小山 毅さん(仮名)

  (住所:神戸市 年齢性別:49才男性 職業:自営業)


平成14年を振り返って
 昨年の4月頃に我が家の愛犬(チビ・牝・13才)のお尻に腫瘍が出来ているのに気が付き、その腫瘍が日毎に大きくなり、6ヶ月ほどでソフトボールほどの大きさになってしまいました。行き付けの獣医はそんなに大きくはならないと言っていたので安心していたのですが……。

 そんな時、近くに新しい獣医が開院したので診察してもらう事にしました。その結果、あまりにも大きくなり過ぎているので、摘出手術をすれば歩行障害が出るだろうと言われました。しかし又、このままだと腫瘍が破れて、もっと大変な事になるので歩行障害が出ても手術をした方が良いではとの事なので思い切って摘出手術をしてもらいました。
 手術は約5時間かかったそうです。動物病院には手術の日を含めて2日間入院したのですが、退院日の午前9時頃に動物病院から電話が有り、歩行障害もなく歩けると聞いた時は本当に嬉しかったです。

 チビの腫瘍が治り「ホット」したのも束の間、今度は妻が静脈瘤と診察され手術する事になりました。幸い手術は入院しないで通院して手術が出来たので大事にはならなかったのですが完治する迄、3ヶ月程通院しました。

 そんな訳で昨年も色々と抱負はあったのですが、何一つとして目標は達成出来ませんでした。  今年はあの震災から7年が経過して8年目の年になりますが依然として仕事も殆ど無く、眠れない日が続いていますが今年も精一杯頑張ります。

「Never Give Up」「陽は、また昇る!」
(2003年2月14日)


 私の場合、22才の時に交通事故が原因で両下肢が不自由になりました。それから30年間、多くの友人や知人に恵まれ自分の人生を悔やんだりしないで生活してきました。両下肢が不自由になってから始めた仕事も順調で、毎日の睡眠時間は4時間で頑張って来ました。

 しかし、その無理がたたり、1994年9月からこの長いトンネルに入ってしまった。右足切断のため長期入院、自宅兼仕事場売却と本当に辛い事が続きました。でも、その時はこのトンネルがこんなに長いトンネルだとは思わなかった。
 世間にも大きな出来事があった事も影響しているのは事実です。神戸淡路大震災・アメリカに於ける多発テロ・長引く不況等々。個人的には親父・叔父の相次ぐ他界など、あっと言う間に8年が過ぎて行こうとしているが、トンネルの先にはいまだに一点の灯りも見えてこない。

 それは、21世紀になったからと言う訳ではないと思うが、今、日本が、いや世界が大きく変貌しようとしている。好景気・バブル景気時代の大量生産・大量消費の時代が終わり、次の時代のあり方を模索している時代になったのだと思う。言い換えると、好景気・バブル景気・大量生産・大量消費の時代の「大きなツケ」に気付き、その「大きなツケ」を返していく時代になったからだと思う。ただでさえハンディキャップの有る我々にとって、ますます大変な時代になりそうだ。

 出口の見えない長いトンネルはまだまだ続きそうだが、きっと出口にたどり着く事を信じて頑張って行きましょう。
(2002年8月27日)


 何となく夢と希望を持って迎えた21世紀の初めの年は決して良い年とは言えなかったですね。
 中でもニューヨークの同時多発テロは、とても現実に起こった事とは思えなかったです。同時に人間の愚かさを感じました。

 いったい、21世紀はどんな世紀になるのでしょうか?
 そんな不安な気持ちのまま震災8年目の正月を迎える事になりました。
 我が家はお蔭様で大過なく新しい年を迎える事が出来た訳ですが、時間だけが経過して行くだけで、何となく「欲求不満」という感じで毎日が過ぎていきました。自分なりに努力しているのですが結果がでないのです。そんな時は、いつも「今の世の中が悪いんや……」と責任逃れをしています。

