加東 美津子さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:86才女性 職業:主婦)


 大震災から18年を迎える。 18年間脳梗塞で闘病生活を続けていた主人が、一昨年11月25日にあの世へと旅立った。

 私は86才になった。「復興住宅」として仮設住宅から移ったこのマンションは、20年契約の為、「住み替え候補住宅」として一覧表が次々と送って来る。遠方で不便な場所がほとんどです。 市営又は県営の空き家の為、一戸か二戸。

 圧力を感じる。今住んでいる所も坂道だし、バス停までも遠いし(イノシシもウロウロ)、夜道も危険です。思う所に入れず、最後に入ったのがこのマンションだが、隣近所さん達とのコミュニケーションも出来、「住めば都」とまではいかないが、20年近くも住んでいると愛着もある。
 一人暮らしの86才の私の寿命はこれから先どれだけ?新しい地に慣れるまでには時間もかかるし、ストレスも溜る。

 共産党の人が運動はして下さっているが、これから先の事を考えると、思い悩む今日この頃です。
 事務的にではなく、心と情のある行政である事を切にお願いしたいものです。

 東北で震災に遭われ、津波で多くの多くの方々を亡くされ、あらゆる困難と闘っておられる方々に、早く問題が解決出来ます様祈ります。
(2013年1月3日)


 今私は、ぼんやりと外の眺めている。澄みきった空。オゾン一杯の緑樹から樹へと小鳥達がチチーと飛び交う。まるで別世界。
 振り返ればあの忌まわしい阪神大震災。中学校の体育館で毛布1枚を頭から被り、ガタガタと震えていた。飢えより寒さが身にしみた。縁者達がドンドン迎えに来ては去って行く。

 私は東京に居る一人息子の事を思いながら涙していた。夜明け前、まだ暗い時、私の名前を呼んだ声がかすかに聞こえた。夢かと思った。息子だ。日中長い長い行列に並んで電話でただ一言、「今、寿公園に居る。先はわからない。」とだけ告げたのに、東京から車で行方もわからないで知らぬ土地をどうして探り当てたのだろう。とても人間技とは思えない。そのまままた東京に向かった。往復一睡もしないでただただ走り続け、帰途もあちこちで燃えている。行き止まりもあり、思う ようには走れない。

 主人が脳梗塞で加療中なので、また神戸に帰った。仮設の申込もしなければならない。再び学校での生活→仮設(四畳半一間)に入居。それから長かった。なかなか復興住宅が当たらず、最後まで残り、入居したのが山の上にある今の住宅。坂道も厳しい。でも御近所との触れ合いも楽しく、食事を共にしたり、相談にも乗っていただく。若い人達が、将来は一人住まいの老人達の食事の事、身の回りの事を引き受けたいとの話もちらほらと耳にする。今更新しい所にはなかなか馴染めない。何時までも今の所で住みたい。

 東北の皆様方は、私達の数倍も困難な思いをし、今もなお厳しい苦しい状態でいるとは思います。人間には絶対に生きる力と勇気と皆様方の暖かい支援が有ることを信じて、希望を持って生きていただきたい。応援いたします。
 共にがんばりましょう。
(2011年8月13日)


 震災より16年目を迎えた。夢の様である。
 18年間脳梗塞で寝たきりの主人が、昨年11月25日、永い眠りについた。3カ月毎に病院探し、毎日看護の為、遠い所は定期を購入し、通い続けた。必死で有った。
 主人が倒れ、又震災と一人住まいの私には助けて呉れる人はいない。血圧が200位に上昇した。

 仮設に居る時、長野の方より米が届いた。礼状を出したら、現在まで菓子、果物等々、送り続けて頂いている。私の気持ちは和らいだ。年賀欠礼のハガキを出したら、折り返し香典が届いた。
 一度もお目にかかった事がない、見知らぬ方だが、胸が熱くなり、涙が流れた。この問題の多い世の中に、こんな暖かい人がおられる。生きる希望を頂き、残された人生を心豊かに過ごし、亡くなられた大勢の方々の冥福を祈りたいと念じております。

