれば、生きる力で、努力できっと何とかなる。そう思わなければ、人間などやっていけない。それが私の人生哲学。160cm、56kg、53歳の重度障害者がやるのです。どうぞ皆さんも、私に負けずガンバってね。
(2000年11月4日)

 私は今こうして書いていますが、47年間はまず書く事のない人生でした。それが今は、そしてこれからも紙ひこうきがある限り、書いて出していきます。幸か不幸か、被災障害者となった今、人生観、人への思いやり、生活すべてが震災前と180度変わり、もう少し自分の道を震災前に気がついていたら…と思っています。しかし、今からでも遅くないと思ってがんばります。私は私以外の被災者がどんな生活、人生を送っているのか、全く知りません。以前はぼつぼつ手紙も来ました。それも被災者以外の人から。今は全く誰からも来ません。誰か来ないかな。

 一人での野球の練習といっても、たまには子供達と一緒にします。もちろん子供には障害の事は言わないし、わかりません。その少年野球をやっている子供達は必死でやっていますが、私には勝てません。中学生ならともかく、まだ障害があるとはいえ、小学生には負けません。しかし、前にも書きましたが、今の子供達はボールを捜さず、すぐにあきらめます。私は20個あったボールを子供達にやりましたが、こんな古いボールはいらないと言います。これは親の教育、躾がなっていないからだと思います。帰る時、親達はベンツで迎えに来ます。これからは、もっと喜んでくれる子供にボールを上げようと思いますが…そんな子がいるかな?。

 腰が痛い中、今もなおピッチング、素振り、バッティングと練習をしています。速球、カーブ、スライダー、フォークと阪神の伊藤投手と全く同じフォームで投げます。バッティングセンターで打つと70〜80mぐらいは飛ばします。投球は多分70〜80m、遠投は40〜50mぐらいでしょう。ただ走る事だけは小学生以下で、5〜6歳の子供ぐらいの速さでしか走れません。
 でも、6月から始めて、これだけ出来ました。やれば出来ると思います。コスモスの監督さんも知らないでしょう。私はこの話を監督さんから聞かれれば話しますが、自分からは話しません。ただ待つだけです。私はそんな性格ですが、それでも練習はします。これ以上進歩する事はなく、ただ現状維持するだけです。年齢と障害の身ですし、またケガ、難病は悪くなっても良くはなりません。真冬は手足がしびれ、痙攣が起きます。尿の回数も1日10回以上、舌がもつれ、のどが渇き、そして目がかすみます。典型的な糖尿の症状です。体重も5月より4kg落ち、56kgぐらいです。それでもまだ、子供の為に生きてゆかねばなりません。

 今、バラリンピックで生きる証への戦いが始まっています。その中で日本では国会やプロ野球選手の不祥事が起きています。国会は国民の為の国会で、プロ野球選手は子供達の憧れの人であり、夢を壊してはなりません。でなければ、「少年よ大志を抱け」など誰が断言できるでしょうか。何らかの被害者、被災者に自分達はならないとおごってはなりません。
 猫がもう1匹増えました。チビタと名をつけた子猫で、走り回っています。
(2000年10月23日)

 シドニーパラリンピックが10月18日からあります。それに先駆け、女性の車いす800m走があり、顔は覚えているが名前が出てこない(日本人)が、堂々の2位(銀メダル)となりました。同じ障害者として心が熱くなり、参加したくてもできない障害者のみんな、いや健常者も心限りの応援をテレビの前でしていました。

 また今回のオリンピックの中では幾多のケガ、難病を克服し出場した選手がいました。本当にスポーツに国境はないと思います。中でも、視力障害の女性で、間違いがなければ準決勝まで行き6位入賞だったと思います。ちょうど私がメガネを外したぐらいの視力で、前の人のゼッケン、回りの人の顔がボーっと霞み、1m四方の明るさしか感じないその女性が、健常者のオリンピックで入賞したのです。
 私は金以上価値があると思います。目が見えずに走る―これは偉大な事で、想像を絶する練習、血を吐くような練習をしてきたからこそできたのでしょう。こんな素晴らしい事はないと思います。人間やればできる。やらずして何事もなしえない。年や病気や障害があっても、何もなくても元気で働ける人、神に感謝しましょう。

 10月18日から29日までの12日間、また視力障害の女性も出場すると思います。東海地方・伊豆諸島を離れた皆さんも、日本人の活躍を前に一喜一憂、胸を躍らせ、一人でいるのも多数でいるのも心は一つに応援している。後でビデオを見ると、アメリカのマーラ・ライアンは1600m決勝は残念でしたが、完走しました。次のパラリンピックはきっと金メダルでしょう。

 動物は人間といれば一人ぼっちではない。しかし人間は、幾多の動物といようとも、一人ぼっちとみられ、ある人は「寂しいでしょう。孤独で辛いでしょう」と、そんな事を言います。しかし、私は全くの難病の中で、一人でも何も感じません。私のような人生は、人は多分できないでしょう。それを私はやる。また、バッティング、素振り、散歩、時には砲丸の練習もする。腰、腕、肩、胸が痛い。明日の入団、選手を目指し、時にはアホみたいに見えるだろう。何の為、何の約束も保証もないが、それでもやる。近くの公園で、たった一人で。
 その公園でボールを20個近く拾った。すぐ目に付く所に、今の子供は何と物を粗末にするか。私の子供の時は、1個のボールを、日が暮れて真っ暗になってもみんなで探した。あふれる物資の中で、被災地へ物を送る人は少ない。必ずや明日は我が身を、心して生きていって下さい。

 コスモスの 風に吹かれて ピッチング
 神戸の灯 畑中和と 金メダル
(2000年10月3日)

 2000年9月15日、シドニーオリンピックが始まる。報道機関も人も「がんばれ日本」。しかし、その後でパラリンピックがある。どこにも載ってない。健常者は知らないかな?。私は遙かな夢がある。そのパラリンピックに、生きているうちに、この年齢、53歳でありながら一兆に一つの可能性があるなら、その時は57歳。生きていたい。夢のために。いや、何としても実現したい。ああ、若さとは健康とは、どれほどありがたいか。被災障害者のみならず、万人に知ってもらいたい。

 差別、嫌な言葉。これがいろいろなところで、人は知らず知らずやっている。本人が気がつかないだけ。それが少なからず少年事件、いや大人の中にもある。人を、自分の物差しで計ってはいけない。地球は自分のために回っているのではない。おそらくこんな事すら、少年少女、中には大人さえ意味が分からない人間が多い。また、いくら少年法が引き下げられても、何歳なら犯罪を犯してもいいという事はない。しかし、少年はそれなら何歳以下ですればいいと、そのような判断をする。何歳であっても罪を犯してはならず、回りの人間も年齢にこだわってはいけない。
 被災者とは、何らかの事件の被害者と相通じるものがある。被災は天災と思っている。それは被災者でない人。ほとんどの被災は人災と思う。だから事件の被害者の気持ちが、手に取るように分かる。事件被害者は、相手がいるからなおさら断腸の思いと、心より感じております。
 警察、政治家等が国民の味方でない今の世の少年達に、どのように諭すか?。しかしながら、少年達の被害者、残った加害者の家族、被害者の家族の永遠に溝は埋まらない。

 話は変わりますが、台湾・トルコの地震のその後は全く報道されない。北海道の有珠山さえ、今はどんな生活か、元の生活に戻っているのか?。伊豆諸島は全員避難している。そんな中にあってオリンピックどころではないではないか。でも日本人が活躍すれば、少しの心の癒しになると思う。がんばれ日本。私はスポーツとクイズと釣りが大好きで、これからも死ぬまでやりたい。やり続ける。
 思えば今日、今がある。今生きている。それだけで、妻なく金なく名誉もなく、ないない尽くしの私だが、生きる事に誰よりも貪欲で、一日一日時間が過ぎてゆくのが惜しい。そんな事言っておれない時間との競争である。もう後がない。この小さな体、160cm、60kg、年53歳で、病気とケガと障害の体。自分で本当によく生きてこれた。これからも卓球、砲丸投げ、野球と小説、手話とこんなに忙しい障害者もいる。確かにいる。この有瀬にたった一人で、いや猫とともに。被災障害者の皆さん、やる気さえあれば、それでいい。
(2000年9月10日)

 まだまだ暑い日が続く中、私は何とか生きてゆきたい。春夏秋冬は巡り来る。しのびよる年波も何のその。

 神戸コスモスの方は、私の事を同じ障害者で年は53歳ぐらいしか知らない。話では「桜井さん、あれだけできたら十分です」と、1回紅白戦に出ました。しかし「少し待ってください」と…たぶん断るに断れず、最高級のお世辞だったのでしょう。
 私は先方の気持ちは十分わかっております。多分、入団の話はないでしょう。障害者の野球といっても、日本一強く、国内で49連勝もしたチームです。私がそう簡単に入れるとは思っていません。ただ、私は生きる希望が、自分がどれだけできるかを試したかった。しかし、野球は団体競技で、個人の為でなく、やる限りはチームの為に勝たなくては…。その本人がいかなる障害でも、個人の為にやっているわけではない。

 私は投球、素振りを毎日1時間ぐらいやっている。いつ入団できるかもしれないし、また病気が悪化し年も取る。それでも練習する。バカみたいだが、それほど自分で決めた事にあきらめるという事を知らない。良い方にも悪い方にも、自分の決心は絶対曲げない性格。だから優柔不断ではっきりしない、愚痴を言う人間は嫌いです。私のように個性的な人間は少ないでしょう。
 私はいつでも震災をテーマに話し、かみひこうきを通じこうして身の回りの事、社会の事…色々と話す。今までも、そしてこれからも。やはり、震災被災者と障害者になった事で、人生観が180度転換したと思う。人生を何事もなく、幸せに全うする人がいるだろうか。いや、艱難辛苦を乗り越えた人に、最後の幸せがある。私なんかまだまだ生きて、これからでもやり直したい。何かを覚えたい、やりたい。人の為にも、自分の為にも…。生きてさえいれば、何かはできる。

 ある人が「北海道や伊豆諸島の火山より、阪神大震災の方が被害が大きかったね」と、私に言う。その人は、その発言でわかるように被災者ではない。災害は規模の大きさではなく、被災した人の心のダメージは、計り知れないものがある事を知らない。ケガ、病気は医師が何とかしてくれる。ガンでも早期発見なら、助かる率は高い。だが、精神的ダメージ、苦痛はカウンセラーでさえ、なかなかうまくいかず、元の精神状態に戻るには、かなりの年月が必要となる。
 過去の教訓とは何だろう。災害、事故そして少年犯罪…まったく生かされていない。いつものように、事が起きてからあわてる。私らの時は、子供を「生めよ増やせよ」の時代。今は子供が少ない。余りにも少ない。その中で、なぜ学校も親も警察も…その回りの人達が、事を起こす前に助けられないのか。

 今生死の中をさまよっているあらゆる人達に、私のいつもの言葉―生き続けて下さい。生き抜いて下さい。必ず生きていて、良かったという時が来ます。
(2000年8月23日)