 そんな「のんき」な事を言っていても、最近思う事は月日の経つのが余りにも早いと感じることです。あの大震災を経験してからもう7年も経過してしまったのです。なにも結果が出ない生活を送って「人生の約十分の一」を費やしてしまった事に対して自分自身に嫌悪感の様なものを感じると同時に自分の年齢を考えた時、何時までもこんな事をしていてはと焦ってしまいます。
 焦っても仕方ないので、今年もいい年になる事に期待してマイペースで頑張るつもりです。
(2002年2月13日)


21世紀になって思う事
 幼い時から21世紀には希望と憧れを持っていました。今年からその21世紀が始まりました。街には高層ビルが立ち並び、そのビルの間を高速道路が立体的に走り、空には音速で大型ジェット旅客機が飛び交い、民間人で初の宇宙旅行をして来た人も現れました。こんな様子を見ていると、幼い時から憧れていた21世紀そのものです。しかし、現実問題として21世紀になった現在にも相変わらず貧困、飢餓、殺し合い、いじめ等の諸問題が多々あります。むしろ、昔のほうが良かった事も沢山あります。

 大震災を経験した我々も、あれから6年半が経過して21世紀は訪れました。21世紀になって今の自分を診た時、幼い時に夢見た21世紀の自分と今の自分とはあまりにもかけ離れているなぁ……と思います。私の21世紀の出発がこうなったのは、確かに自分自身にも問題があったでしょう。でも、自分自身がどんなに努力していてもあの大震災から逃れる事は出来なかったでしょう。震災以外にも同じ様な事が色々有ります……。運が悪かったんでしょうね。いや、大勢の人が亡くなっているのに、怪我もせずに済んだのは運が良かったのかも。
 いずれにしても、それが運命なのです。そして運命というものは、いくら創意工夫しても音速ジェット機や高層ビル等を造るような訳にはいかないのです。21世紀になっても22世紀になっても……。

 そんな事を言いながら、自分は強運な人間ではないのが分かっていて宝くじを買ったり(10枚)している愚かな人間です。
 震災復興住宅にも高齢化などの色々と問題が出て来ているようです。自治会の役員になって皆の世話をする方がなかなか集まらない様です。日本の経済もなかなか上向きになりそうに有りません。幼い時に夢に見たような21世紀は何時来るのでしょうか。
 名実共21世紀と言える日が来る事を信じて、生きている限り頑張りましょう!
(2001年6月20日)


 西暦2000年、あの震災から6年目の年も、もうひと月が経過しようとしています。
 震災から5年経過したと言う事で、昨年の暮れから今年の震災記念日に掛けて阪神淡路大震災に関する報道がされていました。
 それらの報道を見て、改めて震災からの5年間に体験した事を振り返って考えてみました。この5年間には本当に色んな事がありました。しかし、残念らがら努力した割りにはこれと言った成果が上がっていません。つくづく、自分の力の無さと不運を嘆いています。

 先日、ある新聞にこんな記事がありました。
 「人生は少しも平等じゃない。重い病気で長い間入院生活をしている人もいれば、軽い病気で一日だけ入院して帰っていく人もいる。また、こんなにいい人が、なぜこんなに重い深刻な病気に罹るのだろうと言うような事もよく聞く話だ。そもそも、世の中は初めから平等なんてありえない。生れ落ちたその時から、一人ひとりが違う人生を背負っている。
 生も死も、自分のい思い通りにならない。運命は不平等で理不尽なものである。けれども、それを受け入れる事から始まる。運命の向こう側にある平等は、あらかじめ与えられるものではなく、勇気を持って自分から求めていくものだ。……」感動しました。

   まだまだ景気も良くなっているとは思いません。西暦2000年になったからと言って自分を取り巻く環境は何も変わりません。そんな環境を受け入れた上で、勇気を持って自分の人生をいい方向に変えていきましょう。
(2000年1月25日)


