沢田 昌弘さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:30才男性 職業:?)


 お返事ありがとうございます。
 詳細なことは覚えていませんが、私自身の心境の変化がありました。トルコ地震があり阪神大震災より多くの死者が出て、ニュースで仮設住宅を送る様子も見ました。このことで、私は不思議に心の底から気の毒になあという思いになりました。

 95年1月17日に震災があり、周囲の皆さんも私もようやく復興できました。おかげさまで、もはや私の街には震災を思い起こすシンボルというと石碑だけで、あとはかけらもなくなり神戸の住民は本当にすごいと思います。だから日々忘れているのです。これは事実です。大きな天災も時が経てば、同じ思いをした近所の人達も世間体から、震災とか仮設とか言う言葉をあえて使わなくなりました。私自身もです。時の流れは早いものです。これが心境の変化です。
 戦後はもはや終わったといわれたように、私達はようやくこの阪神大震災は終わったと思います。ですが、今改めて全国の人々からの支援、ボランティアの方のお世話を頂き、多大の義援金を頂いて、大変感謝しております。

 芦屋市の津知町という所は、まだ所々家も建たず、更地もありました。地理的には高級住宅街に近い所ですが、まだそんな状況です。長田はどうでしょう。私どもは神戸の中でも比較的市街地で、交通の便にも恵まれた良い所でしたので、無理して再建したのでしょうか。長田は火災に見舞われた所で有名ですが、住んだことがないのでまた一度も見に行ったことがありません。でも津知町と同じように思います。市営住宅などに移られた方が多く、家屋と住む権利をなくされたりして、再建はおぼつかないのでしょうか。長田はぜひ見に行って下さい。そして、私達の町の復興も見に来て下さい。東灘区民の一人として。
(1999年10月1日)


 震災で被害が大きかった神戸市市街地で、私の地区及び周辺の被害の傾向をみると、都心にひっそり住んでいた古い木造一戸建ての下町地区及びマンションが全部やられている。悔しいことに市街地では被害のほとんどなかった山の手地区及び神戸市郊外の家並みは、古い家でも壊れなかった。
 もともと金持ちで神戸で絶景の夜景が見渡せる所は、震災でも商店街が平常通り開いていて、私の知る限り電気・ガス・水道全て通常通りで、私どもが学校で避難している時に生鮮食料品を買って普通に住んでいた。

 震災とは無縁だったのだ。名指しすれば岡本、本山北町、森北地区がそうである。実はこれらの地区は東灘の中でも屈指の高級住宅街であった。私は当時、何て運が良い人達だろうと思った。そして震災後、私どもの地区も復興し、一種の高級住宅街の雰囲気になった。なぜなら金持ちしか元の地区へ帰れなかったのだ。東灘区に限って見れば、長らく国道2号線及びJR、阪急と山の手になるほど良い住宅地という昔からの概念が崩れてしまった。本当にたくさんの街並みがあるが、東灘区へのブランド意識が生まれた。これまでなかったことである。

 神戸市北区・西区・須磨区の郊外は私は仮設で西区に住んだのでよく分からないが、大層立派な家並みであり私の住んだ西区の西神ニュータウンは高級住宅街で、被害は全くなかった。郊外なので一戸建ての大きな家が永遠に続くようで、車で20〜30分行けばその豪華さに圧倒されそうになる。
 西神は実は仮設の数が一番多い地区で、私は平成7年の4月に入居した。背後には巨大な高層マンションがあり、甲子園球場が2つ入るぐらいのデラックスな公園もあって不公平感を持った。今その住民達がまだ残されている。第4次募集で「これで最後の公営住宅」と言われた時、気持ちはあせっていた。あの時と同じ気持ちで今年3月には仮設が解消され、どこにも行く所がない人がたくさんいる。このことを全国の人達に知ってもらいたいと思う。
(1999年2月2日)