 マンションは緑有り、澄み切った空気、さえずる小鳥達、青い空。環境は素晴らしく、ご近所の方々と茶会を開き楽しんで癒されます。
 このマンションも、後9年で公団との契約が切れます。坂道が嶮しく、店舗もなく、年老いた私には苦痛で、便利な所へ行きたい気持ちも有りますが、環境の変化と新しい所の人間関係等々を思うと決心が付かず、どうしたら良いか?。ご近所の方々とのコミュニケーションも捨て難く、悩んでおります。
(2011年1月3日)


 本日、長野のAさんより宅急便が届いた。地元の名菓(栗)である。仮設に住んでいる時、この方より米が届き、早速礼状を出した。それ以来、復興住宅に移ってからも、四季折々の果物、その他送り続けて頂いている。
 遊びに来るよう地図も同封してあるが、主人が17年余脳梗塞で寝たきりの為、遠出は無理なのが現状。

 先日の手紙には「災害後の復興はめざましく、今では面影もない様子ですが、その事は生涯忘れられないでしょう。遠くで気を遣っている身が、とても無力に感じます。ご高齢の身ですので、充分に気を付けて下さい。いつ迄も元気にいて下さい。祈っています。こちらから勝手に送っているだけなので、気を遣わずにいて下さい。」とあり、「最初は10人以上の人達との交流があったのですが、年月が経つにつれて一人又一人と居なくなり、今では加東さんともう一人になりました。何かとても寂しい気持ちでおります。」と結んであった。
 胸がジーンとなり、その情けの深さ、優しさに涙がにじんた。荒んだ世の中に、このような方がおられる事、こんな方々に支えられて自分が有る事に感謝している。

 今回はこのような方がおられる事を知って頂きたく、ペンを取りました。
(2009年8月14日)


 あの震災より12年。寝巻1枚で、素足で寒さと空腹で崩れた家々、道なき道をさまよい歩いた事は、遠い遠い昔の様で有り、最近の様で、恐怖で身体がふるえる様な感も有り、落ち着かない日々でした。
 今はご近所の方とは仲良く、昨年のクリスマスは話に花を咲かせ、楽しい一刻を送りました。 これも生きているからと、多くの亡くなった人を忍ぶ今日この頃です。

 私も80才になりましたが、カラオケ、謡曲と、少々坂はきついのですが殆ど毎日外出が出来、毎日感謝 感謝で生きる喜びを幸せを実感致しております。
 長い人生色々有りましたが、残された人生を心豊かに、人には迷惑をかけない様、悔いなく過ごしたいと念じている今日この頃です。

 大勢のボランティアの皆様、ありがとうございます。
(2007年1月2日)


 あの震災から10年、とてもとても長い昔の様にも、また最近のことの様にも思えて、悪寒戦慄さえ感じ、見たくない聞きたくない気持ちでいつもその画面が出るとTVを切ってしまうのですが、最近また新潟や南の方の津波等々、なぜこんなに尊い生命が奪われてしまうのか。
 また昔のことを思い出し、悲しみでいっぱいの寒空の仮設生活、降雪等々同じ体験した者でないと理解できないと思います。それでも1月17日になると落着かなくそわそわして、引っ張られるように東遊園地に行き、合掌献花をしないと1日が始まらないのです。

 今は見事に復興した神戸に住み、かなり坂がきつく不便な所に住んでおり、毎日リュックを背に登り降りも出来、また趣味などに参加も出来、近所の方々との交流も有り、すみきったお空と緑、小鳥のさえずり、生きていて良かったとつくづく感謝している今日この頃です。
 1人住まいなので人に迷惑をかけない様にと健康に留意しておりますが、風邪を引いてしまいました(風邪を引いておりましたので、お返事が遅くなりました)。

浦嶋様
 今年も美しいちぎり絵ありがとうございます。細かい作業で大変だと思いますが、そのお優しい気持ちで励まされ生きる希望がわいてきます。私も満の78歳、これからどれだけ生きるかわかりませんが、心豊かに残された人生を送ろうと念じております。
(2005年2月18日)


 あの大震災から来年は10年になろうとしている。当時は脳梗塞の主人も抱え、絶望と不安で、平常で有った血圧が200迄上昇した。やっと改築(1年)した家は全壊、ローンも残っている。
 病院入院の主人は3ヶ月毎に変わらなければならず、病院探しと、手の掛かる主人は毎日看護の為に365日雨の日も風の日も看護に明け暮れた。一時家に引き取ってと云われた事も有ったが、2階で4畳半一間で、1級1種の主人を70余(大正15年生まれ)の私にはどうする事も出来ず、途方に暮れる日々でした。