 今なお地震の続く伊豆諸島、北海道もまだまだこれから再建の道へは長いと思いますが、いずれも他人事と思わず、明日はわが身…そんな心構えが必要かと思っております。地震国日本ですが、地震以外の災害がいつ来るか分かりません。過去の教訓はあるだろうか。いずれの災害も、時が経てば忘れ去られる。阪神大震災でさえ過去のものとなり、その教訓が生かされていないように思われます。

 また、今だ少年事件が続いています。私は最近、テレビ・新聞もよく見ます。また、若い時も新聞はよく読みましたが、30年前は今のような少年事件は思い当たらず、背筋が寒くなります。身震いするような事件の背景には、今の少年達に何かが起こっていることを感じさせます。ごく一部の少年事件であっても、決してあってはならない事件が多い。

   私の団地には不登校で学校にも行かず、中学生で金のネックレス、ピアスをして、髪も金髪ですが、私とはよく話をする。「中学だけでも行け」等、その他色々話をするが、団地の自治会はほったらかし、私には「相手にするな」と言う。それが今の大人の考えです。
 それでますます孤立し、事ある度に"キレル"という。一体何が"キレル"というのか。その親はものすごく怖い父と聞く。そんな怖い父ならば、なぜ親の言うことを聞かないのだろう。それは多分、怒るばかりで子供の話を聞かないから。また母親は、何でも買ってくれると…間違いなく親、学校に責任があり、事件を起こしてからでは遅い。しかし、健常者の両親がいるのに、私が一体何を言えるだろう。ただ話を聞いてやるだけ、私の出来ることはそれぐらいです。しかしながら、親も学校も団地の自治会も、話さえも聞いてやらない。

 私は「不良でもいい。嫌なら学校に行かなくてもいい。16歳になったらとにかく仕事をしろ。私は13歳から仕事をしている。公立の生徒でさえ、日本の総理大臣、アメリカの首都を知らない。どうして公立高校に入学できたのか、そんな人間もいる。仕事をすれば、また自分の新しい道が開ける。嫌なら中学も行かなくていい」と言えば、親達に猛反発を食らう。しかし、嫌々ケンカをしに行く…そんな義務教育で本人に果たしていいのだろうか。
 中学さえも出てない人間でも、立派に手に職を付け、社会人となっている。むしろ、中学・高校で成績も中より上のランクの少年(少女)達が不幸な道へと…。私は教育より社会道徳が分かる少年少女に育って欲しい。
(2000年8月2日)


 しばらくペンが持てず、体調の悪い日が続きました。腰、首、肩、足と夏でも痛く、うずきます。冬になればなおさらですが、冬だけ痛いという事はありません。

 私は自分から知らない人でもどんどん話し掛けますが、健常者は障害者の事、ましてやその中の震災被災者の事など、ほとんど知りません。もう震災の話は、誰もしなくなりました。私は尾を引きずっているのではありません。災害、事故、事件、難病…これらを人は避けて通れないのです。いつかはそれがあり、それを乗り越えていかねばなりません。災害で亡くなられた方々には言葉が見つかりません。しかし、後に残った人達には、ただ「生き抜いて下さい」としか言えないのです。

 この世で一番大切なもの、それは健康です。この世で一番欲しいもの、それは元気な体です。この世で一番嫌なもの、それは難病です。この世で一番やりたいもの、それは仕事です。今、私は欲しいもの、嫌なものを書いたが、それは欲張りだろうか。健常者の時ごく当たり前で、思いもつかないもの…しかし元気な体さえあれば全部かなう事。

 そんな中、神戸コスモスに入団しようか悩んでいます。近くの公園で試合をしている野球チームですが、監督さんさえ知りません。神戸コスモスとは、国内で49連勝もした障害者の軟式野球チームです。入団したいとは子供にも話していないし、話せません。きっと反対します。卓球大会ですら反対しますから…。しかし、私はやりたい。球拾いでも、補欠でも。私と同じ年代の人は一人いるだけです。あとは平均30代と若く、ついていけないかも…でもやりたい。どうしても生き抜くために。監督さんには色々話しました。

 愛情、忍耐、努力、辛抱、我慢、信用、友情、ふれあい、手紙、話し合う、助け合う、他人事とは思わない、間違いは直す。人生いくつになっても勉強です。
(2000年7月29日)


 今年も身体障害者スポーツ大会に出場でき、今さらながら生きている実感を、本当に心よりありがたく味わった。神戸市西区は人口23万以上の、神戸最大の区でありながら毎年ほとんど同じ顔で、今年も震災による障害者の参加はなかった。残念ながら私の知る限り、震災障害者はこの3年間見当たらない。本当に不思議に思う。それとも、自分で言うのも何ですが、私が何事にもチャレンジしているからだろうか?。障害者の仲間に震災による障害、それも第2級一種、介護付というと健常者はもとより、同じ障害の人もびっくりする。

 私の出る卓球、砲丸投げ、ソフトボール投げはいずれも5級以下で、毎日通院6年間、リハビリ、痛み止めの注射、点滴というと誰も信用しない。しかし事実は小説よりも奇なり。正にその通り人生体験をしてきた。そして参加した仲間には、「また来年も会いましょう」言って別れる。私は生きていたい。また、来年も出たい。生きるため、誰のためでない自分のため…オリンピックもパラリンピックも「一生に一度は出てみたい。それまで死なん」。人間の本心とはそういうもの、それを選手はマスコミに国のため、家族のためと言うが、本心は私と同じと思う。それがマスコミには言えない。自分勝手、利己主義と思われたくない。ついありきたりの話をする。
 あの有森さんはあるマラソンでインタビューに「自分で自分をほめたい」と答えた。あの話は今も心に残る。自分のためにやったその結果、あの言葉が出たのだろう。私も卓球は1回戦敗退。今度の相手は聴覚障害者で、昨年の優勝者。いくら私でも負ける。しかし、陸上の部は砲丸投げ1位、ソフトボール投げ2位と、今年も健在である。この重度障害の中よくやる、ましてメガネをかけて…自分を自分でほめたい。0.02しかない、水の中で目を開いたような視力そして脊髄障害とダブルの障害。それでもやる、生きている限り。

 それほど命とはありがたいもの。もしこのハンデがなかったら、命の尊さを知り得なかっただろう。文明の利器であるインターネットは正しく使えば素晴らしい。しかし、面白半分に使い、悪用することは決してあってはならない。目が見え、耳が聞こえ、話ができ、五体満足で、そして働ける命あればこそ。特に何の不自由のない普通の少年達、大人も政治家も警察もそうだが、心して社会に人類に人と人との調和、つながりを大切にしてもらいたい。
 私のこの手紙を見て、何か反応があったのだろうか。少しは役に立っているかな?。多分本名で出している人はないと思う。何事にも立ち向かう勇気がなくてはできない。
(2000年5月22日)

 神戸空港建設中止には39万人以上の署名が必要とのこと。多分39万には届かないかな?。神戸市民それも「被災者」は、特にあきらめている。「中止になるはずがない」と…私もそう思う。神戸人は、今までの事からすると復興の力、発展の力は(署名はするものの)神戸市に任せるしかないと半分あきらめがある。

 そんな世の中にあって子は国の宝と言い続けてきた、そんな日本の子に何が一体、今の世に不満があるのだろう。今だ少年達の事件が後を絶たない。加害者も被害者も少年達にある。どちらも悲しい、そして淋しい。そして一生心に残る。しかしながら、少年法といういつ出来た法律か知る由もないが、その鉄のカーテンに阻まれ、被害者の家族は生涯忘れることの出来ない事件となる。又、加害者本人、その家族にも生涯悔いが残る。
 それは誰よりも一番、私が分かる。なぜなら40年以上前、傷害事件で奈良特別少年院に不定期刑となり2,3年いたから。40年前には、たった一回の傷害事件で少年院送り。今は人をあやめても同じ2〜3年の不定期刑…一体どうしてこれが同じレベルか。日本は、福祉医療、少年法、災害被災者、法そして国民の声を一番大切にすることが出来ない国…先進国とは言えない。まして日本の警察は世界一と、つい最近まで信じて疑わなかった。しかし残念ながらその信頼も薄らぎ、子供達に問われたら何と答えてよいか?。「それは一部の人で、全員がそうではない」と、こんな答えでは今の少年達は納得しない。だからこそ国のトップが見本を示せと、多分そう言うだろう。

 今、私の子供が事件に遭い亡くなるとは、そんなことは考えたくもないが、もし万一あったら、事件の真相、加害者の名前や年齢、住所、家族構成、友達、学校を絶対知りたいと思う。それに裁判の日、判決の日…いずれも知りたい。しかし、そこには鉄のカーテン「少年法」があるとも知らないし、加害者ですら少年法のなんたるかも知らない。知っているのは裁判所、検事、弁護士そのくらいだろう。そんな中、加害者には少年法と馬鹿の一つ覚えみたいに、事あるたびに持ち出す。私が少年法の是非という立場ではないが、体験者の一人として、今もなお40年以上前の塀の中は覚えている。義務教育が15歳までなら、少年法も15歳以下としたらよいと思う。

 そして今もなおいじめがある。それを学校側も知って知らないふりをしている。中学3年の私の子の話だから間違いないと思うが、いじめる方もいじめられる方も家庭、友人、学校、先生と複雑な問題がある。今の日本国を作った最高機関に最大の責任があり、一日も早く、事件の起きる前に最善の手を尽くしてもらいたい。日本も神戸市も、いかなる事も子供達の将来にかかっている。
(2000年4月28日)

 いよいよ春本番です。さて、先日奈良から浦嶋さんが、遠い所友達と来てくれました。色々世間話をして帰られました。その話の中で、「神戸の景色は何と素晴らしい…奈良は寂しい」と。やはり県外の人は、テレビ・新聞で震災を知り、大変だと思ったでしょう。
 淡路花博では、1日平均43,000人強の入場者と予想を遙かに上回り、4月1日現在、80万近い入場者と聞く。私は神戸市の力は何とすごいと思う。多分他県の人は、明石大橋と花博、また震災被災地ということで来るのでしょう。私は一人でも多くの人が来てくれますよう、願っております。

 日本は狭いようで広い。そんな神戸の春の中、遠い北海道の有珠山では、春どころではなく、震災の時のように避難所そして仮設も必要と聞く。本当に、災害はいつどこで起きるか。噴火の前に避難できたことが幸いかと…。しかし家にはペット、家畜、畑、ホタテ貝と色々の難儀をそのままにして、避難する心中察するに余りあるものがある。私は北海道の皆さんが半年先か、1年先か、いつか行く時があるでしょう。神戸に…。とにかくがんばって下さいとしか言いようがないが、自然相手にどうがんばりようがあるか、今そんな先のことが考えられるかと…それが当然です。人間は夢を持ちたい。夢がなければ先に進めない。