 1999年1月17日を迎えました。あの日から5年経ちました。

 それぞれがいろんな苦労を重ねました。震災で家を失い再建した人、断念した人、仮設にいる人、それぞれ思いはあるけれど神戸は元気で活気が戻ってきました。95年は更地だらけで全然家並みが消えていたのですが、96年97年と日々が経つに連れ復興は市街地を中心に工事が進み、一戸建てやマンションが一つ一つ工事が完成し、98年頃には街のほぼ9割の土地に家が再建されるにいたりました。私の家も98年には立派なマンションが建ち仮設から移り住んだのです。再建されたマンションではや1年、早いものでまた1年年を取ったのです。

 よく言われる問題は、5000人を越す人がいまだ仮設にいる現実です。お金がないので当選しても市営住宅に入れないという点と、自分の求める場所に建ててくれないため、市街地から郊外に移り住むことが出来ない点です。
 灘区に大規模市営住宅が出来ていますが、出来れば市街地の灘・中央・東灘にもっと建てば一番いいのですが良いのですが、私の知る限り、そこの場所しかないようです。中央区にもっと建ててくれれば多くの人が喜んで移り住むでしょう。
 神戸といっても不便なところも多いことを全国の人に知ってもらいたいのです。これはぜいたくなことかも知れませんが、田舎風の神戸に住みたい人がいるでしょうか。神戸は都会です。都会暮らしの人が田舎でなじめるでしょうか。田舎田舎これが現実です。再建はまだまだ難しい点も多いのが現実ではないでしょうか。
(1999年1月17日)


 現在、元の土地にマンションが建ち入居しております。仮設暮らしは辛く長いものでしたが、今、こうして安心して暮らせるのも両親のおかげだと思います。夏はクーラーいらずで涼しいのですが、冬はとても寒いです。立っている場所は都心の下町です。新しくなじまなければならないことは多々ありますが、住み慣れた元の場所では知人友人が数多く、スーパーや店舗も多く、三宮までも近く便利です。始めから住んでいて、地震がなければ良い場所だとは改めて感じなかったかもしれません。ちらほらと仮設を見ると、もうほとんど住んでいる人もおらず、皆引っ越しできたのだと、復興の二文字が強く思います。経済力のない独り暮らしのお年寄り、それも都心に近い仮設住宅ほど残っている人も多く、多々感じます。
 現在須磨の奥の方にしか、市営住宅はないとのこと。それが嫌なら自分の住みたいところで家を買って住んでください。もはや地震後ではないのです。もう、5年も経つのだから、行政は何もしてくれませんし、個別に住宅斡旋を受けて市営住宅なり県営住宅なりうつれるよう祈っております。バスなり利用する郊外の生活が抜けきらず、すぐバス人にのってしまいます。ここでは自転車ですべていけるのに、自動車まで持っています。両親も退職し、車はいらないと思うのですが、地震で残った車ですし、今更手放せません。神戸の空港は賛成です。より良い都会へとなるよう、神戸市民の皆さま頑張りましょう。 (1999年1月4日)


 昨年12月7日に東灘区復興新築マンションが完成し、引っ越しました。

 気持ちはこんなうれしいことはない。まるで東灘にいるのは夢のようで実感が湧か ないけど、広いリビングや個室の部屋を見るたびに復興してかえってこれたことを喜 ばしく思います。

 今、東灘は9.9割復興して工事中のところも少しあり、更地も少 しあるけれど、ほとんど全滅で何もなかったのがうそのように家が再建され、元以上 にすばらしい街に戻っています。この家並みを見るたびによかったな、みんな戻って これてと思います。住宅の4次募集でほとんどの人たちが当選したらしくよかったと 思います。あのまま県外へ行った人や西神ニュータウンに移った私たちは、とにかく 毎日東灘に戻りたいと常々思っていました。それだけを便りに不便な西区の生活を余 儀なくされたので、ここの便利のよさと素晴らしさは神戸阪神間でも最もすばらしい ので岡本や深江に行くたびもうバスを乗らなくても自転車だけでどこにでも行けるこ とをとても良かったと思っています。自動車やバスで移動したり電車で三宮へ行くた びに一時間もかかるのでとてもいやでした。ここなら一生暮らしたい町だと思ってい ます。家がまたものすごく立派で旅館かホテルにでもいるような夢のような和室とリ ビングで億ションに入ったと喜ばれる反面、妬まれたりしながら。こんなところにこ んな立派な部屋で暮らせるとは思いませんでした。