 皆さん1人2人と仮設を出て行かれ、最後の復興住宅入居は私1人になりましたが、便利の良い所は無理と思って山の上の一番新しい所を選び、やっと当たり、引っ越しする事が出来ました。主人も特別養護老人ホームに入所する事が出来、2重の喜びとなり、私もやっと余裕が出来ました。
 地震後に灘に数ヶ所温泉が出来て、ささやかな楽しみを味わっています。又、新しい友人も出来て感謝している今日この頃です。

 復興住宅の住人も色々な方がおられますが、心の豊かな方達の交流も有り、残された人生を悔いのない様に1日1人をを大切に、愛と誠実な気持で接して過ごす事を願っています。又、主人を外泊させる事が出来ないので、ボランティアさんにお願いして教会に参加しています。食事やその他ケアして頂いたボランティアさんやキリスト教会の方には深く感謝します。

 浦嶋様、今年も美しいちぎり絵を送って下さり、優しく暖かいお気持に接する事が出来、嬉しく存じます。  皆さんのお心に答える為にも、苦しかった事を1つのバネにして、強く元気に生きて行こうと念じています。厚くお礼申します。
(2004年2月20日)


 書留ですとの声で不審に思い出てみると、美しいちぎり絵と色紙掛けまでも、胸があつくなる。震災から8年、今も忘れずに心のこもった作品を届けてくださる。
 長野の安井様も最初お米を送ってくださり、お礼状を出したのを機に毎年リンゴ等を送って下さる。写真を同封したり、見たことも会ったこともない人だが他人とは思えない。縁とは不思議なものだと思う。
 新しい環境で同じ苦しみを味わった人達と肩を寄せ合い茶の飲み語り合う(昔の出来事は悪夢として忘れたい)。

 ベランダの水仙やクロッカス、ヒヤシンスが芽をつけ花をさせた。そんな自然の美しさを目にする幸せを味わうにつけ、遠くに旅立った方々のことを思うと胸が痛む。どんなに苦しくても明日を見つめ一日一日を大切に過ごしているすばらしさを実感している今日この頃です。
 1月17日はいろいろあって中央公園に行けなかった。来年からまた足を運び冥福を祈りたい。

 浦嶋様、素晴らしいちぎり絵をありがとうございました。
 いろいろと労を取ってくださっているかみこうき様はじめ大勢のボランティア様、あつくお礼申し上げます。そして深く感謝しております。
(2003年2月15日)


 復興住宅に移ってもうすぐ3年を迎える.毎回申込んでもその都度外れ、仮設の人々は次々と出て行かれる中、最後に四畳半の間に一人残され、お先真っ暗でやりきれない日々で有った。
 やっと今の地に移ることが出来、喜びがあり、青い澄み切った空・緑・小鳥のさえずり・新鮮で美しい空気があった。買い物は不便だが坂も運動と思い、特養に入所中の主人の所やその他諸々、特に不自由も感じなかった。又遠くに居る息子は電話で様子も尋ねてくれ、毎日の事を報告して満ち足りた生活で感謝の日々を過ごしていた。

 しかし昨年暮れより風邪を引き、寝てもおれず少し回復しては又悪くなり、咳もひどくずっと長引いている。
 最近は又、右膝の関節が疼く。坂が苦痛になり、医師は老化現象でしょうと言われ、今後の事を考えると排気ガスは有っても、便利な所の方が良いのであろうか等と複雑な心境である。
 10年間主人が脳梗塞で入院中、3ヶ月毎にHPを探し、雨が降っても風が吹いても毎日看護に通院していた元気な頃の自分が懐かしく思える今日この頃である。

 毎年1月17日三宮に参加しているが、ボランティアの人々も一般の人々も年々少なくなっているのが寂し く感じられる。今年は一人一人の雪だるまが印象的であった。歩ける限りは参加しようと思っている。
 最後になりましたが、馬のチギリ絵を下さったお方に厚く御礼申し上げます。
(2002年4月8日)


 今年は例年にない酷暑。私の住む復興住宅は坂の有る山の麓。緑は多く涼しい。空気も美味しい。春は鶯、夏は蝉の声、時には猪も現れ、いたづらもする。とにかく自然を感じる。隣人は優しく心も豊かになる。