 どうか有珠山近辺の人達…必ず時が解決します。その時まで、気持だけでも強く持って下さい。私は神戸の地震で生き埋めとなり、その後身体障害2級1種で、毎日通院中です。そんな私でさえ、夢も希望も、もっと生きてやりたいことがたくさんあります。それもたった一人で…そんな人もいるのです。
 このメールが北海道の人達に届くことを祈ります。私以外、いろんな人から励ましの言葉、手紙、寄付があると思います。私もその中の一人です。がんばれの言葉も励ましの言葉も、私は必要ないと思う。ただ生きてさえいれば、いつか夢も希望も湧いてきます。私に言えるのは、体だけに気を付け、生き続けて下さいということだけです。安っぽい同情はない。本人が家族が街が…生き続けて下さい。

 最後に新一年生、おめでとうございます。日本語で"ありがとうございます"が、一番美しい言葉と思っております。そんな話ができる子供に、元気でたくましく育って下さい。今一番大変なのは、子供達だと思う。北海道にはクラーク博士の銅像がありますね。"少年よ大志を抱け"。子供は国の宝です。世界のどの国の災害でも、やはり子供達が一番大切と願っており、神戸からの言葉とします。
(2000年4月9日)
 三寒四温、そう、春です。3月18日から半年間、「淡路花博」が 始まります。 震源地の淡路でやるのは意義のあることで、又、 全国の人も私も待っています。
 淡路は山と海と空気の澄んだ田舎の町です。あの地震から今日の様子を誰が想像したで しょうか。 神戸市をはじめ今だ復興途上ではありますが、一歩 一歩確かに前に進んでいます。もしこのメールを読まれたら、 ぜひ淡路へ。

 奈良の宮尾雅之さん、NHKのど自慢全国大会のグランド チャンピオンにもなった人です。これが本名であっても宮尾さん に何の失礼もないでしょう。歌の題名は「僕らが僕の為」だったかな?。私も含め全国の障害を持つ人達に感動と生きる勇気を与えて くれました。妻と娘さんが涙を流し、壇上に上がり、共にアンコールを歌いました。

 暗い事件の多い昨今、生きることは死ぬことより難しい。 又、日本アカデミー賞には高倉健さんが選ばれました。18年ぶり 4回目だとか。彼のコメントには深く胸に残る言葉がありました。 それは「私は生きるために40数年間、俳優をやってきました。」 という言葉です。人はいかなる道であれ、生きるために生きる、 それを本人自らも、又人様に対しても、神がくれた命です。大切に したいものです。
 私は今もなお地震の時の事は一度も頭から離れません。 医師は 私に「パニック障害」もあると言います。 自分でないと思っていても 他人には分かるのでしょう。 あのフランスのDICA(震災地特殊 救助隊)は日本の警察や自衛隊よりも早く、地震から僅か6時間で 日本の神戸に来ました。その時私は赤十字病院のベットの中で、 テレビを見て、「何と素晴らしい国があったものか」と感動しました。 それも命の尊さ、大切さを今更ながら感じます。

 シドニーオリンピックの代表(女子マラソン)に山口衛里さんが決まり ました。私も山口さんの大ファンです。やはり同じ兵庫の西脇工高で、 毎年淡路駅伝でアンカーを努め、懸命に走る姿に同郷人として 金メダルとは言わないが、自分に勝るレースをし、それが自然といい 結果につながっています。
 人はあまり応援が多いと、ややもすると 自分を見失います。私も卓球、砲丸投げ、ソフトボール投げと三種目 に今年も出ます。生きていたことの証明のため出るのであって、結果 など考えたことはない。 誰のためでもなく、自分のためなのだ。 シドニーに行く選手達もきっとそうだろうと思います。 私が子供に 今年も出ると言うと、「なんでそんな痛い思いまでして出るの」との事。 それは子供にも誰にも分からない。分かるのは同じ障害を持つ人達 と思う。子供に分からなくていい、障害者にならないと分からないから。 だから自分の命、人様の命、この世で一番大切なのは何がなんでも 命です。
(2000年3月17日)

 川本さんは家の中の事、仕事、子供の事、ご主人・家族の事…どんな事も全部話してくれます。私が全部自分の事を話すように。
 今年の風邪はひどく、浦嶋さんも川本さんのご家族も、また私も風邪をひき、皆が大変な思いをしましたが、不思議なのは、風邪をひいた時期も治りつつあった時期も同じくらいだった事です。不思議なのもので、縁がある時は何か知り合いに同じ事が続くのですね。

 オウム(ピーコ)もいますが、2月末に子供の知り合いの方から子猫(名前はミー)をもらい、共に生活しています。今は何かと便利で、エサも糞の世話もなく、助かってます。エサはいっぱい(1ヶ月分)入っており、糞は砂みたいな物で臭いを消し、砂状になるので人が思うほど世話がなく助かります。犬のように散歩もしなくてよいので、大変楽です。
 ミーはいつも私のそばにいます。一人で勝手に遊び、飽きると寝る。そして外が見えるように、窓の外に椅子を置いてやるとよく外を飛ぶハト、スズメを見ています。テレビも私と同じように見て、時々テレビの裏側をのぞきに行き、障害者と猫…いいコンビと生死を共に生きてゆきたいと思う。私の子供は飼い主に似ていると言う。私はカチンと頭に来るが(心ではその通りと思う)。
 子供の所にも犬がいます。ポメラニアン(名前はリュウ)で、子供(名前は孝至)には「お前に似てわがままで、ゴンタで、甘えん坊。人のこと言えるか」とやり返す。動物は人を裏切らない。人が動物を裏切る。

 こうして好きな事が書ける、話せる、そして人に読んでもらえる。その人がそんな人達がたった56名、3年間で228通。少ないし大変寂しい思いがする。本当に私のような人間が少ない。これはいい事と思う。私のような重度障害者は少ない。ない方がいい。あの20万被災者で、障害者スポーツの各種イベントで震災の為の障害者がいないのがよくわかる。かみひこうきさんでさえ56名と聞いて、私はヒトケタ少ないと我が目を疑った。しかし確かに56名、228通。それも3年間で…。
 今確かに文明の世の中、携帯電話、ファックス…色々と文明の機器があり、手紙のやり取りは少ない。しかし、いつまでも心に残り、又読み返す心のやり取り、それが手紙と思う。

 3月から淡路花博が開かれ、その他色んなイベントがあり、私もできる限り参加するつもりです。ほとんど花の事は知らない。だからこそ行く。私の目の前に明石大橋がある。あの道に春がくれば行く。写真コンクールもあるので、出品します。
 今までも西区のイベントで色々参加してきた。これからもやる。又スポーツ大会も始まる。いずれも出る。一人でも私はいつも何かを見つけ、何かをやっている。文通、小説、体験記、写真、手話そして今度は指文字。いずれも生きていく上で私に絶対必要になるであろう。将来指文字が必要と思っていたが、多分近い将来、後1〜2年で必要になるかな(失明した時)。
 私は医師の話など信用しないが、心の準備は必要と天運天命、運命と何が起きようとも、もうあまり怖くない。それよりも一日一日を大切に生きたい。子供に誇れる父になりたいとこいねがう。
(2000年2月23日)


 先日、川本さんからお返事頂きました。顔も知らない 者同士よくぞお手紙をくれましたと思っております。 今迄に「かみひこうき」を通じ、何通の手紙を出したことか。 その中には若い人もいましたが後が続かず、今は浦嶋 さんとこれから川本さんと始まるのかな。
 川本さんの手紙を読むと、なかなか人に話せない内容が あり、私の様な者によくぞ話し、励まし、又、達筆な字で 書いてくれましたと感激しております。 春になれば会って 下さるとの事。川本さんからお誘いの言葉が有りました。 楽しみです。

 思えばこれは6年目の震災体験記になります。震災から 2年位は、いつも死を考えておりました。 今日の私がある ことが夢のようです。「確かに自分は生きている」と思える 様になりつつあります。 これも「かみひこうき」があれば こそと思っております。
 今、何通ぐらいの被災者からの手紙が有る事でしょう。 私は自治会、病院(春は「障害者スポーツ大会」)などに 「かみひこうき」の事を誰となく話します。私も「かみひこ うき」と連絡しておりますが、今だ浦嶋さんと川本さん 以外知りません。
 又、前にもお話しました様に「障害者 スポーツ大会」では被災者は見当たりません。 以前、 長田の「被災地障害者センター」を紹介してもらいまし たが、私が電話で話しても、「かみひこうき」の事は勿論、 私の事も被災者の事も全く知りませんでした。私が どうしてかと尋ねましたが、向こうは返事に困っており、 そのまま話が終わりました。 又、被災地の中に たまたまあった「知的障害者センター」でも私の体験談は 全く通じず、大変残念に思いました。せっかく教えて もらった所なのに…。私も「かみひこうき」の事は初めは全く知らず、たまたま仮設に 来て下さった大阪の徳田さんの紹介で現在まで続いて おります。

 被災者からの、又、私の様に今だ通院している者の内、 一体何人位が「かみひこうき」と連絡をしているので しょうか。又、知っていても手紙を出さないのかな? 被災者に限らず何かの事件、事故、病気など、とかく 人生には色々な難関が待っており、いつも幸せな人生 とはいかないものです。そんな時、この「かみひこうき」 を通じ、書く事、話す事に心のよりどころがあると思って おります。
 被災者共々語り合う、そんな気持と勇気と決断力。私は 「かみひこうき」を待っております。スタッフの皆様いつも お世話になります。
(2000年2月10日)


 1月17日、各種イベントが有り、私も子供と二人で行きました。 何か違う様な祝の様なイベントで、子供が中心になっていました。人々にそれぞれの震災の感じ方があり、その後の生活感も千差万別です。この「かみひこうき」にしろ、精一杯書くこと、話すこと等、色々な話があると思います。しかし、その中で私の様に障害者(震災のため)で、今だ通院中の者がペンを持つと言う事は、よほど精神的、身体的に気力が無くてはなりません。
 だから春と秋の「障害者スポーツ大会」に震災による障害者が少ないのです。 被災者の友人は二人程いますが、震災による身障者が色々なイベントやスポーツ大会に参加していることは私は知りません。震災関連行事は年1回のイベントで、すめば何事もなかった様に又1年が過ぎます。 しかし、被災者は死の淵から生に帰って来た人達で、一生忘れることができないのです。

 私は今、ペンが止まっています。 川本さんの娘さんの事を思うとペンを持つ手が震え、先に進まないのです。私の生涯の体験でたった一つ見つけた事、それは家でも金でも車でも地位や名誉でもない。 それは命。人間命あればこそです。
 命は自分のもの、誰に遠慮なんかあるものか。そして私は人にも自分にも「がんばれ」とは言わない。がんばる事のできない人に、がんばれと、それが本人をどれだけ精神的に苦しめるものなのか。私自身、病院で仮設で幾度となく聞いたその声、嬉しいと思った事はなく、ただ辛いだけだった。しかし、その人には辛い顔など見せられない。 せっかく励ましてくれたのだから。