 市営住宅では東灘は当選は難しいのでよそのところへ移った人はいっぱい知っていますが、まだよかった方で未だ仮設暮らしはかわいそうだと思います。ましてやまたも外れて、狭くて不便な仮設から出 られない人がかわいそうです。神戸市民は今一生懸命がんばってようやくもとの生活 へと落ち着きを戻して新年を迎えることができました。私どももいやなことは忘れて 、ここでの生活を取り戻せたので、あの地震のことを忘れようとがんばります。でも 、古い写真で仮設でいたころのものを見ると、よくあの3年間もがんばれたものだと 感心したり、今の暮らしの違いの激しさに驚嘆します。

 仮設の皆さん、復興を目指してがんばりましょう。私たちもがんばったのだからもう少しの辛抱です。ここを出た ら夢のような生活が待っていると思いがんばってください。以上、感想文を書きました。
(1998年1月7日)


 東灘区の被災地の中でもっとも被害が甚大で、死者が50名もいた町で自宅が全壊しました。その後西区の仮設に移ってきて早3年が経とうとしています。
 家族4人で仮設は狭く、日々大変です。自宅跡には新築マンションを建設中で、今は西区で生活せざるを得ません。2年もの間周辺地権者と話し合いの上、ここまで来ました。東灘では以前の活気ある姿へと復興し、自宅再建率80%まで回復しております。地震では大空襲を受けたように倒壊がひどかったあの時に比べて完全に街は立ち直っております。
 うちの場合、高家賃が払えずやむなく生まれ故郷の東灘から離れて住んでおりますが、経済力のある東灘区民は賃貸マンション等にて東灘から離れずに住む人が多く、ここはとても素晴らしく暮らしやすいところでほとんどの人が満足して暮らせるところだと思っています。
 ところが西区は不便な土地で、バスや車なしでは暮らすことができないほどの田園地で大変苦痛です。かといって便利な場所の市営住宅は大変少なく、不便なところにたくさん建てられて困ってしまっています。良い場所へはまず移れません。西神中央はバスが10分に1本来るのでまだましな方で、買い物ができないほど悪くはなく、いっそこの仮設にいる方が便利ではないかと思うほどですが、西区や北区は住みたくないワースト1の場所なのです。
 一度住んでみればわかります。あの大震災は家を奪い、苦痛を味わせまたこの先不便な場所で困り果て、市営も当選できず悪循環です。東灘区民として早く元の土地へ引っ越すことが復興の本当のあるべき姿だと思います。
  (1997年8月5日)


 まだ仮設で暮らしています。以前住み慣れた同じ地に新築マンションを作っており、11月15日をもって引っ越しでき、神戸の被災者としてやっと復興できます。これまでは、毎日苦しい日々を送っており、早くマンションに入りたいと希望のみで、それを楽しみに日々暮らしています。同じ被災者でも復興できた人とできない人の間に深い溝があるように思います。わが家でもまだ仮設にいるので、どうしても地震の被災者であるとの意識が強く残っています。友達に自身の話をすると変な顔をします。家が大丈夫だったんです。1日も早く復興して仮設から出ていくことが被災者共通の願いではないでしょうか。
 それ以外では経済的に調達するのに不安が残ることがあると母親が書いてくれといわれて書いていますが、家と茶碗が割れるのと違って、たしかに家を買うことがいかに大変か、そして被害が一瞬だったのに家を作るのにも時間がかかって大変か、つくづくそれを感じます。
(1997年7月31日)






沢田 昌弘さんへ届いた『かみひこうき』



1.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)

2.古川飛祐さん

 こんにちは。99年2月2日のかみひこうきを拝見しました。どうするのだろうと気になりま す。お体に気を付けてこれからも神戸のことを伝えて下さい。
(1999年8月21日)

3.古川飛祐さん

 こんにちは、寒い日が続きますが、お元気でお過ごしでしょか? 昨年から「かみひこうき」にメッセージを寄せ始め、様様な声を聞きました。これからもずっと続けていくつもりです。お体を大切になさってください。良い年になりますよう、心からお祈りします。
(2000年1月23日)


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