 久しぶりに投稿します。昨年の10月にまた入院、今年の4月に退院しましたが、経過が良くなかったので退院後もほとんどベッド上での生活でした。おまけに、9月には膀胱結石で入院、震災後4回目の入院となりました。その間、手術は大小含めて5〜6回。
 そんな訳で落ち込んでいたのですが、先日、震災の時にお世話になったボランティアの方とお話をする機会があり、新たな勇気が湧いて来ました。とはいっても何も明るい材料は無いのですが、来年は2000年、区切りのいい年に気持ちを入れ替えて心機一転して再出発しなくてはと思っています。
 私の年齢も来年で50歳で区切りがいいのです。きっと何か良い事があるでしょう。

 話は変わりますが、ホームページを作りましたのでぜひ、ご覧下さい。メールお待ちしています。
 アドレスはhttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/1768/ です。
(1999年10月30日)


 今年は1999年、世間では世紀末だの「アルマゲドン」などと、いかにもこの世の終わりかのような報道がされています。確かに最近、世界各国で発生している異常気象や北朝鮮のミサイル発射、イラクの紛争、インド・パキスタンの核実験、など不安が一杯です。本当に今年は世紀末なのかもしれませんね?。
 このような情勢に加えて戦後最悪と言われる不景気の中で、あの震災から5年目の年を迎えました。仮設住宅から今の市営住宅に引っ越してはや、2年が経過しようとしています。生活環境はその頃から比べると格段に向上しました。しかし、毎日の生活はまだまだ不安で一杯です。以前のように仕事がないので経済的に不安なのです。この不況は私たち自営業者にとって震災の苦労を追い討ちをかけられているようです。何とかしなければと思うのですが、どうにもなりません。

 先日の神戸新聞に失速した被災地経済という記事で目に付いたものを抜粋して箇条書きにしました。

 しかし、私達はあの大震災を乗り越えてここまで来たのです。「山より大きな猪は出ない」。ここはしばらくの間、開き直って行く事にします。
(1999年1月13日)


 1998年、新しい年が始まってもう1ヶ月が経過しようとしています。本当に月日の経つのは早いものですね。先日テレビを見ていると、あの大震災の年に中学校に入学した子供さんが、今年はもう卒業するとの事。当たり前の事ですが、改めて月日の経つのは早いなぁ……と感じると同時に、我が家の生活や自分自身が進歩していないのに落胆しています。

 自分では一生懸命頑張っているつもりですが、飛び越えるべきハードルが日増しに高くなっていくのです。消費税のアップ、不況etc。下肢障害者で自営業の私には、あまりにも高くなりすぎたのではと感じている今日この頃です。

 しかし、何とかしてこの高いハードルを越えない事には、どうしようもないのです。カッコよく飛び越えなくてもハードルを倒してでも乗り越えて行くつもりです。

 今年は寅年です。私も寅年生まれです。何とか寅にあやかりたいものです。
(1998年1月12日)


 抽選に当たり、今年の6月に希望に胸を膨らませて、あの不自由な仮設住宅からこの市営住宅に引っ越してきました。
 あれからもう3ヶ月が経過しようとしています。あの仮設住宅に比べると確かに生活環境は格段に向上しました。しかし、相変わらず毎日不安な気持ちで生活しています。と言いますのも、私は車椅子を常用する身体障害者ということもあり、以前から在宅で自営業を営んでいたのですが、その仕事がないと言っていいほどなのです。原因はいろんなことが重複しているので、一概には言えませんが住居(仕事をする場所・地域)が変わったのも一因だと思います。

 仮設住宅では家賃も要らなかったのですが、今度の住宅では家賃も要りますし、震災の時に借用した生活復興資金の返済期日も迫ってきます。何とかしなければ、といろいろ思案しているのですが……。まあ頑張ります。応援していて下さい。
(1997年8月31日)


 約2年間の仮設住宅での生活を経て、このたびやっと恒久住宅(市営住宅)に転居することができました。

 私は車椅子を常用する一級身体障害者です。仮設住宅はいたる所に段差があり、私のような車椅子の常用者にはとても生活し難い環境でした。何より苦労したのは、トイレとお風呂です。ユニットバス式でとても狭いうえ入口には約40cm程の段差があり、現状のままでは使用できませんでした。また、玄関には高い段差があり、スロープを付けてもとても急勾配になりました。畳の上で車椅子を使用するのも変な感じでした。地域のボランティアの方と、病院リハビリ関係者などのおかげで色々と工夫をして、どうにか生活できるようになりましたが、こうした思いは私ばかりではなく、お年寄りなど体力のない方にとっても同じだと思います。