 たった一人で震災から3年間、買物、掃除(掃除などこの5年間)、洗濯などしたことがない。 しかし、買物、洗濯なども人のためなら少しはできる。
 誰一人来る事のない家、なんで掃除の必要があろうか。風呂が月1回、買物も月1回。 しかし、通院は命がかかっている。 そして別れている子供と月2,3回どこかへ行く。点滴、痛み止め、コルセット、障害者スポーツ大会と同じく用意しなければ動けない、歩けない。
 私はこの川本さんの文章の中に8年間の想いがある。震災を乗り越え、娘さんと共に歩み、1日1歩、10日で10歩、1年で365歩、8年で・・・私は5年間で何歩歩いたのだろうか。気持が前向きになった。 この「かみひこうき」を通じ、確実に強くなっています。
 川本さん、私がいます、娘さんがいます、早く大きくなれよと娘さんの仲間がいます。 気の持ちようで、人間はどうにでも変わります。

子も寝顔 見とれる母に 悔いはなし

(2000年1月24日)

 

 2000年1月、やはり私と同じようにこの「かみひこうき」を たよりに楽しみにしている人がいる。
 私は毎日午後5時30分からサンテレビのニュースを見ています。12年 1月6日の放映で、初めて見る「かみひこうき」のスタッフ。
 私はいつも手紙に書くのは、震災の事や子供の事や仮設で 亡くなった人達。 もう人々は忘れているだろう。体験者のみ ならず忘れようとしている。 決して忘れてはならない。

 風のそよぎを聞く事も、時の移り変わりを見る事も、又、 誰と話をする事もない、年の差こそあれ、そんな人達が、私の 様な人達がいる。社会の片隅でそっと生き…しかし今、命を感覚を 感じ、一歩一歩前へ、手話を本で覚えようとしている。難しい本では感覚が つかめない。しかし、私は「人は冒険を恐れていては人生は ない」と思う。 夢でいい、失敗でもいい、何かに向かって 進む。今生きているのだから・・・確かに今だに通院治療、 点滴、リハビリ。 もう53才、いやまだ53才、一生続く通院、 ややもすれば気持が落ち込む時がある。 そんな時、この 手紙を書く頭には子供の事が浮かぶ。こんな事ではダメだ と気を引き締め、一人踏ん張る。

 11年12月31日、子供の所へ行く。気分が晴れる。しかし 元妻とはいえ、3日間ほど世話にならなくてはならない。 気を使う、お金もいる。しかし、子供といると精神的に楽に なる。一時の安住の所である。3日間も泊まるのは年に 1回。もう子供の身長は私と変わらない。12年4月には 中学3年になる。震災からまだ5年、しかし子供は どんどん大きくなる。私はこの子の成長が一番の楽しみで ある。

 希望と夢を与えてくれる子供よ有難う。この 「かみひこうき」の事は全く知らないし、教えていない。 今はまだ早いと思う。本当に理解できるのは高校生に なった時。その時のため今迄の私の文章は、原文も コピーも全部残している。返事が来るとすぐコピーをする。 父はこんな気持であったと子供に伝える。
 この「かみひこうき」と私、誰人にも注がれるものではない 神の名において気長に前進するのみ。いかなる宗教も 心になく、人類が一人一人が心の中に神がいる。私は いつも、いつまでもそう信じてやまない。

北風も 何するものと ツエととも
(2000年1月9日)


 今私は別れた妻と話が合わず、子供の所へも行ってません。また子供からもたまに電話があるぐらい…もう10月はじめから妻子の所へ行かずじまい。妻は元々別れた人だからいいのですが、そのため子供に会う機会が少なくなり、自分からも行かないので、子供はどうしているか、元気か、無事に部活も勉強もやっているか、心ならずとも心配で、夜も寝られません。何かいい方法はないものかと悩んでおります。まあそのうちに元に戻るでしょう。父と子、親子ですから。

 この度写真コンクール、俳句、エッセイ、短編と神戸市西区の作品展に応募しました。何か一つでも入賞するといいのですが。このように通院、病床の中でも私は文通、かみひこうきと人が思っているよりは忙しいのです。近所の人は、私が毎日何をしているのか、不思議に思っているようです。しかし近所の人には、私の生活内容は話しません。私は自分が決めた道は決して曲げない。それがいい時もそうでない時も。
 冬は障害者スポーツの大会もないので、小説を書いています。暇ではありませんが、体は思うように動かず、手も痺れてますが、何もしないと気が滅入ってしまいます。またこの先いつまで命あるか、そんなことは考えず手話を覚え、同じ障害者として手話を通じて話し合い、また通訳にもと思うのが私の夢です。2000年にはぜひ覚えたい、そして2001年には手話が出来るように。50を過ぎ、頭の回転も悪く人より多分2倍はかかる。いや何年かかってもそれを目標に生き、頑張りたい。そしていつか手話で話し合える日が来る。必ず来ると……。ドナー登録もしていますが、死の後では私には分からず、やはり生きているうちにと、色々なことに向かっていき、自分の生きていたという証明をする2000年の目標。障害者となって2年が過ぎ、やっと自分の中で自分も障害者と受け入れる気持が出てきました。自分でいくら否定しても、体が障害者と証明するのです。

 話は変わりますが、また幼い命が天国へ…私にも子供がいます。しかし代わってやれるものなら、私が代わってやりたい。全国、全世界で幾多の若い命が亡くなる度、そう思います。私は涙もろく、感情が表に出やすいのです。前日の事件も、テレビの前で一人泣いていました。この世にたった2年、何と短い命…震災前の私なら心にもなく、他人事と何の感情も湧かなかったことでしょう。、多分病も災害も遭っていない人は、ああかわいそうぐらいで済みます。しかし生死をさまよった私は、命とは生まれて天国まで人の手でなく、また誰にも看取られず一人で死を…こんな悲しい淋しいことはありません。
"せめて誰かに看取られて。一人では死にたくない。一人で死んではいけない"(これはマザーテレサの言葉です)
(1999年11月28日)


 申し遅れましたが、10月中に奈良の文通相手の方のところまで行って来ました。自分でもよく行けたものと感心し、またその方もよくここまで来れたものとびっくりしていました。「何回も道を尋ね、探してきました」と言うと、涙ながらに喜んでくれました。私も心の中で 、これが最後の対面となるだろうと思いました。しかし、「また来年の春には来ます」と…これは偽りのない心境です。しかし、年々悪化する腰の病気もあり多分行けないでしょう。
 手厚い歓迎を受け、食事も作ってもらい世間話をして帰り、3時30分に出て家に着いたのは7時でもう真っ暗でした。行く時は道がわからないことを覚悟して朝6時に出て、10時30分頃に着きもうフラフラでしたが、私はそんな素振りは見せません。「今日は泊まっていけば」と言われましたが、そうもいかず(内心は帰れるかどうか、不安でいっぱいでしたが)持ち前の根性でたどり着くことができ、本当に自分でもよく行ったものと今でも不思議です。
 こんな話を医師も近所の人もおそらく信用しませんし、また私も話をしない。しかし紛れもなく行ったのです。それがこのかみひこうきがその証です。

 もう11月というのにまだ暑い。確かに今、地球上に何らかの変化があり、人類に警告を与えています。人類が戦争なんかしている時ではないのです。またいかなる災害が、どの国に起きるかも…。阪神大震災から5年目が来るが、体験者は昨日のことのように覚えています。しかし、社会はもうすっかり忘れています。いや、体験者さえ自分のことしか頭にないのです。雲仙普賢岳、北海道奥尻島…私も忘れています。
 今思うと阪神大震災はいかに犠牲者が多く、被害が大きかったことでしょう。これは全国民が知っているはずです。しかし今の神戸を知っているでしょうか。株式会社神戸(神戸市のニックネーム)というが、市内はもうほとんど災害の面影はなく、全く新しい街に生まれ変わり、これがあの大地震があった神戸かと、他県の人が旅行に来るとびっくりするぐらい変わっています。

 そして神戸空港がいよいよ着工しました。神戸市のどこにそんな金があるのでしょうか、いくらか国の援助があるとも聞きますが…。それにしても、恐ろしいほどの神戸市の力。神戸は復興どころか発展していくようです。
 また市営地下鉄湾岸線が、今も着々と工事を進行中で、駅名の募集もありました。私もいくつかの駅名を考えて応募しました。神戸空港さえ反対していましたが、被災者より先のある子供達を見ると、やはり必要でしょう。確実に職場ができますから。今13歳、14歳の子供が高校・大学を卒業して18〜22歳。空港ができるのは6年くらい先。市長はそこまで考えて着工したのかな?。しかし被災者にも子供がいます。私の子供は空港では働かないと言います。複雑な気持ちです。5年目を一つの区切りとし、国に市に頼るのではなく自分で立ち上がる一歩一歩、確実に前に前に子供達も焦らず、じっくりと神戸の力を信じ、自分自身を見失わないことを祈ります。

 私は夜寝られないことが時々がある。何のために生きているのか、それを考え出すとますます寝られず、とうとう朝になる。頭が意識が朦朧とする。このまま永久に目が覚めないかと…しかし目覚める。阪神大震災と私と子供…もうすぐ5年目の1月17日が来る。
(1999年11月9日)


 早速お手紙を書きましたのは、2つの事が気がかりだからです。
 一つは、またしても台湾で地震があり、前ほどは大きくないとの事ですが、マグニチュード6―やはり建物が倒壊しています。そして停電中と…。しかし今度は余り死者が出ていないと聞いています。それだけが幸いかな?。しかしながら、1ヶ月あまりの間に2回も大地震…復興どころか、毎日生きてゆくのが大変…などとこんな言葉ではすまされないのが現実でしょう。以前にもまして、ただ生きていて下さい。でも「どうやって生きろというのか」と言われるかもしれません。しかし同じ事を言いますが、私も生きています。いや生きてこられたのです。それは地獄の毎日の生活、闘病生活、これから先の前途多難…それは想像を絶する生活でしたが、生き方があります。まず精神的に絶対負けてはいけない強い気力、「生きていよう、何回災害が来ようが私は死なん」と妻子のため、家族のため…たった一人の人でも、私のように立ち向かって下さい。今の私にはこれ以上の言葉はありません。

 二つ目は、せっかく文通相手を探していただいたので、それを心の支えとすぐに先方に手紙を書きました。ご覧の通り、私は自分で言うのも何ですが、昔気質の堅い人間です。手紙でも話でもウソをつく事が出来ません。自分の気持ちが許さないのです。だからありのまま書きます。ただ一人、奈良の年輩の方とは今も手紙のやり取りをしています。私が1週間でも出さないと、すぐ心配して手紙をくれます。私が10〜20日も手紙を書けない時は、知っての通り腰が痛く(ヘルニア)、座っている事、またペンを持つ事も出来ません。両手、両足がしびれ、痙攣が起きます。ましてこれから冬場で、来年の6月まで乗り切れるかとやや心配ですが、何とか精神力で乗り切りたいと思っております。
 奈良の人は友達に連れられて、たずねたずね私の家まで来てくれました。涙が出るほど嬉しく感じました。しかし日本人は照れ屋で、初めて会う顔の人、いくら何十通の手紙のやり取りをしていたとはいえ、嬉しさの感情が表に出せず、ただ世間話をして帰りました。その人を見れば70歳前後。やはり病弱であり、身長も140cmぐらい。もちろん体重も30kgぐらいでしょう。よく神戸の伊川谷まで来れたものと本当に頭の下がる思いです。

