山下 浩子さん(仮名)

  (住所:西宮市仮設住宅 年齢性別:57才女性 職業:無職)


 私はあの時西宮北口の駅で22日間生活しました(45人)。
 今思へばその時の私はどんなにつらかったか、その生活はもう誰もしてはならない事です。ダンボールを見るとさぶいぼが出ます。そして水はとっても大切です。きっとこれから生きて行く先もずーっと忘れないし、忘れてはいけない事です。
 頭に2ヶ所ヒビ、左手、左足が不自由になり何度も何度も考へてはいけない事を考へ、泣く事も忘れ、人と話す事も忘れていました。そして去年の3月21日に自転車でころび大けがをしました。
 今度は医者ぎらいの私を仮設の人が病院へはこびいろいろリハビリをして左手、左足が動く様になりました。私は2ヶ月たらずで動く自分の手足に喜びを、そして10月の終り頃に新聞でこれからあるであろう、すべての被災者に公的支援を、とのよびかけにとびつきました。私が今までうけたいろいろな人の親切を勇気を生きる喜びを、この事でおかえしが出来ると、いきました東京へ、東京へと何度も何度も国会へ、少しですが国も動き、公的支援も今のところたぶん通ると思います。
 今市営に入り、ここ2、3日はゆっくりとしています。
 とってもいい生活です。何もかも新しい物でお金がありません。これから又私のまがりくねった道を皆様よりゆっくりとゆっくりと歩みます。もうこけない様にゆっくりと歩みます。
(1998年4月27日)



 私たち45人は20日間、阪急西宮北口の駅で過ごしました。
 それは段ボールを敷き、横に上にの段ボールハウスです。初めのうちは毛布一枚でした。蓑虫のように巻き少しゆるめてすっぽりと入ったり出たり。その中で下着をかえる、服を着る。もちろん靴は履いたままです。
 そんな生活も他の人と同じなのでありがたいと思っていました。生きていることに感謝していました。
 朝はコップ半分の水で顔も口も洗う。全員で食事をする。私は知らないが捕虜収容所のようでした。何かおもしろい話しをして笑いながら食事はけっこう楽しくもあった。私の家も他の家も何を考えているのか西の方へ傾いている。哀れであり、また、滑稽でもあった。それを大阪から来たという親子連れが小さな子供を前にカメラでパチパチ。そして、私に「入ってくれ」と言う。子供に教えることもできない大阪から来たアホ面の親子連れ。私は忘れない。
 1998年4月に西宮の市営住宅に入ります。カレンダーはもう、カウントダウンしています。58才の無職の私はこれからどの様にして生活すればいいのでしょう。地震の後遺症があり、頭の痛み、左手が少し不自由、足も少しびっこ。先の楽しみのない私ですが、今日を楽しく明日を信じて生きていきます。
 イライラして自転車であてもなく走り回るときと地震後覚えたパチンコをして負けて帰る日もあります。どなたか私のストレスを取って下さい。
(1997年8月4日)





山下 浩子さんへ届いた『かみひこうき』



1.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)


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