 実は私は震災の前から体調を崩し入院していました。震災は病院で入院中に起こりました。やっとの思いで退院したのがわが家ではなく上記の仮設住宅だったのです。退院後6ヵ月で又、再入院したこともありました。

 こうして、やっと新しい生活を迎えることが出来たのですが、これまでに費やした約2年間のブランクは大きく、健康面、経済的なこと、仕事のことなど新たな不安が一杯です。
(1997年6月6日)






小山 毅さんへ届いた『かみひこうき』



1.馬場雅裕(OLIVES LEAF NETWORK)さん

 ボランティアごとで申し訳ありませんが、ボランティアというのも結構えらかったりもします、大変なこと、辛いこと、名古屋のボランティアをしている子で、車椅子に乗ってやっている子がいます。でもいつも笑顔で頑張っています。えらそうなことはいえませんが、そんな心が大切なのかなーって考えたこともあります、何か、前向きにいきると、心強いように感じました、そんな思いでやってみてはいかがですか?
(1997年6月26日)

2.永田雅人(Wally)さん

 初めまして、私は阪神・淡路大震災でボランティアの世界に迷い込んだ者です。あれから年に3回程神戸に出かけています。
 毎回出かける度に、神戸の移り変わりと変わらぬものを感じて関東に戻っています。
 本来変わらなければならないものが変わらなくて、変わらないで欲しいものが変わってしまう・・・このもどかしさを感じながらも、私はまだまだ皆さんと語ったり遊んだり、時にはイベントを起こしたりしたいと思います。
 ですから、今後ともども「遠くの隣人」としてよろしくお願い致します。
(1997年11月18日)

3.古川飛祐(埼玉県)さん

 「カッコよく飛び越えなくてもハードルを倒してでも乗り越えていく」こんなに強く確かな決意を私は知りません。ハードルの存在を感じると同時に、逃げ出すことを繰り返してきた自分をようやく恥ずかしく思うようになりましたが、この言葉で完全に目が覚めました。もう逃げません。倒してでも進んでいく、本当の勇気を教わりました。逃げている場合ではありません…自分ではどうすることもできないハードルを抱えている方々に対し、行政などの面で私にもできることがないか探し、見つけたら力を惜しまずにやっていきます。
 人生で大切なことを教えていただきました。どうもありがとうございました。御恩は決して忘れれません。私はずっと神戸のことを考えていきます。
(1998年2月1日)

4.浦嶋三四さん

 お手紙ありがとうございました。下手なちぎり絵にお礼を言って頂き幸いです。大震災が昨日のことのように思いますのに、もう7年が経ってしまいました。私方奈良でもいつ起こるかわかりません。一日も早く平和な住みよい日本にして頂きたいですね。どうぞ前を向いて元気で頑張って下さい。まだまだお若いですもの。私の子供はもっと年上です。年を重ねすぎていますが、前向きに過ごしています。どうぞお体大切にお過ごし下さい。
(2002年3月12日)


小山さんのその後・・・『かみひこうき』


 拝啓 先日はお忙しいところ本当に有難うございました。
 あれから1カ月が経過してやっと落ち着いた感じです。その間、私もインターネット「かみひこうき」に何回かアクセスし、他の被災者の意見も拝見いたしました。たいへん参考になりました。

 モデムが古くてスピードが遅いため、NTTの請求書を見て驚いていたのですが、私の記事を見た方からお便りを下さったと連絡を頂き感動しました。これからも機会があればどしどし投稿して、これからの小山 毅の行き様を見守ってもらえればと思います。

 まだまだ仮設住宅で不自由な生活を送っている方がたくさんいらっしゃいます。「かみひこうき」の方々がますますご活躍下さいますようお願いいたします。どうも有難うございました。敬具
(1997年7月3日)


小山さんへ『かみひこうき』を送る

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