 この二つ目の気がかりというのは、次の若い人達です。前に書きましたように、本当の事しか書けない私、若い人にも年寄りにも同じ気持ちで書きます。若い人にはウソも方便と、多少いい格好を書けばよいのですが。全部ありのままに書くと、最初は手紙をくれますが、そのうち途絶え、また私から手紙を書いても一回の返事も来ない若い人がいます。私が望んでいる文通は、心と心のやり取りです。それ以上何もないのです。また私は必ず電話番号を書きますが、一度もかかってきた事がない。そして必ず先方は番号を書かない。電話されると迷惑と思っているのでしょう。私は電話は受けますが、自分から電話する事がないのです。電話代がいるから、子供にさえ電話した事はありません。だから文通をしたいと思っております。
 でもいつか心のやり取りが出来る人がいると信じ、待っています。ただ、私の返事が少し途絶えるのは、ペンが持てないからと病気のため…若い人はこの年齢と病気のためというのが嫌なのでしょう。
(1999年10月24日)


 今台湾、トルコは神戸と同じ震災で明日への道がない。まさか阪神大震災のような事がこの世に起きるとは、いや日本の、又いつどこで震災があるかもしれない。体験者でさえ、トルコ、台湾の予想は出来ない。しかし、その国の人々の苦しみを私は痛切に感じます。
 私は今振り返り、こうして病の中話す事が出来るのは、やはり時間が必要だったと思う。あれから4年も過ぎたから…。しかし、病院への通院、避難所、仮設、そしてやっと人間らしい家が出来た今、私は地震、災害、事故、事件を避けて通ってきました。自分が生きる事が精一杯で、とてもそれどころではなかった。しかし、今も治療中の身でありながら、トルコや台湾の人達の明日への、いやせめて今日一日一日が再建への道へと…これがトルコ語や台湾語で書けないのが残念ですが、もし読む事の出来る人がいれば、少しは心の支えとなって欲しいものです。その人達に今ガンバレとは言わない。なぜなら神戸の地震の時もそうですが、現状でガンバル事が出来ないけが人、精神的苦痛、また命が助かった人達でさえ、今何をしたらいいのか、それすら判断のつかない状態と思う。

 私は今までのかみひこうきの文章を読んで欲しいのですが、残念ながら日本語が分からない人が多いと思う。せめて誰か一人でも翻訳出来る人が読んでくれたら…と思う。震災で助かりながら、今も通院治療、そして身体障害2級1種となり、地震当時何回死のうかと、3回も4回も自殺を試みましたが、たった一人の子供のため死にきれず、今は神が助けてくれたこの命を大切にしていきたいと一生懸命リハビリ中です。自分のため、子供のため、そして家族のため、両国の人達へ―街で義援金を募っていますが、私は少しではありますが、両国の人達、同じ人類のため募金いたしました。私はこの手紙が両国まで飛んでくれればと願っています。日本にも神戸にも両国と同じ体験をし、それ以上に今も障害で苦しみながらも懸命に治療している神戸の震災体験者がいる。その中でも数少ない重病の私です。

 これは励ましの言葉でも何でもない。ただ生きていなさい。今はそれしかない。生きてさえいれば、必ずや時が、時間が、いつか私のように生きていて良かったという日が必ず来ます。そして命が助かった人達、神に感謝して下さい。亡くなった人達のためにも。私はいかなる神も信仰していません。私の神は私の心の中にあります。いかなる人においても、心の中には神がいます。遠い日本国神戸から、私が再建の力を見ています。祈ってます。
(1999年10月15日)


 私にも遙かなる空に友がいる。手紙を書くと向こうも書く。そしていつも病院から帰るとポストを見る。今日は来てなかった。明日は来るかな。いやもう来ないかも…そんな不安の中手紙が来る。胸が躍る。この上もないうれしさがこみ上げてくる。これは電話にない感動、そして飼っているオウム(名はピーコ)に話をする。「手紙が来たよ」と…ピーコは首を傾げる。いや、私は毎日ピーコに話しかけている。私はアホだろうか。家には誰もいない。私一人…どうしようもない。やはりピーコと話をするしかない。どこからも手紙も電話も人も来ない。その中でたった一通の手紙、そしてかみひこうきの返事を心待ちにしている。その他何もない。通院以外、まるで鉄の箱の中にいるようだ。
 被災者や障害者の方はどんな生活をしているのだろう。本当に私と同じような人がいるのだろうか。多分いてもインターネットを見る…いやないだろう。では、かみひこうきを知らないのかな。私は被災障害者であれ、健常者であれ、何とか知り合いたいものです。

 9月22日、優良運転者の表彰式があり、私は銅賞です。胸を張って行きます。私は色々なスポーツ、イベントに参加します。家で苦しんでいても仕方ない、苦しくても腰が痛くても私は出る。それでも何もない時、家で一人で痛みと苦しさと淋しさと闘っております。これから冬になると、ますます左手左足がしびれ、感覚がなくなり辛い思いをしますが、いつも前向きの気持ちで闘っています。
 このかみひこうきは12年3月まで有効と書いてありますが、その年月までですか。もしなくなれば、心の拠り所がなくなります。また、どこかで私の文章を見ている人もいるはず…きっと悲しい思いがします。今、今日ある限り、被災者、障害者、健常者の皆さん、文通して下さい。どうか一人で悩まず、語り合いましょう。今幸福な人でも、その幸福な話を聞かせて下さい。また手紙とはいいものですよ。電話にはない、その人の気持ちがよく出ます。日本人が今忘れてる手紙のやりとり、今一度考えて下さい。
(1999年9月17日)


前略 7月私はボーリング大会(これは健常者も障害者も同レベル、ハンディなしの大会です)、また8月末安全運転競技会にも出場しました(これも軽自動車、オートマチック車、ミッション車と同じレベルで、交通法規にハンディはなく、3種の車が同じ競技をします)。
 ボーリングは16位、安全運転競技会は7位(ミッション車は私一人で警察の人はびっくりしていました)と健闘しました。これまでも必死の思いで陸上及び色々な大会に参加し、明日への生きる喜びをかみしめています。私はいつも参加者の人たちに「障害者ですか?被災者ですか?」と声をかけます。しかし残念ながらいまだ被災者はなく、私一人です。なぜ皆さんは参加しないのでしょう?。
 勝敗よりも「自分はまだやる気がある。やれば何かはできる」という思いです。障害は1級から14級まであり、私のように2級1種の参加者はいつも珍しく(中には障害別に分けてある大会もありますが)、通院治療中の参加は私ぐらいです。上位入賞者は等級4級以下、まして通院の人が参加することはない。しかしみんな一生懸命頑張っています。それがどうして被災者の方がいないのか?それとも私が知らないだけなのか。

 私は「ああ、あの顔、この顔も…」と前来た人達そしていつも誰かに話しかけます。いずれも障害を持つ人達です。被災者に障害を持つ人はいないのか、いなければ幸いですが、もし被災者で障害者の方がいれば、ぜひ私共々色んな事に向かって前進していきたいと思う。家にインターネットの設備がなく、知る事は無理ですが私の文章をインターネットで見かけたら、重度障害であれど、ぜひとも私に言って下さい。大会があれば、出場種目があれば私と行きましょう。男女、年齢、等級に関係なく、私は行きます。これが神に授かった、最後の奉仕の人生と考えます。
(1999年8月28日)


 春夏秋冬を問わず私の通院治療は、命ある限り続きます。それほどの難病ケガであり、障害の固定しない障害…。子供も一人いますが、離れて暮らし、月2〜3回会うのが楽しみです。子供の成長がたった一つの生き甲斐であります。それが今の私を支え、明日の希望が湧いてきます。そして私はいかなる人生があろうとも全力で闘います。この精神は誰にも負けず、父子とも乗り切っていく覚悟です。

 さて古川さんですが、ぜひとも文通、心のやり取りがしたいと思います。年こそ違え、心と心は通じ合えます。今日、文明の利器が発達し、ケイタイ、ポケベル、インターネットと色々ありますが手紙こそ本当の気持ち、想いを伝えることが出来ます。私の若い頃は文通が流行りましたが、今の若い人達や大人達でさえ、手紙を書くことが少ないと思います。

 古川さんには私の人生観、体験談を話したいと思います。又古川さんとはどんな些細なことも重大なこともお互い話し合っていきたいものです。色んな人生があなたに待っています。私はとてもうらやましく思います。あなたのことはよく知らないのですが、若さと健康があります。これは何億円積んでも買えるものではありません。この若さと元気な体、それで十分と思います。それは私にないのだから、たった一度の人生に向けて下さい。もし私と文通できたら、あなたの人生の一ページにして下さい。いつか「ああ神戸に桜井さんという人がいた」とあなたの心にいつまでも残ります。お手紙待ってまーす。

追伸
 埼玉に この人ありと ガフリエル

 古川さんへ 飛祐さんとはタレントのような、小説家のようお名前ですね。しかし、ご両親はそれ以上に深い愛情をもって命名したと思います。
 私もマンガが好きです。今でも読みます。特に『あしたのジョー』…多分知らないか?。私は涙もろく、テレビでもマンガでもすぐ泣きます。
 あなたはまだ22歳ですか。私の歳の半分にもなりません。「22にもなると…」という発言は少し気にかかります。「それだけの情熱を授けたのだから惜しみなく使え」いい言葉です。自分に対し最高の褒め言葉と思う。私もあなたの情熱には負けません。
(1999年8月1日)


 健常者の時には、本当に生きる目的があっただろうか。ただ仕事を、あとは遊ぶだけ。そんな何の変化もない毎日の生活…果たしてそれが本当に幸福への道だったか。そうではない。障害者となった今、私は何のこんな障害、健常者と同じように、同じように出来なくても何とか少しでも近づけるよう、何とか出来るようにとスポーツ、手紙、文通、人とのふれあい…またより一層子供とのふれあい。それは震災前に何一つしてないか、また全く思いもつかない事だった。
 やはり人間は体にも心にも少しハンデがあると健常者並み、いやそれ以上にと努力する。障害者だからと後ろ指を指されない為、弱音を吐かない為に。

 私を見る人はとても障害者とは信じない。また私も隠すつもりは毛頭なく、障害者として私なりに頑張っている。毎日通院しており、杖もついています。自分で言うのも何ですが、話しがうまく冗談も言います。病院では一度も暗い顔などせず、むしろ看護婦さん達をいつも笑わせています。病院でも人気があり、私の顔を知らない人はなく、向こうから挨拶をしてくれます。
 白のジーンズにグリーンのジャージ、そして白の帽子。車は白のカリーナ、それもマニュアル車。服装も毎日替えています。しかし体は激痛で立っているのがやっと。それでも痛いとか苦しいとかしんどいとは医者にさえ言わない。これは私の性格もあるが、人に痛い、辛いと言っても治らない、痛みは止まらない。それなら内心は泣きながらも、人には笑っていようと決めています。