 振り返ると、あの震災は昨今の様にも、又遠い遠い昔の様にも思える。寒空に寝巻1枚、靴下もなく学校の体育館で飢えより何より寒さが応えた。次々と縁者の人が迎えに来られ、ドンドン出て行かれ、東京の子供がこんな状態で迎えに来るわけもなく、孤独感で又寒さで震えていた。

 薄暗い夜明け、遠慮がちな声で加東さんと呼ぶ声。娘婿?夢かと思った昼間、長い列の公衆TELより東京の娘へ「お母さんは元気だよ。今、公園に居る」とそれだけ言った。すぐに息子が運転して身の危険もかえりみず、必死の思いであちこち探し探し、来てくれた。もし子供が来てくれなかったら、飢えと寒さで病気になり死んでいたかと思うとぞっとする。

 平常で有った血圧も200迄上がり、脳梗塞の主人の看護の為、一時東京に帰ったが、再び学校の生活、仮設(四畳半)へ……。心の貧しい人との接触も有り、苦しい苦しい体験も有った。今の仕合わせを感謝して、前向きに残された人生を歩みたい。

 ミニうちわ有り難うございました。6年半も、いえこれからもいつ迄も忘れないで私達の声を聴き、案じて下さる暖かいお気持ちが生きる喜び、頑張る気持ちになり、勇気と力を与えて下さっております。どんな事があっても、愛の気持ちで充実した日々を送りたいと念じております。
(2001年8月4日)


 私の家は全壊だが焼けなかったので有る程度の物を出して、テントに入れた。4畳半一間の仮 設なので必要に応じて出入りしていた。
 周囲は猫がウヨウヨしていて、どんな所でも入って毛布・布団に乗り糞をする。何回補修しても 効果がない、不思議で有る。ダンボールに3匹の子を産んでいて、思わず外に投げた事も有る。換気 出来ないので、異様な臭気で鼻をつく。衣類にもしみついている。冬は寒く夏は暑く入る気がし ない。猫嫌な私は辟易する。

 台風の日、主人の看護の帰り気になり寄った。テントの一部がはづれバタバタ。このままでは飛ばされそう。紐を持ってきて必至でずふ濡れになって悪戦苦闘。又、入り口の扉が閉まらないので力を入れてバタンとしたら、蜂が巣を作っていたらしく、乳房の上をチクリと。びっくりして病院へ駆けたが、晩なので数軒目でやっと治療を受けた。巣は棒で恐る恐る除いたが、何回も新しくせっせと作っている。困った。

 6月やっと復興住宅に転居したが、主人の物や全部は処理していない。今の住宅はかなりきつい坂なので、傘やその他一寸した物を置いておくには便利。元気村さんに相談したら、小屋を建ててくださる事になった。苦労したテントだが、懐かしくも有る。周囲は新しい家ばかりなので、美観を損なう(震災前 は改築したばかりの私の家がりっぱだった?)。又ご近所の迷惑にもなる。2月16日、元気村さんが小屋を建ててくださる。テントよさようなら。
(2000年2月15日)


 震災より5年、悪夢の様な出来事で、思い出したくない、 忘れたいとTVを切った。 人がその話に触れると耳を 塞ぎたい気持であった。

 1月16日、三宮に用事が有り、中央公園に寄った。 名古屋から来られたボランティアさんより爪楊枝で作った 小さな花入れを頂いた。 自分で黄色と赤のお花を差した。 それが調和して可愛く、TVの上に置いて楽しんでいる。
 主人が特養に入所してゆとりも出来、外を眺めている。 太陽が部屋一杯に入って来る。青い空、白い雲、樹、幹、 緑、風がそよぐ。 小鳥がチチチーと・・・生きている実感を 覚える。
 隣の奥さんがベランダから声を掛けて下さる。 クリスマス、新年会と話が弾む。 あっと言う間に時が経ち、 12時になって驚く。

 上の階を希望したのに2階でがっかりしたが、此処で 良かった。 隣から主人が釣った魚や野菜などが届く。 とにかく皆さん優しく、温もりがある。仮設とは別世界で 少々坂はきついが嬉しい。
 大勢の亡くなった方々の冥福を祈り、折角生かされた 命だから、先を見つめて有意義に過ごしたいと念じている 今日この頃である。頑張ろう。

 日本全国のボランティアの皆さん、貴方達のお陰で今の 幸せが、喜びが有るのです。 本当にありがとう。
(2000年1月18日)


暑中お見舞い申し上げます。

 去る6月末、復興住宅に越してきました。振り返れば4年間の仮設生活は長く、色々な問題もあり苦しい日々でしたが、全国の人々に励まされて生きてきました。
 引っ越しも元気村さんと友人達によって円滑に事が運びました。少々疲れましたが…。元気村さんには気持ちだけお礼を出しましたが受け取って頂けず、「ここに礼状を出して下さい」と1枚の当名を書いた物を頂き、すぐにお礼状を出しましたら返事が来て「転居を祝して」と暖かい手紙と米券が入っておりました。胸が熱くなり、涙が出ました。

 これからは嫌な過去を忘れ、前向きに精一杯残された人生を有意義に生きてゆきたいと念じております。
 復興住宅はちょっと坂ですが、緑が一杯で涼しく、素晴らしい所です。どうかお寄り下さい。主人の看護で留守も多いので、ご一報頂ければ幸いです。
 かみひこうきの皆様方に厚くお礼申し上げます。
(1999年8月5日)


   すきま風がスーッと頭をかすめる寒い、ベニヤ板が使用されたわが4畳半は北側なので風当たりが強く、時にギーギーと異様な音で気味が悪く、怖い。
 入居当時31世帯であったが、今では4棟は私一人、2棟は93歳の男性一人、1棟は盲人の男性一人の3人のみ。共同トイレ、炊事場、風呂で賑わった棟もガランとして一寸した物音にも敏感になる。前は公園及びグラウンドになっているので、中学生その他の人々が球技に興じ、時に球がまともに飛んできてその音に肝をつぶす。

 そんな事も自分の持ち家で改築したばかりの家に住んでいて全壊し、建てる能力もなく4畳半一間の仮設生活…喜びも哀しみもここで味わった4年間。今となってはこのお部屋がいとおしく、愛着さえ覚える。6月には復興住宅に入れる予定だが、私の命を支えてくれた4畳半のお部屋、ありがとうと心よりお礼を言いたい。一生忘れる事の出来ない思い出になるであろうと…。

 去る3月7日、仮設前の公園の隅に記念樹を植えました(93歳の男性の指示の下で)。リンゴの木1本とアジサイ数本、その他です。灘医療生協の方の協力によるものです。その後に今までの仮設居住者を招き、近くに住む主婦3名の方々の美味しいおでんを頂き、楽しい一刻を過ごしました。
(1999年4月6日)


 仮設生活4年目、自分の持ち家で住んでいた私には、色々な出来事がありました。
 主人は脳梗塞で入院中という事で、6畳の部屋を要求しても与えられず4畳半一間の生活。昨年は盲腸の診断で一人でどんな思いをしたか。今ではわが棟は全部出て行かれて、一人だけ……。当然全ての空き部屋は固く錠が掛けられ使用禁止。どう考えても理解出来ない。あるものを使えないなんて……。税金の無駄遣い、他にも諸々目に余る。

 今年の正月も主人の看護で子供の所に帰る事も出来ず、子供も来る事が出来ない。その事を言うとある役人が旅館(ホテル)を利用すれば良いではないかと言った。改築したばかりの家が全壊し建てる能力もない(数え年74才の、昔の言い方をすれば老人)の私に、せめて最後だけでも空き部屋が利用出来れば、心も豊かになる……。役所の人は人の痛みも分かろうとしてない、血も涙もないロボット人間か……。
 楽しかった思い出は、遠い所や元気村等々のボランティアさんや日本全国からの牧師さん達の事。沼津の方の再三の訪問と募金を集めて一人一人に届けて下さった、そんな優しい思い出と喜びは一生忘れる事が出来ません。大勢の人々の善意を心よりお礼申し上げます。

 住宅は3月に新しい所が決まっております。坂道があり、段々年を取るので自信はないのですが、便利な所はなかなか当たらないので嬉しい反面不安はあります。主人の看護と私の高血圧・肝臓・白内障で、毎日病院に通院しているので今では先の事を案ずるより、今日一日を大切に…そんな心境です。
(1999年1月2日)