 しかし、本心は元に戻らない身体と分かっていながらも、元の身体になりたいと、どこか遠くの山の上に行けるものなら大声で泣きたい、叫びたい、助けてくれと思いっきり泣きたい。泣いて泣いて血が出るまで泣きたい。しかしそれをグッとこらえる事は本当に疲れる。
 幸いにもこの父の気持ちが子供に分からない事が救いです。「僕のお父さんは障害者でもスポーツで金、銀、銅のメダルを4回も獲っている」と尊敬しています。たとえ障害の身体であっても、私はチャレンジしています。どうぞ全国の障害者、被災者の皆さん、何か自分で出来るものを見つけ、チャレンジして下さい。
(1999年7月20日)


 身体障害2級1種―これは一生元の体にならない証です。立っている事もできない状態です。しかしながら、必死の思いで治療しています。元の体にならなくても夢と希望は捨てません。その為リハビリ、治療と頑張っております。

 今日病院から帰ってみると、埼玉の古川飛祐さんから手紙が来ていました(とびゆう?ひゆう?いずれにしてもペンネームでなければ、何としゃれた名前と感心します)。
 腰の方は現状維持が精一杯です。このヘルニアという言葉はドイツ語かな?。私の障害名は肋軟骨骨折、変形脊椎症です。肋軟骨は二度と元に戻らない軟骨の変形(震災で生き埋めになった為)で、脊椎症は脊髄までいくと一生車椅子の生活です。その一歩手前で持ちこたえてます。

 私の家にはインターネットの機械がありません。自分の文章を一度も見た事がなく、それでもこの思いが日本中に世界中の何人かの人々に伝わっている事を自分の心の支えとしています。正しく使えば身体の障害のある人、また健常者にもこんな素晴らしい通信手段はないでしょう。

 埼玉に 国の宝と わかちあう

 生きてこられたのだから、これからも神に感謝し、自分への想いやり人への想いやりを持つ。それに対し何の見返りの思いはなく、たった一人で生きている人、また家族で生きている人、生きている事への感謝の気持ちが大切です。さりとて私はいかなる宗教も信仰ともなく、神は私の、一人一人の中にいます。そうある事を信じます。

 私は子供が好きです。自分の子は元より、子供そのものが好きです。ある日幼稚園の子が「本当にクレヨンしんちゃんが今でも幼稚園に、東京の方にいるの?」と聞くので、「いるよ、埼玉という所に。今も、いつまでもいるよ」と答えるとその子は「大きくなったら会いに行く」と言いました。
(1999年7月9日)


 また浦嶋さんからのお便り、本当に嬉しく思います。昔はきっと名門の学校を卒業された方でしょう。私は乱筆でひらがなばかりの文章ですが、出来上がるまで本当に心がこもっているか、伝わっているか、文章がつながっているか何度も読み返しします。
 私は電話することもかかってくることもなく、手紙を出し返事をもらえるのは、浦嶋さんとかみひこうきだけです。これを活字にしインターネットに載せることはお金もかかり、大変な作業だと思っております。このボランティア活動、災害給付とか障害寄付金とかあれば、これからの被災者、今の被災者、障害者と世界と日本での輪がつながるでしょう。
 何とか明るい話をしたい、何とか前向きに生きたいと新聞・テレビを毎日見ているが、やはり三面記事の力が大きい。目を見張る事件が余りにも多く、しかしながら世界に目を向けると何と日本は平和だろうと思います。民放、スポーツ番組は視聴率が上がれば金が入る。大事が起きるまでネタが尽きないよううまく引っ張る、そんなことをしていいのでしょうか?。見る人が多ければテレビ局がもうかるからいいのでしょう(報道の自由は憲法で保障されています)。書いていいことと悪いことの区別ぐらい小学生でも出来ます。

 私自身信じられないことをまたやってしまいました。それはテーピング、コルセット、痛み止め、注射で治療中という状態で、何と障害者ソフトボール投げ、砲丸投げに出場し、ソフトボール投げ1位金メダル、砲丸投げ2位銀メダルを獲得したのです。また10日間ほど激痛でのたうち回ったが、どちらも全くやったことがなく、ぶっつけ本番の快挙。障害別に分けてあるとはいえ、1300人以上参加の大会で、またしても自分で自分をよくやったとほめたい。俺は死なんぞ。
(1999年5月31日)


 拝啓 初夏の香りが風邪に吹かれ、ああ又今年も夏が来る。今年も生きている。そんな想いに心揺らぐ私は、若き日の自分の姿が卓球への想いにある。少年の時に途絶えた卓球が、30年以上の時を過ぎた今日、震災で障害者となり再度試合に出られるとは夢にも思わなかった。又子供も私が言うでもなく野球を止め、卓球の道へ行き部活の練習で頑張っております。
 今回全国大会の夢は、昨年の決勝で闘った相手に敗れ3位となり、残念ながら果たせませんでした。しかし悔いはなく、出場できて3位になり、まだ少しでも動け、気迫もあり、自分でも良くやったと思っております。

 今世界でも日本でも命の重さ、健康のありがたさは主義主張の違いはあれど、何の上下があるでしょうか。人類、世界平和、人と人とのつながり、心の交流がどんなに大切なことか。震災体験、障害、難病で苦しむ人々、世界中に戦争があるのは非常に悲しいことです。私は言いたい。命があればこそ、健康であればこそと。何事も人類がしたことで皆が心豊かになるよう祈ります。
 夏の小鳥やツバメが鳴きながら遠い旅から帰ってくる5月、人間と同じようにケガの鳥や元気で帰ってくる鳥がある。今年も元気で帰って来いよといつも外を見る。私も眼下に広がる明石海峡大橋を超えて、飛べるものなら一緒に海を越えていきたい、飛びたいと思う。私もああ鳥になりたい。大空を思い切り飛びたい。そのツバメ達も私を置いて秋には又遠くへ行くのだろう。「又帰って来いよ」そう呼び掛ける。
(1999年5月6日)


 かみひこうきを通じ、浦島さんから何度もお便り、又、私や子供へとチギリ絵のすばらしい贈り物、心より感謝しております。もう春もたけなわで、裏の桜がきれいに咲いております。私も気持だけは元気です。しかしながら体がついて行かず、歯がゆい思いです。
 今年も「障害者卓球大会」に出場したいと申し込みましたが、はたして出場できるのでしょうか。昨年より病状が悪く、ますます歩けず、毎日が痛みの中で、卓球どころではありません。だが出場しなければ、今年こそ優勝しなければ、全国大会への夢が消えてしまいます。点滴、痛み止め、テーピング、コルセット、薬と万全の用意をして、医者が止めようが、子供が止めようが出場したい。出なければ夢が、自分の思いが消えてしまいます。たとえ負けようが出場したいのです。そして、また10日間ほど一歩も動けなくなるが、それでも出場したい。自分の為に。これは私の勝手な願いだろうか。
 健常者の様に働く事も旅行も衣服も食べる楽しみも何もなく、毎日が通院だけの人生。はたしてこれだけで生きてると言えるのか。いや、私には中学二年の子供がいる。桜井家のたった一人の子供だ。そのため無理な事はできないとがんばっている。今なお病院と家の往復だが、年一回のチャンスに私は出場し、そして全国大会へと進み、昨年できなかった夢を実現したい、できることなら。

  1. 夢想い 子供の顔と 白い球
  2. 我が子供 なればこそとめ 気が揺らぐ
  3. 子が父に 気遣う気持 我が子かな

(1999年4月13日)


 私は以前より腰痛(ヘルニア)がひどく、今ものすごく痛い。その中で書く。
 西区に医療センターという国の機関があります。そこで内科(前立腺)、外科、腰、眼科と検査、リハビリ、点滴、注射、痛み止め…そしてその中で一人生活する事は想像を絶するものがあります。この事は何回も書いていると思いますが、書く事が少しでも自分の気持ちを和らげるのです。私にとって生きる事の難しさ、そして酒にも溺れず(元々飲めないが)、よく頑張っていると自分でもびっくりします。
 通院していると色んな患者がいます。私は自分からよく話しかけます。本当にお互い辛いなと、そしてその人はガンであると私に言います。年は私と同じくらい。それ以上病気の話はせず、別の話にする(私の頭の中で、いっそガンにでもなって早く死にたいと思うのは、決して無理からぬ事と思う)。しかし、生きる事の難しさを知る。私は生きる事の喜び、楽しさがああ生きていて良かったという日が(私の強運が尽きるまで)来るまで生きる。

  1. 昭和22、23年頃、兄の話では大病を患い、生死をさまよいそのまま放置されていた。兄(8人兄弟)一人ぐらい何とかなるから病院に連れて行けと母に言ったらしい。母は渋々連れて行き、命は助かったそうだ。
  2. 昭和28年、昔田んぼの肥溜めに落ち助けられた。
  3. 昭和32年、自転車で川に落ちて岩にぶつかり、助けられた。
  4. 昭和38年、バイクで車にぶつかり、意識不明となりながらまた助かる。
  5. 昭和43年、仕事場でひどい下痢、腹痛、めまいで15日間生死をさまよい、後助かる。
  6. 昭和60年、結核で倒れ急病で入院するも、肺に穴が500玉くらい2つ空いており院長の話では手遅れと言われながら1年半入院後助かる。
  7. 平成7年1月17日、地震で生き埋めとなりながらまた助かる。

 何と生きる事も私にとって難しいが、死ぬ事の難しさを知る。今の若い人達は、愛の本当に意味を知っているだろうか。それは哀れみ、自愛、献身、経験、思いやり、赦し、同情、優しさ、奉仕、感謝、親切。
 愛は口で言うはやさしいが、一つ一つでも実行する事はその一つ一つが愛であるとこの証し。
(1999年3月27日)


 拝啓 もう和歌山では梅が咲いている。しかし神戸は梅も春もまだまだ。この冬を乗り越えれば、春は幾分気持ちがさわやかになります。
 奈良の浦嶋様から大変立派な「ちぎり絵」を送っていただき、我が家の家宝として額に入れて大切に飾っています。いつでも見ています。

 自分の運命は自分か一番良く知っています。もう2年も前に臓器提供を決意し、それを実行しました。それがこの証明です(注:臓器移植提供意志表示カード及びアイバンク登録票コピー同封)。これは名誉も地位も関係なく無償です。それにも関わらず決意するという事は、本人は元より家族も重大な決心です。これが本当に国の行政機関に医師会がどんなに大変な事か分かっているのか。
 今テレビを見ると臓器提供の問題で、国、行政、医者の間で話し合っているそうですが、人の脳死の判定は私には分からないが、少なくても提供した本人、家族がどんな思いで決意したか発表していない。家族、本人はたとえ僅かでも脳が動いていれば、そうであっても生ける屍となるぐらいなら、本人の臓器の提供で人の命が助かるならと生ける屍となり、本人も苦しくまたその家族もその世話をする事がどんなに大変か(大金持ちならいざ知らず)。だからこそ提供したその人が社会に復帰できる事は回りのみんなが、何より本人が望んでいる。それが臓器提供である事を国も行政機関も医者も提供者の身になって考え、最高の答えを出してもらいたい。
 臓器提供意志カードは20万人以上登録しているが、現実はそのうち2.6%の提供者と発表している。そして今回が初めての手術と聞く。何とも遅い。そしてなぜ提供者とその患者の生死に、必ずや新たな生命が生まれる。成功を祈る。