 素晴らしいプレゼント。
 31日の暮、AM宅急便が届いた。名前を見たら驚いた。先日お米を頂いたんどえ 、お礼状を出したその人だ。あまりのことに涙があふれでて禁じることができない。 (元気村さんを通じ毎月全国の方より3kgのお米を仮設の独り一人暮らし65歳以上 、身障者方等に頂いている。)
 中には長野特産の富士リンゴがぎっしりつまっている。又、涙・・・。

 翌正月ポストに何やら?開けてみると又びっくり。美しい花のちぎり絵。うっとり として、奈良県の浦島さんが「かみひこうき」へ出した記事を見て送って下さった。 じんときた。昨日と今日は続いて歳暮とお年玉が。こんな事ってあるでしょうか。全 く見知らぬ方より?リンゴを頂いた佐久市の建設業を営む安井さん、ちぎり絵の浦島 さん。貴方達の贈り物が私の気持ちをホットにして、また生きる希望がでました。あ まり先のことを案ずるより、今日一日一日を大切に生きれば、きっと道は開けると信 じて頑張っていきます。ありがとうございました。
(1998年1月7日)


 私は主人が4年前より脳梗塞にて入院中で一人住まいでしたが、ローン支払い中の家が全壊いたしました。裸同様(寝間着姿)で靴下もはかないまま、全く九死に一生という状態で当時は助かったことに感謝いたしました。しかし仮設には主人が入院中ということで、6畳の部屋に入れてもらえず4畳半でした。諸々の問題を抱えて家を建てるにも能力もなく、市営住宅を毎回申し込んでいますが、都度外れてせめて仮設の空室の6畳の部屋に 移して欲しいと訴えても要求は入れてもらえません。行政の対応は余りにも型にはまり、血も涙もないので夜も眠れない日々が続き、震災前は平常だった血圧が200まで上昇し、今でも不安定な状態が続いています。

 また、「仮設が空いたら外国に?」というようなテレビ放映を見ましたが、その前に家を建てる能力のない土地所有者に提供していただきたい。税金の無駄遣いと頭の固さ、何一つ実行するのも前例を崩せず適切な判断と処置が取れないお役人のやり方には腹が立つ前に心が痛み、悲しく空しい日々を過ごしています。

 本当の苦しみや痛みは災害に遭った者しか理解できない。また個々によってかなり差があります。規則とか前例とか上司の印鑑とか型にはまった(……悲しい)のではなく、もっともっと真剣に取り組んで欲しい。これ以上自殺者とか病人とかを増やさないために。心の病は肉体とつながっているのです。何とかして下さい。おねがいします。
(1997年8月20日)






加東 美津子さんへ届いた『かみひこうき』



1.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)

2.川本恵子さん(仮名:神戸市)

 こんばんは。始めまして。。。あれから、5年ということで、数日前から今日まで、テレビの特別番組が多く放送されておりました。そのお蔭で「かみひこうき」さんのホームページを知りました。
 私も東灘区深江で震災に会いまして、今は灘区に住んでおりますが、長かったような、短かったような、この5年でありました。
 私の娘は産まれつきの知的障害児で、出産と同時に医者から宣告を受けました。母親として、なかなか立ち直れずにおりましたが、やっと、なんとか、物事を肯定的に考えられるようになった矢先の震災でした。震災当時、娘は三歳でした。
 いろんな事がありましたが、先日、満8歳の誕生日を元気に迎えることが出来ました。知的な能力の遅れは勿論、身体も弱いですし、手術などもありますが、それでも彼女の精一杯生きている姿を見て、親というより、人間として学ぶことが多くあります。
 娘の成長を目にする時、無事に生きてこられたことを感謝せざるを得ません。「命」という目には見えないけれども、この世で一番大切なものをこれからも、「宝物」として、大事にしていきたいと思っております。
 皆様も、この宝物を大切に・・・・精一杯良い人生を歩き続けられますように。。。。寒さが厳しくなってきます。何卒ご自愛下さいますよう。。。心より願っております。
(2000年1月17日)

3.浦嶋三四さん

 下手なちぎり絵でお礼のメッセージを頂き、ありがとうございました。色紙掛けはかみひこうきさんが考えて買って下さったので、何か付けて下さいとお願いしておいたのが、思い付かなかったよい物を付けて下さって感謝しています。
 かみひこうきさんにはいつもお世話をかけています。少しずつ春めいてきました。どうぞ御身ご自愛下さいますように。
(2003年2月27日)


加東さんへ『かみひこうき』を送る

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