  1. 別離 私は子供の家から帰る時、決して振り返らない。涙は見せたくない。
  2. 精神 僻遠。子供と私。
  3. 散歩 杖を使い、わずか5分ぐらいの散歩。ふと見上げると、屋根の上に猫が寝ているようだ。語ってくれ、お前にも悩みがあるのか?
  4. 生きていなさい、星が、太陽が、山がそして明石海峡大橋が私にささやきました。

(1999年3月1日)


 私は今孤立無援の中、たった一人で難病と闘っている。子供は別れた妻の所にいるので、月2、3回会いに行くと子供も私も嬉しい。しかし日本人は照れ屋で、外人のように言葉でうまく言い表せない。その分、どの親子にもない程よく話をする。学校の事、友達の事、勉強の事…まるで友達のように。人様の親子は、特に中学、高校になると特に父親の方とは余り話をしないらしい。私の所は普段離れているせいか、本当の親友のような話をする。親子共々いろんな話をできる事が生きがいです。

 そして私も何とか明日に、未来に向かって頑張ろうとする。しかしややもすると、その信念が薄らぐ。あの地震の時助かって良かったとみんなが、そして自分もそう思った。しかしもう5年目を迎え、いまだ死なずただ生きているだけ…ケガと難病と。けれどどうしても生きて行かねばならぬ。自分のため子供のため、そして今まで応援して下さった方、今も励まして下さる方のため、今死んでは申し訳ない。死にたくない。私はまだ52歳だが、神よ仏よキリストよ、どうか後10年で子供が社会人になるまで、そして欲を言うなら子供の妻の顔を、孫が見たい。欲張りだろうが、誰もが普通に生きる道、それが私にはどれほど幸福な事か。

 人生健康で働き、妻を持ち、子供を作る。健常者では当たり前の事。しかし私にはどんな大金を積まれても、子供と健康は引き換えにできない。悲しいかな、震災のお陰で私は生まれ変わったような気がする。それが震災前に少しでもわかっていれば、少しは違った人生があったかも。妻とも子供とも別れるような事はなかったはず。

 今なお暗い世、私だけでなく病気、ケガいろんな苦しみがある。しかしこの世は人間が作った世の中、人間が何とか頑張り全国民が一人一人全国につながる。
 今もなお 生きる証の 筆を書く

 もう一度 会って見たいや 銀メダル
(1999年2月10日)


前略 便りがないのが元気な証拠と言いますが、私はこのかみひこうきが飛ばなくなった時がたぶん天国へ…生きている限り右手が動く限り、いや左手でも私はかみひこうきがある限り、人間の証明として出します。と前から書いていましたが、病状、体の具合が悪くなかなかペンが持てませんでした。でもこうしていつまでも安否を気遣っている人がいる中、必死で書きます。

 私の春とは、病気・ケガの痛みが少しでも和らぐ時です。もう5年目のあれから、震災からいつまでも痛いと言っているのが自分でも嫌になり、医師・先生方も半信半疑で聞いている。私の訴えを。ますます落ち込むが、こうして唯一つのかみひこうきが心の支えとがんばり書きました。
 子供はまだ中学一年、もう少しせめて高校卒業まで、一人立ちするまで生きていてやりたいと今はもう気力しか残っていませんが、それまで何とかがんばりたいと思います。

 未だ震災で、病気・ケガで、またそうでない人も若い人から年寄りまで自ら死を選んでいく人が少なからず全国にいます。私のような者でもまだ死にたくない。もしこれが目に留まれば、今少し自分の人生を振り返り、自ら死を選ぶということは、神に対する冒涜と考えております。若者よ、お年寄り達、私に勝て、がんばれ。私も。
 この世にも、神も仏も、クリスマス

 人の世の情にふれて、正月

 会いたいや、想いはからず、七草の

 本名で、生きる望みも、春がくる
(1999年1月1日)


   1998年4月12日、朝8時(被災者、桜の花も、桜かな)(我子供中学生、まっすぐいけよ)私は万感の思いをこめて決心し足は卓球会場と向う。やがて交流会館につくとそこに200名以上の障害者がいる。大会あいさつの後、9時30分、いよいよ試合がはじまり自分の番がくる。ああ私もこの人達の仲間と痛感し、今まで自分は障害者でないと自分なりにいいきかせてきたが、まぎれもなく仲間である。私は何と一回戦、二回戦、準決勝、決勝と勝ちすすんだ。いよいよ決勝戦である。その時ふと私の頭にかすめた物があった。それは今まで私と戦い負けていった人達の悲しそうな顔、勝負事は相手に同情した時から負けである。(小学、中学、16才以来のラケットをにぎりその時も準優勝である京都府立大会、又少年院の大会、35年前の記憶がよみがえり)やっぱり二位準優勝である。
 私は心が晴れた思いがする。昔はくやしく泣いたが、今は二位で十分よかったと思う。相手の勝った人のうれしそうな顔、又自分もここまでやれとるとは思わなかった。障身の上、近視、乱視、又遠視であり試合の時、近視、乱視のメガネであり、手元にくるピン球はオレンジ色しか見えず二重三重に見え、ほとんど勘で打っていた。それで準優勝なら自分でたいした者だと思う。その後家で記念に写した私のすがたです。お送りします。
 このようにいつも前向きのたいせいで、又別れてくらしている子供にも(今度新中学一年生)お父さんはこのような難病、ケガ人であっても人は、人間はヤル気があれば、それは社会にでても、中学生活においても、スポーツにおいても、いつも、人への思いやりとヤル気、向上心で何とかなる。人は落ちこむ事はキケンであり、自信過剰になる事も、もっとキケンであり、自分にあったスポーツ、自分なりの勉強のしかた、又社会人となっても無理をせずマイペースでやれといっていいきかせ、せめて父に負けないような気迫だけはいつももってもらいたいとねがう。
 又、被災者の皆さん、気持だけでも気迫だけでもいつもあれば人は病も生活の困難もいつかはなんとかなる。又、人は何かをしようという気持がかならずわいてくる。私ともどもガンバレとはいわん。とにかく生きてさえいれば、いつか何とか、いつかああ生きていてよかったと思う時がかならずくる。
 最後にボランティアの皆様、本当にいつもおつかれさまです。
(1998年5月10日)


 私は何回も手紙を書き、心のよりどころとしてまいりました。また前記の通り、身障者第三級一種の介護付きです。毎日が通院、リハビリ、点滴といまだ治る気配もなく、医師の話では手の施しようがないと……。それでもまだ生きたい、この世に未練がある、生きてさえいればと、たった一人でも生きている。死ぬ事より苦しい毎日、それでも私が生きているのは、別れた子供(今度中学1年生)がいる元の妻の所に、月に何度か会いに行く。私はその子がいるだけで生きようと通院し、また精神的にこのまま死んではいけないと今日も生きる。

 それでもややもすれば気持ちが持たない事が時々頭をかすめる。その度子供の姿を思い浮かべる事にする。そして子供に相談した身障者の卓球大会があり、私はそれに申し込み、出場しようと……。私は死ぬ気で試合に出る、そうでなくてもおそらく倒れて3セットできないだろう。救急車を呼ぶのは間違いない(過去3回倒れて呼んだ)。その度生き返り、たぶん神が生きよと言っているのだろう。子供は絶対出るなという。

 私は人以上に親バカであり、今まで何でも子供の言う通りしてきた。しかし、今度の大会はいまだ出場か欠場か決断がつかない。なぜなら、私は中学時代京都の大会で2位の経験があり、身障者となった今でもやれると。いや是非ともやりたい、それが生きている証と思う。それで万一の事があっても、私は悔いはないのだが、子供があれほどお父さん止めなさいと私に言い、倒れたら子供にすまない、4月12日神戸福祉交流会館で9時開始。2月に申し込みしていまだ決断がつかない。

 震災で生き埋めとなり、数時間後助け出され、病院をたらい回しにされ、治らないうちに退院させられ、その後数回救急車で入院し、こうして避難所、やっと仮設から県住と少し人間らしさが戻ってきた時、何でそんな卓球大会に出ると子供は言う。しかし私は子供に言えない。自分が今生きている証に、今でなければ「私の体は先の事は自信がない」。それで出場したいと、どうしても言えない。

 もしこの文章が被災者でない人が読めば「何だ、そんなことで悩んでいるのか」と思うでしょうが、そのため身障者手帳とけが、病名、また子供が今どのような気持ちでいるかと証明をつけて、なるほどと納得してもらいたく添えました。また子供も被災者である長田地区でこのような事を誰にも言えず、このかみひこうきで知った人と私は心のよりどころとして文通したく、もし差し支えなければ住所だけでも知りたいので、教えてもらえないでしょうか。相手様には何の心配することなく、このような病状であり、ご迷惑と思い電話する事もなく、本当の心のよりどころして文通だけでもお願いしたいのです。
(1998年4月)


 紙面が少なし一人ずつの返事は短くなりますが、私は精一杯書きます。

 近きの身内より遠くの友と真にその通り、これだけ内容のある文章、手紙何よりのクリスマスプレゼント、またお年玉と、涙が出るほど嬉しく読みました。なろう事なら一人ずつ返事を書きたいのですがそれも出来ず、ここにかみひこうきを代表し、私の気持ちを精一杯、一人ずつ短い文章ですが、明日への生きる希望の大切を書きます。

 木村俊夫様、スタッフ大戸道子様。子供のころ霞ヶ丘小へ行き、その辺りで少し遊びました。今、最近の事よりその時の事が夢に毎日出てきます。元気であればこの足で一度歩いてみたいです。家からこんなに近いのに……。

 永田雅人様、遠きの隣人と感じません。私も15年前神奈川の藤沢でテキヤをしており、南・西関東は懐かしく、特に湘南地方におり、あのまま骨をうずめていたら、その気でいたら後の後悔先に立たずです。

 田中有紀子様、私は男であり、性格も激しく気が短いですが、田中さん夫婦も大変な事だったと。子供が2人も、それも幼くしかし良き主人が側に付いており、今日までに前向きの気持ちを持てるようになり、うれしく思います。何より子供のために私は生きる気持ちだけは、難病、ケガにも絶対負けん。皆さんのため、子供のため、そして自分のため絶対死なん。

 浦島三四様、何を言っておられます。こんな心のこもったちぎり絵、私も妻がおれば、共に白髪が生えるまで、と何時までも死ぬまで大切にと額に飾ってあります。それを毎日見て、絵の二人をうらやましく思っています。

 安岡まいこ様、この名前のようにきっとまいこさん、京都のようにきれいで心のやさしい人と感じます。大人になって大金持ちになるまで、私が生きる心配しないでね。心よりうれしく思います。

 山元良華様、生きてさえいれば、いつかきっと幸福が来る。お互いにそう堅く信じます、信じましょう。このまま死んでたまるか。きっといい日が来ると。

 吉田晶子様、あまりの痛みのため、死んでしまいたいと考えたが、その度、私でも応援、励ましてくれる人がいる、そのため、自分のため、私は絶対死なん。どんな難病、ケガに侵されようとも。ありがとうね

 阪神大震災によりお亡くなりになった方々、心よりお悔やみ申し上げます。

 また、今なお地震の後遺症、難病の方々、生きていればきっといつかいい日が来る、そう信じます。
(1998年1月5日)


前略
 早速のお便りありがとうございます。残念ながら私が少しでも人間らしい生活ができていたら、いくらかのカンパでもと。しかし今は気持ちだけでも受け取って下さい。気持ちで運営は成り立たないが、このかみひこうきが少しでも生活のゆとりのある人に届き、カンパできることを願って止みません。
 私はこの度腎臓バンクとアイバンクの提供を決定いたしました。死後人様のお役に少しでも、いや全国の人が待っている、いつかそう遠くない日が必ず来る。100人の医者より自分の体のことは自分が誰よりも一番良くわかる。

  1. 子供は100人の先生より1人の父親
     
  2. 病人は100人の医者より1人の身内
     
  3. 100台のインターネットより1人の体験記
     
  4. 100食の美食より1人の心のサンマ
     
  5. 100着の服より1人の救援物資
     
  6. 100人の同情より1人の親友
     
  7. 100人の病人より1人の提供者
     
  8. 100億円の住専より1人の被災児童の学資金
     
  9. 100人の役人より1人のボランティア
     
  10. 特に被災身障者さん、どうか一人でも多く、何かに訴えて下さい。私でも生きている、まだ生きている。 前記出した障害手帳のように、何かに苦しんでいるなら電話してこい。たぶんどんな役人より頼りになる返事ができる。

 我子供 地震も飛ばせ 秋の球

 コスモスの 花もさわげよ かぜにゆれ

(1997年11月18日)


 私は復興住宅にやっと当たり、平成9年3月から住んでいますが、全く隣近所その他の知り合いもなくたった一人で、ケガと病気で毎日通院治療中です。

 今ここにかみひこうきというのがありますが、どれほどの力があり、被災者の現実を全国へ伝えることが出来るか疑問ですが、やむを得ず知ってもらうため、ありのまま書きます。

 毎日が地獄のようで、今日死のうか明日死のうかと。家は9階ですが、飛び降りて即死になればどれほどいいか。何とかして即死でもうこれ以上苦しまずに死ぬ方法はないものかと、毎日探している現実です。なぜそれほどまでに私を追い詰めたか、それは一生治らないと医師から宣告されたケガそして病気、精神障害……いくつもの病名があり、先が見えない。このページだけでは到底書ききれない。しかし少しでもわかって欲しい。同じ被災者でも元気で働いている者、また動ける人、しかし私には全くそれが出来ない、いや私と同じような人がいるはず。その人のため、自分のため、またたった一人の子供もこの子も地震から助けられた子、今は元気に野球に勉強に頑張っているその子のため、どうしても死ねない。死ぬ勇気がない。全国の障害者、被災者たち―私でも生きている。死んでなるものかと今は必死である。

 私は身障者となっても一円の補償金ももらっていません。保険もなし。それでも神戸市長は出さない。いやそれどころか神戸空港を作ろうとしている。10年先20年先の神戸市民のため、決して私たち被災者の空港でない。もうすぐ市長選挙がある。テレビで市長はよろしくと。私は死んでも今の市長に投票しない。断じて。

 神戸市長 笹山幸俊様
 人への思いやり、人類への思いやりが必ずあることを信じます。
 全被災者代表 桜井義信
(1997年10月13日)






桜井 義信さんへ届いた『かみひこうき』



1.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)

2.木村俊夫(かみひこうき)

 桜井さんへ、
 お手紙ありがとうございます。「かみひこうき」の木村俊夫です。
 カンパの件ですが、桜井さんの手紙をカンパとして受け取らせてもらいます。本当 に、何をするにもお金がかかり嫌になりますよね。僕たちは補助金もらって活動して いますので、今のところはそれで何とかなりそうなので、お金の面は心配しないで下 さい。お金よりも、桜井さんのように手紙をもらうのが何よりのカンパだと思ってい ます。
 僕の家の近くで働いていたことがあるそうですね。昔は、草むらやたんぼばっかり で遊ぶところがいっぱいありましたけど、6、7年前から駐車場にするところが急に 増えて、そして、地震後は家が建ちはじめ、今では、土が見えるところは少なくなり ました。こども達も駐車場(アスファルトの上)で遊ぶという有り様です。たまにこ ども達と遊ぶことがあるのですが、道に飛び出したりしてヒヤッとすることが多々あ ります。でも、子供って本当に元気ですよね。ほんのささいなことにでも感動したり 、ビックリしたり、喜んだり。大人はそんな純粋なものをいつの間にかなくしてしま っているんでしょうね。だから、何にでも無関心になり、「自分さえ良ければ」って 人が多いんだと思います。近くに池があるのをご存じでしょうか?そこも埋め立てら れるらしいです。どんどん自然がなくなっていき、悲しいものです。
 障害者手帳拝見しました。最近はお体の方はいかがでしょうか?腎臓バンク、アイ バンクへの提供、桜井さんの優しさ、思いやりが感じられます。他の人のお役にたて るよう、まずは自分の体を大切にして下さい。
 桜井さんの想いが、一人でも多くの人に届くよう、そして、一人でも多くの人が自 分の想いを言えるよう、頑張っていきます。
 寒くなってきましたので、お風邪などひかないよう体に気をつけて下さい。またお 手紙下さいね。
(1997年11月26日)

3.高森 一徳さん(神戸市西区)

 ごぶさたしております。
 変わらぬご闘病のお姿に、かえってこちらが元気をいただく思いです。
 くれぐれも、お身体ご自愛ください。
(1999年3月11日)

4.古川飛祐さん(埼玉県)

 2月、3月のお手紙を読みました。腰の具合はいかがですか?。ヘルニアの痛みは、祖母や友人から聞いています。大変な人生を送ってこられましたね。私は次の時代の子供達のため、生きていこうと思っています。桜井さんのお子さんも、私の宝物となりました。「この世は人間が作った世の中、人間が何とか頑張り全国民が一人一人全国につながる」本当にその通りですね。
 夏の夜 生きる証を 筆に見る
(1999年6月20日)

5.古川 飛祐さん(埼玉県)

 お手紙ありがとうございました。大変嬉しく拝見しました。
 立っていることもできない状態での通院は本当に大変なことだと思います。その中で、読む者を奮い立たせる文章を書いてこられた桜井さんに感服しています。昨年までのかみひこうきも読ませていただきました。卓球大会準優勝おめでとうございます。何とすばらしいことでしょう。又、皆さんに語りかける力強いお言葉、お子さんへの愛情、美しい歌…全てが好きです。

 両親が付けてくれた私の名前は、“びゅう”と読みます。「祐」は父の字をもらいました。姓名判断によると「波瀾万丈の人生」となっていますが、非常に愛着があります。
 神は私の、一人一人の中にいる、全く同感です。これはマンガの中のセリフですが、「神を信じるというのは、自分を鍛えること。自分の中の良い部分を見つめて。いつも自分で自分を好いていられるように」とは、一つの真実だと思います。

 22にもなると、友人に子供が産まれます。報告を受け、写真を見るたび柔らかな幸福感に包まれます。彼らが安心して生きられる世界を作り上げ、残していくことが私の務めであり、夢であり、活力です。クレヨンしんちゃんに会いたい子、大きくなったら埼玉に来てくれるでしょうか。「今も、いつまでもいるよ」とお答えになった桜井さんの優しさ、子供達も大好きなのでしょうね。

 多くの友人が保母、教師、看護婦を目指して頑張っています。私は母を手伝って働いています。かみひこうきが生活の一部となりつつあります。私にとって手紙を書くことは、生きることと同じなのです。それだけの情熱を授けたのだから惜しみなく使え、と神の声が聞こえます。その声に従います。

 夏雲が 神戸の声を 運んだ日
(1999年7月15日)

6.川本 恵子さん(仮名:神戸市)

 こんばんは。始めまして。。。あれから、5年ということで、数日前から今日まで、テレビの特別番組が多く放送されておりました。そのお蔭で「かみひこうき」さんのホームページを知りました。
 私も東灘区深江で震災に会いまして、今は灘区に住んでおりますが、長かったような、短かったような、この5年でありました。
 私の娘は産まれつきの知的障害児で、出産と同時に医者から宣告を受けました。
母親として、なかなか立ち直れずにおりましたが、やっと、なんとか、物事を肯定的に考えられるようになった矢先の震災でした。
 震災当時、娘は三歳でした。いろんな事がありましたが、先日、満8歳の誕生日を元気に迎えることが出来ました。知的な能力の遅れは勿論、身体も弱いですし、手術などもありますが、それでも彼女の精一杯生きている姿を見て、親というより、人間として学ぶことが多くあります。
 娘の成長を目にする時、無事に生きてこられたことを感謝せざるを得ません。「命」という目には見えないけれども、この世で一番大切なものをこれからも、「宝物」として、大事にしていきたいと思っております。
 皆様も、この宝物を大切に・・・・精一杯良い人生を歩き続けられますように。。。。寒さが厳しくなってきます。何卒ご自愛下さいますよう。。。心より願っております。
(2000年1月17日)

7.寺崎 千鶴さん(仮名)

 初めまして。6年目の今日、やっとこのページを知りました。
 震災当時は大阪の北部に住んでいたのですが、体が弱く自信がなかったのでボランティア活動も出来ませんでした。その事が今でも心残りで、ずっと被災者の方々の事が気にかかっておりました。 時間が経つに連れ、人々の関心も薄れていく中でこのような活動が続いている事は素晴らしいと思います。
 被災者の皆様、6年経った今でも色々苦しく大変な事も多いでしょう。何の力にもなれない者ですが、皆様の暮らしが少しずつでも良くなっていきますよう、心からお祈りしています。 寒さが厳しい今日この頃です。皆様くれぐれもご自愛下さい。
 そして、「かみひこうき」の皆様、これからも頑張って下さい。
(2001年1月17日)

8.寺崎 千鶴さん(仮名)

 お返事ありがとうございました。その後お体の具合はいかがですか? お便りを拝見し、かえってこちらの方が力付けて頂き、本当にうれしく思いました。
 ついつい自分の弱さに甘えがちな私ですが、あせらず無理せず、少しずつでも前に進んでいこうと思います。 まだまだ寒い日が続きそうです。くれぐれもご自愛下さい。
(2001年2月14日)


桜井さんへ『かみひこうき』を送る

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